春爛漫に神を知る

このところ急に暖かくなり、一気に春めいてきた。

ちょっと散歩に出かければ、正に春爛漫、百花が咲き乱れており、陳腐な言葉ではあるが、今更ながらに自然の美しさに驚嘆する。

特に私の目を惹くのが白い花々と黄色い花々である。

白い花と言えば、雪柳(ユキヤナギ)や小手毬(コデマリ)、白木蓮(ハクモクレン)など。

黄色い花では連翹(レンギョウ)やミモザ、そして何と言っても私の故郷の菜の花畑を思い出させるアブラナが私の心を捉えて止まない。

花々は、明るく優しい春の光の中で、自らの命の輝きを鮮烈に放っている。

次のようなイエス・キリストの言葉が真実であることを、改めて気づかせられる思いである。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 マタイ 6:29~30

また花々を見ていて、気がついたことがある。

花々は日の光に照らされ、風に揺られている瞬間に最も活き活きと、その命を輝かせているように私には感じられたのである。

ヨハネはイエス・キリストを「すべての人を照らすそのまことの光」であると証言している。

また主イエス・キリストご自身が、自ら「わたしは、世の光です。」と証言しておられる。

光とは命を輝かせるものであると私は考えている。

命を輝かせるとは、その命が持っている性質を最大限に引き出すということではないだろうか?

光の中で、雪柳はより雪柳らしく、連翹はより連翹らしく、人間はより人間らしく、その命を輝かせることができるのではないだろうか?

もっと言えば、イエス・キリストという光に照らされて、私という人格は、他の誰とも違う、より自分らしい自分になれるのであると私は考える。

自ら「わたしは、世の光です。」と証言しておられるその同じお方が「あなたがたは、世界の光です。」と、私たちキリスト者について証言しておられる。

ここから私は、私たちキリスト者は世界中の人々が、自分らしい自分になれる世界を実現するために世に生きているのだと考える。

ここで、同じように風についての聖書の言葉にも思いを巡らせてみる。

旧約聖書の多くの箇所において、風は、神の命、神の力、神の働きの象徴とされている。

神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。 創世記 8:1

あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。 出エジプト 15:10

数え上げれば切りがない。

そしてイエス・キリストは風を、神の霊すなわち聖霊の象徴として用いた。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。 ヨハネ 3:8

ここから、風もまた命を輝かせるものであると私は考える。

春爛漫を愛でつつ、聖書の言葉に思いを巡らせたとき、神がご自身を自然の中にあらわされるお方であることを改めて知った。

今日私にあらわされたのは、春爛漫の力強くも優しい自然であった。

しかし、私たちが経験として知っている通り、自然は優しいだけではない。

自然は人間に支配されるものではなく、殺し、壊し、奪うという恐るべき力をも持っているものである。私たちは、この自然を創られた神は、それ以上に恐るべきお方であることも忘れてはならない。

私たちにとって幸いなことは、神は自然とは違い、人格あるお方であり、そのご人格は、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる」ということである。

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二つながら神から与えられているもの

以下は3月16日(月)の岐阜新聞に掲載されたコラム『分水嶺』の記事である。

梅から桜への間にも、いろんな花が春の訪れを伝えている。わが家の小さな庭でも沈丁花(じんちょうげ)が満開を迎えた。華やかさよりは香りで知られるが、花もなかなか面白い。つぼみのころは少し紫がかった赤色で、開花とともに白が広がる。花弁の外側は赤でも内側は白。外側を隠すように開花は進むので、全体の色も赤から白へと変化する。そんな紅白の対照が楽しい沈丁花だが、目を射るばかりに鮮やかなのは連翹(れんぎょう)の黄色だ。春がすみの中にあっても、つるのように長い枝を揺らしつつ、春の眠りをむち打つような原色の黄色を放っている。「日本大歳時記」にこの二つの花にちなんだ句があった。《部屋空(うつ)ろ沈丁の香のとほり抜け 池内友次郎》《連翹のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎》。俳人たちは「部屋空ろ」や「うれひかな」と、喜びあふれるはずの春の風物を前に憂愁の思いも感じている。だが、そんな春の愁いをいち早く見いだしたのが万葉歌人だったことに驚かされる。《うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば 大伴家持》。歌人でもあった国文学者折口信夫は《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》と、家持の鋭敏な感性と時代を超えた普遍性を指摘している。明と暗、歓喜と憂愁。古今の詩人たちは日々の生活だけではなく、自然の営みにもそれをくみ取っていたようだ。

この記事を読んで、私も、大伴家持のような《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》でありたいと改めて考えさせられた。

明と暗、歓喜と憂愁、これらは確かにはっきりとした境界線を持たずに、私たちの生活に混在する。

明と暗、歓喜と憂愁。或いは、私たちはその間に生きているということもできよう。

私は私という人格について、聖と俗の狭間に生きる「ひとりの人」であると考えている。

同じように私は明と暗の狭間、歓喜と憂愁の狭間に生きる「ひとりの人」でもある。

明と暗、歓喜と憂愁。これらは私にとって、いずれも、二つながら神から与えられているものである。

わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。 イザヤ45:7

神から与えられるものは全て感謝して受けるべき恵みであると考えるべきである。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 Ⅰテモテ 4:4

今、我が家の庭では、水仙(すいせん)が花盛りであるが、雑草も伸び盛りである。

水仙は春の訪れという歓喜を私にもたらし、雑草は労苦して草むしりに励まなければならないという憂愁を私にもたらしたわけである。

主の御名をほめたたえつつ、二つながら感謝して受けよう。

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慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 Ⅱコリント1:3

今この瞬間も、世界中の多くの人々が慰めを必要としている。

ほんの少し想像力を働かせれば、人類の歴史は常に大いなる慰めを必要としていたことが、誰にでも分かるに違いない。

世界は苦難と悲しみが溢れていて、私たちはいつでも大いなる慰め主を必要としている。

そして聖書は神こそが偉大な慰め主であると証言している。

神は完全なお方であるから神が慰め主であるというとき、それは完全な慰め主を意味する。

私たちには他者の苦しみに対する想像力と、理解によって慰めの言葉を語ることが、確かに可能である。

苦しむ人々も、その慰めの言葉から、確かにある程度の慰めを受けるであろう。

しかし、慰められる者は、自分の苦しみは完全には理解されていないであろうことを知っている。そしてそれは自己憐憫による誤解などではなく、事実である。

私たち人間に、他者の苦しみや痛み、辛さを完全に理解することなど不可能である。

しかし完全な慰め主である神は、禅者牧師と呼ばれた吉田清太郎の言葉を借りれば、「天と心に住む神」であるであるから、私たちの心の隅々までを理解することが可能である。

そればかりか神は私たちの心と身体を創られた方なので、全てのことを知っておられる。

完全な慰め主は、自らがその慰める対象と同等の苦しみ、悲しみを経験していなければならない。

必要なのは経験であって、想像力や理解ではないと私は考える。

なぜなら私たちは、たとえそれがどれほど慈愛に満ちた言葉であろうとも、苦しみの経験を持たない者の慰めを受け入れないからである。

涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味は分からないというゲーテの言葉を、私たちは真実として受け入れる。

私たちの神は、人類の歴史の只中に、ナザレのイエスという一人の人間として入り込み、まさに「涙とともにパンを食べた」お方であり、さらには信頼していた友に裏切られ、誰からも見放され、その十字架の苦しみの極みの中で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」とまで叫ばれたお方である。

このように人間の苦しみを極みまで経験されたお方であるから、私たちはこの方の慰めを受け入れることができる。

私たちはそのような完全な慰め主を絶えず必要としているはずである。

慰められる者が神によって慰められるために、どうしても必要なことがただひとつある。それは、神が人間の苦しみを極みまで経験された、まさに完全な慰め主であることを知ることである。

この事実を心から理解し、その神が今も生きて私たちを愛しておられることを知ったとき、私たちはすでに完全な慰めを受けているのである。

また世界が現実に慰められるためには、慰め主には力がなければならない。

世界は病み、呻いている。

しかしここでも私は世界を構成する一人ひとりの人格的な人々、個人に目を向けたい。

一人ひとりの人格を完全に救済する力こそ、世界を慰める力であると私は確信する。

そして「ひとりの人」を完全に救済する神の力は、聖書においては「死者をよみがえらせる」という言葉で完全に表現されている。

そして聖書は、神がイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのと同じように、私たちをよみがえらせてくださると約束している。

私たちの希望は、この主イエス・キリストの復活にこそあるのである。

また私はこれまでの人生においてひとつのよみがえりを経験している。

それは私がイエス・キリストを神として受け入れキリスト者となったという経験である。

これは今のわたしにとっては、「死んでいたのが生き返った」のと全く同じ意味を持っている。

イエス・キリストが語った有名な放蕩息子のたとえ話は、私にそのことを確信させるのに役立つ。

「絶望は死に至る病である」と書いたとき、キェルケゴールは唯一の救いであり、慰めである神を見上げていたのだと私は確信している。

慰められるとは、人が絶望の中で希望を見出すことであると私は考える。

聖書が語る「慈愛の父、すべての慰めの神」を知るとき、私たちには永遠にまで続く希望がある。

このことを覚えるとき、最初に引用した聖書の言葉は、私たちの心からの祈りになる。

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

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天の父が完全なように、完全でありなさい。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 マタイ5:48

この言葉は「心の貧しい者は幸いです。」という驚くべき言葉から始まるイエス・キリストの有名な説教である山上の説教のなかで語られたものである。

天の父とは父なる神である。イエス・キリストはその神が完全であるように、私たちも完全でありなさいと仰った。果たしてイエス・キリストは私たちに不可能な重荷を無理矢理に負わせるようなお方であろうか?

それとも、ある憐れみ深い牧師がかつて私に語ったように、このような聖書の中の達成不可能と思われるような命令は、私たちの不完全さを示し、謙虚と謙遜を与えるために、達成不可能であることを前提に語られているのであろうか?

以前は私はそのような理屈にも納得していた。そしてそのように考えることは確かに私の信仰生活に少なからず良い影響をもたらしてもいる。

私は自分の限界を知り、主イエス・キリストのようにはなれない罪深く弱いものであるからこそ、主の前にへりくだり、赦された罪人としてだけではなく、今も赦され続けている罪人として、それでも「わたしについて来なさい。」と仰ってくださる主の憐みによって、主と共に歩むことができる今を喜んでいる。

しかし、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というこの言葉が、主イエス・キリストの言葉である以上、私はこの言葉に真剣に取り組まないわけには行かない。

ここでイエス・キリストの仰られた父の完全さとは一体何を意味しているのであろうか?

当然考えられることは、神が全知全能であるように全知全能であれという意味ではないということである。

文脈から考えれば、このここの完全さとは、愛における完全さである。

ここでもやはり愛である。

神は、そして主イエス・キリストは、徹底して人間に愛を求めている。

愛についてこの文脈で強調されていることのひとつは、自分の敵を愛することである。

「汝の敵を愛せ」

キリスト教の愛の奨励において最も有名なものが、この敵をも愛する愛である。

このような愛は自然の人間の感情に反するし、実現が不可能であるように思われる。

この愛の奨励と対になって、よく教会の説教において語られる言葉が「愛は感情ではない」というものである。

この言葉によって表現したいことは私にも理解できる。「愛は行為である」とか「愛は決断」であるとか、たとえ感情的に目の前の敵を愛することができないとしても、その敵を赦す決断をするとか、さらにはその敵が窮地に立っているとしたら、その窮地から脱するために積極的に力になるということを奨励しているのである。

このような奨励が実現されたとき、それはまさに敵をも愛する愛であると言えよう。

そして驚くべきことに(私は本当に驚いているし、この記事の読者にも心から驚嘆して欲しいのであるが)教会の歴史の中で、このような愛は度々実現されている。

しかし、敵をも愛する愛が、神の愛の完全さと等しい完全さとして奨励されるとき、その愛に感情が伴っていないとは私にはどうしても思われない。

感情という言葉が人間の罪性を連想させる言葉であるとすれば、別の言葉を用いる必要がある。

神の愛は、心からの愛、さらに相応しい言葉で言えば、全人格的な愛なのではないだろうか?

聖書の神、即ちキリスト教の神は人格的な神であると言われる。そしてその人格とは愛そのものである。そのような神が、その存在の一部においては敵を憎みながら、決断において、或いは行為においてのみ愛するということをなさるだろうか?

そうとは考えられない。そのような愛は完全な愛ではないからである。

私たちは神ではない、弱く罪深い人間である。それはイエス・キリストの福音に出会い、そのイエス・キリストへの愛と信仰を持ったキリスト者になっても完全には変わらない、或いは信仰を持ったことにより、それ以前よりもより深く自分の弱さと罪深さを発見する、そのような者である。

そんな私たちはあらゆる社会生活において敵と対峙したとき、選択を迫られるのである。

敵を敵として憎むか?それとも愛するか?

敵を憎むことを選ぶのも、簡単なことではない。敵を憎めば、その憎しみが私たちを縛る鎖になるからである。それはキリスト者でなくとも経験的に理解していることではないだろうか?

それでは敵を愛するのはどうか?

私は感情にはよらない、決断においてこの敵を赦そうと考えることは、ある意味では憎み続けることを選択するよりもたやすいことのように私には思われる。

もちろん私個人が全ての敵に対してそのように行うことが出来るという意味ではない。

人間はどちらがたやすいかによって自分の行動を選択するのではなく、そのときの気分によって選択するのだと私は考える。

そして気分は良く変わるものである。

そこで、大切な選択をするときには、気分を追いやる必要があると私は考える。

その気分を追いやる方法を聖書は提供していることを私は知っている。

それは沈黙、「神である主の前に静まれ。」という言葉である。

主の前に沈黙するためには、私は自分の全ての仕事を一切止めなければならない。

この神の前での沈黙によって、私たちは敵を愛することを決断することができるのだと私は信じている。

しかしそれはまだスタートであってゴールではない。

ここから「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というイエス・キリストの言葉が心に迫ってくる。私は完全な愛を追い求めなければならないのである。

そして祈りが生まれるのである。

祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ。  キェルケゴール

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 Ⅱコリント 3:18

祈りは御霊なる主の働きの中でも最大のものの一つであろう。

そして御霊なる主は、私たちが自分の仕事を止めて主の前に静まるときに最も力強く働かれる。

残念なことは、私は完全に困窮するまでは自分の仕事を止めないことである。

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なぜ自分は書物を書くのか?

スイスの精神科医ポール・トゥルニエがその著書『人生を変えるもの』の序文で、この問いについて書いている。

そこにはこの同じ設問についてのパリ生まれのアメリカ人女性アナイス・ニンの言葉が引用されている。

「人が書物を書くのは、自分が住みやすい世界を作るためである」

そして、トゥルニエにとっての住みやすい世界とは、「人間同士の間に誠の触れ合いが存在する世界すなわち、互いに心を開くことができ、互いにこうして真実の自分自身になるために助け合うことができる世界」であると書かれている。

私がこの場で記事を書く動機も、恐らくこの二人の先達と同じである。

自分が住みやすい世界、そしてそれは誰にとっても住みやすい世界でなければならない。

トゥルニエが語る住みやすい世界とは、今の私の言葉で表現すれば、全ての人々が人格的な「ひとりの人」すなわちパーソナルな存在として自覚を持ち、しかも尊重される世界である。

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愛がなければ、何の役にも立ちません。

タイトルは有名な聖書の言葉であるが、今日はこの言葉についての黙想をここに記すことにしたい。

聖書の別の箇所には「愛は神から出ているのです。」「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉が書かれている。

そこでこの聖書に土台を置くキリスト教が、愛の宗教であると言われるのは至極当然のことであると思う。

しかしこのことはキリスト者である私にとっては非常に重い意味を持つことになる。

なぜならば、上述の前提に立てば、全てのキリスト者は愛の人であるか、或いは少なくとも愛の人たらんと努力しているのでなければならないのではないかと、私は考えるからである。

ある人々に言わせれば、それは自分で努力するのではなく、神様にして頂くのであるということになろう。

私もその意見に全面的に賛成であるし、私の理解では、聖書もそのように示唆している。

しかし、それを理解したうえでも、私には、この愛の問題は大きな問題なのである。

愛とはいったいなんなのであろうか?

「人類愛」という言葉がある。

「愛は世界を救う」という有名な標語がある。

だれもが愛とは、素晴らしいものであると認めているし、多くの文学者や芸術家たちが、愛が人間の本質的な感情のひとつであり、人間の行動、或いは人間存在そのものを、より高い次元に引き上げるものであると見做している。

上の意見にも私は賛成である。確かに愛は、人間の行動や人間存在を、より高い次元に引き上げるものであろう。

しかしそのような愛が、いったい私のような単なる一人のキリスト者の日常生活のどこに在るのだろうか?

そこで私はいつものように聖書に答えを求めるのである。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 Ⅰコリント13:4~7

聖書による愛の説明はこうである。

私にとっての信仰とは真剣さであるから、この愛の説明にも真剣に向かい合いたいと思う。

この中で語られている一部のものを、私は微少ながら持っていると言っていいかも知れない。

私は人々に寛容でありたいと、絶えず望んでいる。同じように、人々に親切でありたいと望み、礼儀に反することは極力ないように努めているつもりである。そして何よりも真理を喜ぶものでありたいと願っている。

そしてこのような自分を、キリスト者として誇りに思う自分が、私の中に確かにいるのである。

これは高慢と言えるのではないか?

また、怒らず、人のした悪を思わずということも、私に難しい。これは個人的な恨みや憎しみについてもそうであるが、公の正義についても言えることである。いったい公の正義が踏みにじられる時に、怒らずにおられるであろうか?

不正を喜ばずという言葉は、不正を憎むという言葉とは、全く別の意味であるように私には思われる。

真剣に考えれば考えるほど、私の中に聖書が示すような愛はないことが、ありありと理解されてくる。

しかし、聖書は神を愛し、互いに愛し合うように、それどころか敵をさえも愛すように命令しているのである。

そしてそれは、私にはとうてい不可能であると考えられることが時々ある。

愛がなければ、何の役にも立ちません。

この言葉に、私は心から賛同する。

そこで、私には愛がないと感じる時に、私は何の役にも立たない者であるとも感じているのである。

しかし、別の時の私は、愛の人でありたいと心から願い、神に祈り、努力しているのも事実である。そしてそれは、誰のためでもない、自分自身のためなのである。

それはこういうことだ。

私は、もし上述の聖書の言葉にあるような愛を持った人間がこの世にいるとしたら、その人がこの上も無く幸福な人間であることを確信しているのである。

そこで私は、今この瞬間も、私自身の幸福のために、愛の人でありたいと願っているのである。

私は正直に言えば、私と私の家族、そして私の愛する人々の幸福を願っているのであるが、私を含めた全ての愛する人々の幸福が、時として対立することがあることを知っている。

それは上の聖書の言葉で言えば、妬まず、自分の利益を求めず、ということと関係するであろう。

またここでは、幸福とはいったい何であるのかという問題が発生してくる。

またこの文脈において幸福について考えるとき、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶということについても考えさせられる。

聖書の説明する愛と、私の考える幸福は、深い関係にある。これは事実である。

しかし、どうやら私は言葉の迷宮に迷い込んでしまったらしい。

結局はこういうことではないか?

愛とはイエス・キリストの全存在を通して、私たちに教えられているのである。愛を知るためにはイエス・キリストを知るしかない。イエス・キリストを知るということは愛を知ることである。すなわちイエス・キリストを、真実に知った者は全て、イエス・キリストを愛するようになるのである。

イエス・キリストは、あなたは私を愛するか?と、今日も私に語りかけておられる。

私はいつものようにこう答えるのである。

主イエス・キリスト、私はあなたを愛します。そしてあなたはそのことを知っています。

そして主はいつものようにこう仰る。

それではそれで充分である。

そして私はただアーメン(それは真実です)と答えるのである。

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偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?

偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか? という興味深い問いに出会った。 (プラシーボ効果についてはhttp://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.htmlなどを参照)

以下は上記の興味深い問いに対して試みた、現時点での私の試論である。

聖書が偶像礼拝について批判している理由の一つは、偶像礼拝によって、礼拝者である人間も、また礼拝の対象である神も矮小化されてしまうからである。

口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 
                               詩篇115:5-8

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。 
                                      イザヤ44:9

次に聖書の主張する、まことの「神」である「主」以外に、絶対的な権威者として仰ぐべき存在はないということについて。

主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
                                     詩篇95:3

つまり聖書は「主」であるヤハウェのほかに「神々」と呼ばれるものが存在することは認めている。しかし、この「神々」をどのような存在として理解するのかについては多くの議論があるが、ここでの関心は、この点についての詳しい議論ではない。

上記の点を踏まえた上で、果たして偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?という問いについての私の考えを述べる。

『人は神に向けて造られており、人の心は神に憩うまでは安らぎがない』
                            アウグスティヌス著「告白」より

『人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何者をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる。』 
                                パスカル「パンセ」より                                          
これらの先達の言葉から、人間は真実の神を見出して心が満たされるまでは、普遍的に偶像を必要とする存在であると私は考える。

あるジェームズ・フーストンは、その著書『心の渇望』の中で、偶像礼拝は「誤った願望により生じる結果」であると言っている。ここでいう「誤った願望」とは、真実の神によって満たされるべき空洞を、別のもので満たそうとする「願望」であると私は解釈している。フーストンは同じ著書の中で、有名な心理学者のユングの「その神々は死なない」という言葉と、預言者エゼキエルが「神々」を「糞」と呼んだことを引用して、偶像の持つ「汚す力」の危険性を指摘している。

つまり、聖書は「偶像礼拝の無意味さ」だけでなく「危険性」も語っているのである。

さらにフーストンは「神々」が「礼拝を受ける時に現実の力に」なることを指摘している。

その「力」とは「人はマモン(金銭欲の象徴である偶像)のように固く金属的になったり、エロースのように柔らかく官能的になったり、サタンのように残忍で邪悪になったりしうる」というものである。

これを私なりに解釈すると、人はその信じる偶像に似たものとなるということである。そしてその法則は、偶像の「神々」が実在するかどうかに関わらないのだと私は考える。

それは例えば、アイドル(まさに偶像を意味する言葉である)やロックバンド、或いは歴史上の偉人や身近な尊敬する人物に熱狂的になる人々は、その外見や性格、嗜好など、その全人格に渡って、その熱狂する対象に影響を受ける。そしてそれは、その熱狂の対象が空想上の人物(例えばマンガや物語、映画の登場人物)であってもなんら変わりはない。そしてその結果は、ある時には、その人々に、生活上の成功経験(例えば、友人に尊敬されたり、仕事上の成功をもたらしたり、地位や名声を与えたり)をもたらす。この成功経験は、ある意味では熱狂から来る「御利益」であると考えて良いと思う。勿論熱狂は、逆に破壊的な影響をもたらすこともある。

以上の「熱狂による成功経験」の現象が、キリスト教以外の宗教において観察できる場合、これをある意味においては「偶像礼拝におけるプラシーボ効果」であると言って良いのではないかと私は考える。

これに加えて、「逆説的なプラシーボ効果」として、祈願に応じて子宝を授かることや、病の癒しなどの、実は原因は他の所にある現実の現象を、偶像礼拝者本人が、それを本人の信仰の結果だと思い込む場合があるのではないか、また、この「逆説的なプラシーボ効果」には異教的な文化における「たたり」や「呪い」、「神罰」などが含まれるのではないかとも私は考える。

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任命責任

以下は2月19日の中日新聞、朝刊コラム中日春秋の記事である。

「経済財政担当相兼財務相兼金融担当相」。与謝野馨さんの新たな肩書だ。何となく「三菱東京UFJ銀行」を思い出した。従前からの肩書に加えて、後ろ二つの大臣を兼ねることになったのは、その役にあった中川昭一さんがローマでの記者会見で演じた失態の責任を取り辞任したため。カネの問題や失言などによる引責辞任ならともかく、「風邪薬」のせいでというのは、何というか新機軸である。ただでさえ、支持率低迷で苦境にある麻生首相だ。まさに弱り目に祟(たた)り目としか言いようがないが、自民党内でも麻生批判が一層強まり、当然のように野党からは「任命責任」を問う声が上がっている。それはもっともだろうが、ふと考える。では、その麻生さんを首相に選んだのは誰か。自民党総裁に選んだのは自民党員だが、首相になったのは国会での投票の結果。だから「任命責任」は国会議員にあると言ってもいい。しかし、もう一段遡(さかのぼ)り、では、その国会議員を選挙で選び、そういう状況を国会につくり出したのは誰か。認めざるを得ない。それは、われわれ有権者。「任命責任」は最終的にはそこに行き着くとも言える。政権迷走は極限に近づき、今度の一件で早まったのか遠のいたのかさえ判然としない総選挙だが、遅くも今秋にはある。「任命責任」を思って、今度使う一票には今から磨きをかけておきたい。

この記事を読んで、全くその通りだと頷く反面、なにかトラブルや意に沿わないことが起こると、とかく他者に責任を押し付けがちな自分に反省させられた。

私たちは他者の無責任を責める前に、自分自身を省み、自分自身、与えられた社会的責任を果たしているか吟味してみる必要があるのではないだろうか?

勿論、為政者たちには大きな権威が委ねられているのであるから、それに見合う責任を負う義務がある。

キリスト者である私は、政治に無関心であってはならないと私は考えている。同時に、メディアと同調して彼等を責めるだけではなく、為政者たちのために真剣に祈る必要もあることを改めて反省させられた。

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『キリスト教信仰和賛』解説第10回

今回はこの『キリスト教信仰和賛』解説のシリーズ記念すべき一つの節目となる。

一つには第10回を迎えたこと、もう一つには、今回で『キリスト教信仰和賛』「その一」の最後の節を取りあげ完結することになるからである。

私としてはやっとここまで来たという想いであるが、果たしてどれほどの読者がいるのであろうかという疑問もないではない。

もし最近、或いはこの記事で初めてこのブログを訪れ関心を持たれた方は、すべての記事がそれなりに長文ではあるが、カテゴリーの『キリスト教信仰和賛』解説 から、全ての記事に目を通して頂ければ幸いである。

それでは今回の箇所
その一の七、

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

全文は『キリスト教信仰和賛』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この説の一文目は前節に引き続き「ただちに」という語が用いられている。

この「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることは、前回述べた通りである。

そして今回この箇所で「ただちに」せよと勧められているのは「おわび」である。

これは「神さま」に対するお詫びであるから、キリスト教的な意味での悔い改めの勧めである。

前節の「祈り」と「感謝」に引き続き、この詩の作者である吉田師は「悔い改め」を勧めている。しかもその「悔い改め」とは、前回述べたような「自分と全く一体となっている神を覚え、即応答する」という実態を持つ行為としての「悔い改め」を意味している。

私としては、このことを理解した上で、初めて「もし間違いをした時は」と言われる「時」がはっきりしてくるように思う。というのは「間違い」とは一体何を意味するのであるかという問題があるからである。

キリスト教信者、或いはキリスト教に理解のある人であれば、この「間違い」が、「罪」と換言し得ることは容易に察しがつくことであろう。しかし問題は、罪とは一体なんであろうかという質問や、聖書において全人類が罪の下におかれ、その奴隷となっているということが語られている文脈の中で、人間が、或いはキリスト者が「間違いをした時」即ち「罪を犯した時」とは、具体的にはどのような「時」を意味するのであろうかということである。

上述のような質問に対して、一方では盗みや人殺し、或いはそれに先立つ妬みや憎しみを他者に対して抱いた時など、聖書において罪とされている心の中の想いも含めた、具体的な行為を行った時であると答えることが可能であろう。また、人間はすべて罪人であり、たとえ信仰者であろうともこの地上においては、絶えず罪に傾く傾向を持っているのであるから、「絶えず」即ち「無時間的、継続的に」悔い改め続けるべきであると答えることも可能であると私は考える。

上述の2つの回答はどちらも真理であると私は信じている。しかし、この詩のこの箇所の解説としては、どちらも不十分であると私は考える。

後者については、この箇所が「時」に言及していることの意味を薄めてしまっている。対して前者においては「聖書において罪とされている」ことについての個人の知識と理解、解釈によって厳密さがなくなる。「悔い改め」に関して厳密さを欠くということは、真剣さを欠くということであり、真剣さを欠く「悔い改め」はもはや「悔い改め」ではないと私は考える。

この詩句においては「おわび」という語で言われているので、相応しい表現に言い換えれば、「まごころからのおわび」でなければならない。

この『キリスト教信仰和賛』全体に込められた、作者である吉田師の神と人に対する愛と真剣さから言っても、ここで「悔い改め」について真剣さ、即ち厳密さを欠くことは出来ないと私は考える。勿論この厳密さとは、キェルケゴールが言うところの「配慮」即ち「人間的な現実に対する関係」であり「キリスト教的」な「真剣」さに立った上での厳密さである。

それでは果たしてそのような「厳密さ」は、如何にして実現するのであろうか。

それは今日の箇所の二文目の言葉に明確に表されている。即ち「天と心に住む神」である。

つまり、これは同じ「ただちに」という主題を持っている前節の2つの「時」についても同じことが言えるのであるが、「天と心に住む神」と唱え得るように「内在」する神を覚えている者にとっては、「祈り」にしても「感謝」にしても、そして「悔い改め」にしても、全ては「内在」する神に対しての行為であるから、その成すべき時が来れば、その「時」は自ずからはっきりと解るということであり、これほどキリスト教的であり、且つ厳密な内容はない。

言い換えれば、結局のところすべては「天と心に住む神」を覚えることに掛かっているのである。

『キリスト教信仰和賛』「その一」の全文を見れば一目瞭然となることであるが、この詩の第一節、第一の言葉もまた「天と心に住む神」である。またこの詩の全体の内容を概観すれば、その中心的な主題もまた「天と心に住む神」即ち「偏在し且つ内在する神」であることは明らかである。

このように「天と心に住む神」こそが、この『キリスト教信仰和賛』「その一」全体の主題であり、且つ大前提でもあることを明らかにして、この第10回、即ち『キリスト教信仰和賛』「その一」の解説完結編を閉じることとする。

次回はいよいよ『キリスト教信仰和賛』「その二」のお披露目である。

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真理は寒梅の似(ごと)し

今年も梅の咲く季節となった。

今回のテーマは私の座右の銘の一つともいえるもので、同志社大学(前身は同志社英学校)の創立者新島襄の言葉である。

真理は寒梅の似し
敢えて風雪を侵して開く

(しんりはかんばいのごとし
あえてふうせつをおかしてひらく)

この句はもともとは「真理似寒梅 敢侵風雪開」という漢詩であり、現在の同志社大学のキャンパスの礼拝堂近くの「寒梅碑(かんばいひ)」と呼ばれる碑に刻まれている。これは、卒業生で、後に日銀総裁にもなった深井英吾に書き贈った詩であるとされている。

実は新島襄の「寒梅の詩」と呼ばれるもう一つの漢詩がある。

庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁

庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)
笑って風雪を侵(おか)して開く
不争(あらそ)わず又力(つと)めず
自(おのずか)ら百花の魁(さきがけ)を占(し)む

庭先の一本の梅の木、寒梅とでも呼ぼうか
風に耐え、雪を忍び
笑っているかの様に、平然と咲いている。
別に、争って、無理に一番咲きを競って
努力したのでもなく、
自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。

これは新島襄の晩年の作と言われているが、私はこちらの「寒梅の詩」を先に知った。

この詩には後に曲がつけられ、同志社学生混声合唱団設立の端緒となっている。またこの詩は、詩吟として吟じられることもあり、多くの人々に愛されている。

私がこの詩に最初に出会ったのは、神学校の卒業式であり、ある先生が祝辞の中でこの詩を吟じて下さった際、非常に感動したことを今も覚えている。

ところで、上の二つの詩句を比較するとすぐに分かることであるが、二つの詩は「侵風雪開」という共通する詩句を持っているいわば、お互いに深い関わりを持った、兄弟或いは姉妹のような詩であり、少なくとも私はそのように理解している。

詩として私が特に好むのは最初に出会った「寒梅の詩」であり、どこかでそう聞いたからそうなのか、私の思い込みかは定かではないが、「庭上一寒梅 笑侵風雪開」を「庭上の一寒梅 風雪に笑う」という訳で諳(そら)んじており、この「風雪に笑う」という雰囲気が非常に気に入っている。

また、「寒梅碑」の詩では「敢えて」風雪を侵すのであるが、「寒梅の詩」では「笑って」それをするのである。

これは私の想像であるが、「寒梅の詩」が晩年の作であるということから、この変化に、新島襄の「真理」についての理解の深まりがあるのではないかと考えている。

ところで、新島襄は熱心なキリスト者であり、またキリスト教の布教者でもあったことは周知のことがらであるから、ここでの「真理」とは、究極的には聖書の真理、キリスト教の真理であると私は考えている。

そこで上述の「真理」についての理解の深まりということについてであるが、私の考えでは、「寒梅碑」の詩を読んだ時点での新島襄にとっての「真理」とは、どんな事情が在ろうとも変転させずに堅く守るべきものであり、それを曲げようとする「風雪」のごとき外圧に対しては、敢えてそれを侵して断固として守るべきものであったのだと思う。また、私の考えるキリスト教的真理とは、いつの世の時代の精神や常識に対しても、常に全く対抗するラジカルな価値観を主張するものであるから、当然世の厳しい風雪に晒されることとなる。したがって、私は、この「寒梅碑」の詩の真理についての教説に賛同するものである。

同時に、新島襄の晩年の作と言われる「寒梅の詩」には、さらに深い共感を覚える。

「寒梅の詩」を、「寒梅碑」の詩における「真理」との関連で解釈するならば、次のようなものであろうと私は考える。

寒梅が風に耐え、雪を忍び、笑っているかのように、平然と咲いている。しかもそれは、争って、無理に一番咲きを競って努力したのでもなく、自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。真理とはまさにそのようなものであり、真理は真理である故にあらゆる非難や誤った考えに晒されようとも、定まったときには自然に明らかにされるのである。しかもそれは論争や努力によるのではなく、真理そのものの性質の故にである。

新島襄にとっての真理、即ちキリスト教の真理とは、そのまま神そのものとも、イエス・キリストご自身と読み替えて良いものであると私は考える。

キリスト教の真理を知るというのは、神を知ることであり、即ちそれはイエス・キリストを知ることである。

また真理である寒梅が百花の魁となるイメージから、私は聖書の次の言葉を思い浮かべる。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。 箴言9:10

主、即ち神を恐れ、聖なる方を知ることこそ、キリスト教的には真理を知ることである。この真理を知ることは、百花と譬えられるような、この世のあらゆる知恵と悟りにさきがけてどうしても必要なことであると、この箇所から教えられる。

また最近の私の関心である「仏教とキリスト教の対話について」という観点から、沢庵和尚が柳生但馬守宗矩に書いて与えた「剣禅一致」極意書と言われる『不動智神妙録』から次の一文を紹介したい。

「如何なるか是れ仏法の極意」と問わば、その声未だ絶えざるに、「一枝の梅花」なりとも、「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりとも言ふべし。

新島襄は上州安中藩の藩士の子、つまりは武士の子であるから、あるいは上述のような沢庵和尚の書にも接していたのではないかと思う。もしそうであれば、「寒梅の詩」は、またさらに意味深いものとして響いてくる。また、たといそうでなくとも、真理を寒梅に譬えた新島襄と、仏法の極意を「一枝の梅花」或いは「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりと著した沢庵和尚の書の驚くばかりの一致に、まさに真理は「寒梅の詩」に表現されているとおりに、自ずから明らかになるものであると、改めて思わされる。

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