創世記1章26節から「神かたち」についての推論

創世記1章26節において、神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と書かれている。

ここには人間のモデルになる「神のかたち」が前提とされている。

この「神のかたち」については、異なる幾つかの説に分かれるのであるが、「人間が神のかたちとして創造されたという表現は、人間が他のすべてと相違する存在とされていることの最も明確で端的な表現」であることは間違いないであろう。

このことを前提とした上で、「神のかたち」について、以下で、私なりの推論を述べたい。

まず26節において神が「われわれに」という、一人称複数で自らを示している点について、私は「後の啓示の中で、三位一体としてはっきり定義され得るようになる神についての事実が、ここに顔をのぞかせている」という、聖書信仰の立場で最も受け入れられている解釈を支持したい。

つまり、ここにおいては「神」という「唯一の存在の中に父と子と聖霊なる(個としてはっきりと区別し得る)三位格が存在する」という点が、はっきりと明言されないまでも、暗に前提されていると私は考える。

つまり、神はその内に「われ」と「なんじ」と明らかに区別されるべき立場を持ち、さらに言えば、その内面に「対話」し得る複数の人格を持っているのということである。

次に、「かたちとして」と「似せて」という二つの類義語については、同義ではないにしても、全く別の内容を意味するものではなく、敢えてそれぞれに解釈するとするならば、「かたちとして」は、「その内面に「対話」し得る複数の人格を持っている」という、その「存在の在り様」に対応し、「似せて」は、その「内面的対話を行う」という「性質」に対応するのではないかと私は考える。

26節をこのように解釈するとき、K・バルトやボンヘッファーらの、27節において「男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する」解釈も、より肯定し得るものになる。

すなわち「人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」「なんじ」に相当するもので、類比の関係がここにある」とする解釈である。

人間のモデルである「神のかたち」をこのように解釈するとき、人間の創造の最終的な帰結として、創世記2章24節の「男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」という言葉の真意が、明らかになるのではないだろうか。

さらにパウロは、エペソ人への手紙5章31節において、創世記2章24節の言葉を引用した上で32節において「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と書いている。

多少の議論の飛躍があることを自覚しながらも、敢えて、上記の推測を踏襲して、新旧約聖書全体の文脈から解釈するならば、創世記1章26、27節において人間に与えられた「神のかたち」とは、「キリストと教会」すなわち「神と人間」が、「結び合い、、一体となる」能力、或いは性質ということもできるのではないか。

以上が「神のかたち」についての私の推論である。

参考文献
新聖書注解 旧約1(いのちのことば社)
新聖書辞典(いのちのことば社)

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現代社会における弁証法の意義

ヘーゲル哲学の方法は一般に弁証法と呼ばれる。

「弁証法」という語を辞書で引くと「対話・弁論の技術の意。(大辞林)」などと書かれ、ソクラテスやプラトンと並び、ヘーゲルの名前も必ずといって良いほど引用されている。また、ヘーゲルの弁証法を取り上げる際に、頻繁に登場するのが、マルクス主義における弁証法である「唯物論的弁証法」とキェルケゴールにおける「質的弁証法、あるいは逆説的弁証法(キェルケゴール自身がみずからの弁証法をそのように呼んでいる)」である。

この考察においては、歴史的にその欠陥が証明されたかに見える「唯物論的弁証法」を退け、古代ギリシャから形式においては既に存在した、対話をモデルとした哲学的思考方法を、現代に至る近代哲学に大きく普及させた「ヘーゲルの弁証法」と、批判者としてそれを発展させた「キェルケゴールの弁証法」の二者を支持して「弁証法の現代的意義」を考えて行きたい。

一つの主張(定立)に対してそれと反対の主張(反定立)をおき、その両者を統合してより高い概念を得る。そして、この統合するという働きを「止揚(アウフヘーベン)」と呼び、このアウフヘーベンというドイツ語には、取り消す、上へ上げる、保存する、という意味がある。つまり、定立(テーゼ)と反定立(アンチテーゼ)という対立する概念が、その対立を取り消し、より高いところに引きあげられて統一され、新しい概念として保存される。これが「ヘーゲルの弁証法」である。

これに対して、より深い肯定的な倫理を求めたキェルケゴールは、この否定的なものが止揚されることによって高度な肯定的な思想が生み出されるという「ヘーゲルの弁証法」を、抽象的であるとして退け、その弁証法の主体を具体的な実存、言い換えれば有限的主体としての人間、或いは自分自身としたうえで、有限的主体が自らの否定性に直面した場合、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するのだとした。

その結果キェルケゴールは「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと、死によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられると考えた。言い換えるならば、キェルケゴールは、アウフヘーベンという抽象的直接性を否定し、「神による救済」という「第三者の介在の必要性」を認め、受け入れたのである。

キリスト教信仰者である私の立場から見て、このキェルケゴールの実存的、逆説的弁証法は好ましく、また有益であることこの上ない。しかし同時に、この社会に生きる社会的な存在としての私にとっては、「ヘーゲルの弁証法」の抽象的思考もまた、好ましく、有益である。

ここで私は「ヘーゲルの弁証法」をテーゼ、「キェルケゴールの弁証法」をアンチテーゼとして、アウフヘーベンを試みたいという衝動に駆られるのであるが、少なくとも現時点の私には手に余る企てである。

ところで「弁証法」とは、キェルケゴールのように実存的に受け止め、止揚することを放棄するのでない場合には、その性質上、その抽象的な思考は無限に繰り返される永続性を持っているのではないかと私は考える。

この永続性を、結論を導き出せないという欠点として考えることもできるが、むしろ、あらゆることを単純化しようとする現代の風潮にあっては、あらゆる可能性を肯定する柔軟性であると考えることもできる。

「弁証法」の持つ、この柔軟性を思うとき、現代こそ、大きく「弁証法」を必要としているのではないかと考えいたる。また「弁証法」のモデルが「対話」であることを思うとき、現代社会は「対話」を必要としているのであると言える。そしてその「対話」とは「弁証法的対話」でなければならない。

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学校教育における情報とコンピュータの利用について

学校教育の現場にコンピュータを積極的に取り入れようという動きは、CAIComputer Assisted Instructionの略であり、コンピュータ支援教育などと訳される)などの形で、1980年代頃に始まったものであり、それが1990年代以降、マイクロソフト社のWindowsシリーズの出現やコンピュータ・ネットワークの大きな発達により、「情報を使いこなす力」としての「情報リテラシー」なる概念も普及し、その動きは、近年さらに加速している。

現在日本のインターネット利用人口は8,000万人を超えるといわれており、各メディアは、現代社会を指して、IT社会、あるいは情報化社会と呼んでいる。

ところで、平成18年に改正された教育基本法の第二条の1項には、教育の目標として「幅広い知識と教養を身に付け」ることが謳われている。

もし学校教育におけるコンピュータの活用が占める位置を、上記の条文の中に求めようとすれば、「幅広い知識」に当るのではないかと私は考える。確かに現代社会においては、コンピュータを用いて、インターネット上のWorld Wide Web(ワールド ワイド ウェブ)、いわゆるWebを参照することで、世界中から膨大な情報、すなわち「知識」を得ることができる。また、学校教育の現場でのコンピュータの用途は、インターネットだけではなく、上述のCAIの流れを汲むeラーニングと呼ばれる、数学・国語などの既存科目の自習教材的なシステムもあり、広く普及している。しかし、インターネットから引き出せる情報はあまりにも多く、また周知の通り信頼性に欠ける情報も少なくない。このような現状では、自分に必要であり、かつ信頼できる有用な情報を、いかに識別するのかという、本当の意味での能力検索能力の開発が不可欠であると考えられる。また、インターネットによる情報検索と同じく、eラーニングについても、利用する教師はその長所と短所をしっかりと見分けて、適切に用いる必要があることは言うまでもないことである。

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We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―

前回の記事では『We killed him.―我々が彼を殺したのだ―』と題して映画『マッド・シティ』のレビューを書いた。

「We killed him.」これは劇中のダスティン・ホフマン演じるマックスの最後の台詞であった。

この台詞が、ここ数日私の頭に張り付いて消えない。

そしてその言葉は、私の中で「We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―」という言葉に成長した。

数日前の記事で、私は聖書のエゼキエル書33章6節の「みことば」についての、私の個人的な黙想を取り上げた。

その「みことば」の中に「血の責任」という言葉が使われている。

つまりここ最近の私の個人的な関心は、この「血の責任」という言葉に集中しているということだと思う。

今この瞬間も世界では多くの「血」が流されている。これは戦争や紛争でというだけではない。勿論そのような意味でも多くの血が流されているが。

例えば先の記事では、障害者の方々への差別の問題についても「血を流す」行為であると解釈しました。

或いは、現在の社会制度、取り分け後期高齢者医療制度に代表される、弱者に痛みを強いる福祉制度の不合理によっても「血」は流されていると、私は考える。

年間で3万人を超える自殺者の問題、増え続ける高齢者の孤独死、豊かな国日本における餓死者、虐待を受けている子どもたち、数え上げれば切りがない。

このように流され続ける「血の責任」を、私たちはいつも、つい「誰か」外側の人間に対して、求めてしまいがちである。しかし真実はどうであろうか。

「We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―」

私はこう叫ばずにはいられない。

そして私たちが、まず何かを始めなければならないのではないだろうか。

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We killed him. ―我々が彼を殺したのだ―

久し振りに映画を見た。

ジョン・トラボルタ、ダスティン・ホフマン競演の社会派ドラマ『マッド・シティ』。

新しい映画ではないが、面白そうな映画だとは思いつつ、これまで見るチャンスに恵まれなかった一本である。

<以下にはネタバレの可能性があります>

物語は、博物館の警備員を首になった男サム(ジョン・トラボルタ)が、ライフルとダイナマイトを持って、再雇用を願い出ている最中、元同僚の黒人警備員に対して、誤ってライフルを発射してしまった現場に、たまたま博物館に取材に来ていたローカルテレビ局のリポーターのマックス(ダスティン・ホフマン)が居合わせたことから始まる。サムは行き掛かり上やむなく、見学に訪れていた小学生たちを人質に取り、博物館に立てこもる事になってしまう。マックスは功名心に駆られ、サムをけしかけて、独占中継を始める。「自分の主張を世間に訴えるのだ!」と。しかし、だんだんとサムとの関係が深まるに従って、マックスは、職業を失い、自分の意図とは関係なく、凶悪犯の立場に追いやられてしまったサムに、同情をし始める。そして、事件の平和的な解決を目指そうと決心するが、、。時すでに遅し、博物館の周囲は、地元警察に加えてFBIが包囲し、全国からマスコミが詰め掛け、のみならず白人主義者たちや黒人運動化たち、はては出店まで立ち並び、お祭り騒ぎとなっていた。そして詰め掛けた人々は、それぞれに自分に都合の良いことばかりを語り、サムを或いは英雄、或いは危険思想を持った凶悪犯だと囃し立てているのである。『マッド・シティ』という表題は、この辺りの雰囲気を、非常によく象徴している。そして物語のクライマックスに向けて、気違い沙汰は加速して行き、事態はもう、サムにもマックスにも、コントロール不能になってしまう。

非常に良く出来た映画であったと思う。

私の個人的な考えではあるが、良い映画の判断基準のひとつは、物語のラストのインパクトではないかと思う。そしてこの『マッド・シティ』のクライマックスは間違いなくラストである。

「We killed him. ―我々が彼を殺したのだ―」

マックスの叫びが、取り囲む群集の中に吸い込まれて行く。私はこのラストシーンを見終えたとき、『地獄の黙示録』のラスト、カーツ大佐の「The horror.―恐怖だ―」という台詞を聞いたときと似た感情が湧き上がってくるのを感じた。

『地獄の黙示録』は私にとっても、また多くの映画ファンにとって特別な映画であると思うので、このような感想に、或いは賛同できない方々も多数おられることとは思う。

そのような方々には、これが単に、私の個人的な感情体験に過ぎないことを、是非ご考慮頂きたいと思う。

ともかく『マッド・シティ』は、見る価値のある、一流の社会派ドラマであると思う。

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この子らを世の光に

タイトルの言葉は、糸賀一雄(いとが かずお)氏の言葉です。http://www.biwa.ne.jp/~itogamf/date/index.htm

糸賀先生(氏は社会福祉の実践家であると共に教育者でした)は、戦後の混乱期の中で障害のある子供たちの福祉と教育に、文字通り一生を捧げた、日本の障害者福祉の先駆者であります。

そして先生の事業の根底には、何よりも深い愛がありました。下記のような先生の言葉に触れるとき、そのことがより深く実感出来ます。

「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」(「糸賀一雄著作集Ⅲ」より)

「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」。このたった二文字の入れ替えによって、糸賀先生は、まさに当時の社会の常識を覆すような大事業を成し遂げました。このような人物こそ、真に創造的な人物であると私は思います。

また、先生の残された多くの言葉には、先生と同じキリスト信仰を持つ私にとって、信仰の先達の言葉としても深く心に響いて参ります。

「愛は深めていけばいくほど、どこまでもどこまでも深まっていきます。
そしてそれは純化されていきます。
そのことを私たちは知っておきたいと思います。」

「 精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。
精神薄弱な人たち自身の真実な行き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目ざめ救われていくのだ」

「すべての人間は生まれたときから社会的存在なのだから、それが生きつづけていくかぎり、力いっぱい生命を開花していくのである。 」

糸賀先生については機会があればさらに記事に書かせて頂きたいと考えています。

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障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例

という素晴らしいネーミングの条例を見つけました。http://www.pref.chiba.jp/syozoku/c_syoufuku/keikaku/sabetu/jorei-home.html

千葉県出身者の私としては、とても誇らしい気持ちになりました。

この条例の素晴らしいのは名前だけではありません。

第二条に次のように謳われています。

『 この条例において「差別」とは、次の各号に掲げる行為(以下「不利益取扱い」という。)をすること及び障害のある人が障害のない人と実質的に同等の日常生活又は社会生活を営むために必要な合理的な配慮に基づく措置(以下「合理的な配慮に基づく措置」という。)を行わないことをいう。』

つまり、障害のある人に対して「不利益を及ぼす」という”積極的”行為のみを「差別」と考えるのではなくて、「配慮した措置(行動)を行わない」という”消極的”態度もまた、「差別」であると考えているのです。

私はキリスト者であるので、極端な表現ではあるが、この「差別」という言葉を「罪」という言葉に置き換えて考えてみたいと思います。

すなわち、現実にある「差別」や、そこから発生する「理不尽な悲しみ」を、私たちが「対岸の火事」と見て、”積極的”な解決行動を取らないとすれば、それは「罪」である、ということではないでしょうか。

聖書によれば「すべての人間は罪人である」ので、このことによって他者を責めることの出来る人間は一人もいません。ただ、その「罪」を、日々の生活のなかで「悔い改め」て、自分にも”積極的”な行動が何か出来ないであろうかと、私自身が想いを巡らすのみです。

ここで、一つの聖書の言葉を個人的に黙想してみたいと思います。

しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。

聖書の「エゼキエル書」33章6節に書かれている言葉です。

この場合、「剣」は神のさばきであるので、今回の話題である「差別」や「理不尽な悲しみ」とは直接に結びつくものではありません。しかしこの世の「すべての悲惨」が、究極的には人類の罪に起因するという、聖書的な世界観に立つならば、或いは、そこまで極端には考えないにしても、「差別」自体を、「人類の普遍的な罪性」の現れの一形態であると考えるならば、「剣」は「差別によって起こる理不尽な悲しみ」であると私には思えます。

このような黙想には、「その者の咎」を「被差別者の咎」と誤解されてしまう危険性があることを十分に自覚して、注意して個人的な黙想を補強したいと思います。

ここでの黙想においては「その者の咎」とは、勿論「被差別者の咎」などでは断じてなく、むしろ「剣」である「差別によって起こる理不尽な悲しみ」を招いている「咎」、すなわち「人類の普遍的な罪性」であり、この「咎のために」、理不尽にも「被差別者」である「障害のある人」が「打ち取られ」る、すなわち人間としての尊厳を踏みにじられるという「悲惨」の中におかれるということであり、文脈的には、「血を流す」ということです。

聖書の神は、その「血の責任」を、「見張り人」すなわち、”積極的”な解決行動を取らなかった私たちに問うと宣告しています。

繰り返しになりますが、これらの内容は、社会人としても、キリスト者としても、まだまだ未熟である私の個人的な黙想です。

私の意図は、現実にあると考えられる、障害のある方々に対する差別についての「個人的な反省」を、この文章を読んでくださる方々と分かち合いたいというものでしたが、内容が、決して単純でも、軽いものでもありませんので、この文章を読んで、異論をお持ちになる方、或いはお怒りさえ抱かれる方がいらっしゃるかも知れません。万が一そのようなことがあった場合には、心よりお詫びを申し上げます。

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「welfare(ウェルフェア)」から「well-being(ウェルビーイング)」へ

久し振りの更新です。

この4月から久し振りに学生に戻り「福祉」について学び始めました。

そんな中で最初に触れた言葉が「welfare(ウェルフェア)」と「well-being(ウェルビーイング)」という二つの言葉です。

英和辞典で調べると、どちらも「幸福」或いは「福利」という意味の単語ですが、一般に日本語の「福祉」に対する訳語としては「welfare」を使うことが多いようです。

ウィキペディアで「福祉」と検索してみても、まず最初にあるのは「社会福祉」としての「social-welfare」で「well-being」という語は補足的に、同一の意味を持つ単語として記載があるだけです。

ところが、近年の福祉の現場では、この二つの言葉を別々の意味を持つ言葉として使い分ける傾向にあります。

例えば

「welfare(ウェルフェア)」=事後処理的な対応

「well-being(ウェルビーイング)」=人権の尊重・自己実現

などがそうですが、これが必ずしも正しいという訳ではなく、勿論「welfare」にも人権の尊重や自己実現という概念も含まれいています。

どうやらポイントは「welfair」が事後的、補完的、代替的である、”従来的な「社会福祉」”の有り方を表すのに対して「well-being」の方は、より個人の尊重、自己実現、権利擁護を基調にする”これからの「社会福祉」”の有り方を表すのに用いられているということのようです。

そして近年「welfare(ウェルフェア)」から「well-being(ウェルビーイング)」へというスローガンがしきりに叫ばれている。

これを別の言葉で言えば、従来の「社会福祉」が憲法第25条(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。)に基礎をおいた、国民の”最低限度の生活”を保障するものから、憲法第13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)に基礎をおいた国民の”自由及び幸福追求”を助長するものへの変革と言えるかも知れない。

上記のようなことが叫ばれるのは大変結構なことであると私は思う。

しかし、そのような中で、貧富の差は広がり従来的な「社会福祉」の保証である「生活保護」の対象者は年々増加している。また、「生活保護」不正受給者がいる一方で、本当に、「生活保護」を必要とする人が、「自立支援」の名の下に保護を打ち切られたり、窓口へ行っても手続きをさせないなど、行政による弱者の切捨てが横行している。そのために最悪のケース、この”豊かな国日本”で餓死者が出ている現実がある。

また、老人の孤独死、年金問題、後期高齢者医療制度など、高齢者福祉についても問題は山積している。

問題は多く、しかも巨大である。しかし、まずは私たち国民の一人ひとりが「welfare(ウェルフェア)」について、また「well-being(ウェルビーイング)」について深く考えることからはじめてはどうだろうか。

私は「welfare(ウェルフェア)」と「well-being(ウェルビーイング)」という言葉に意味の違いがあると考えた場合、どちらも共に大切であると考えます。

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『キリスト教信仰和賛』解説第8回

決して忘れていた訳ではないこのシリーズです。前回は7/14でした。

箇所
その一の五、

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

全文は『キリスト教信仰和賛』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所の主題は「神のむくい」である。

「むくい」とは、第一義には「報酬」すなわち、その働きに対して当然支払われるべき対価を意味します。

しかしそれが「神のむくい」となる場合には、それは上記のような一般的な意味に、その対価の支払い手である神の性質が関係して来ます。

この『キリスト教信仰和賛』の取り上げる神とは、当然キリスト教の神ですから、キリスト者である私の言葉で簡単に言い表すならば「愛と義に富みたもうお方」であり、「愛」とはすなわち「憐みと恵み」であり「義」とは「正義と公正」であります。そして、キリスト教の神、すなわちイエス・キリスト様は「救済者」であり「さばき主」であります。

つまり「神のむくい」とは、この世の目に見える形では様々な形を取ることがあっても、その究極的な意味は、「憐みと恵み」「正義と公正」に富んだ「救済の業(わざ)」また「さばき」であるということになります。

私はキリスト教信仰者であるので、「神のむくい」を信じ、また待ち望んでいます。

信仰者は「おそい早いはあるけれど」「神のむくい」は必ず「来る」のだということを信じ、待ち望む者です。逆に言えば、そうでない者は「信仰無き者」ということになります。

またここで言う「信仰無き者」とはいわゆる信仰のうすい人という意味ではなく、文字通り「無信仰の者」すなわち、神とはまったく「無関係」の者という意味です。

ここで私が強調したい点は、「神のむくい」を「信じ」また「待ち望む」、この行為こそ、すなわち「信仰」であって、これなくしては、信仰者であるという私のアイデンティティーも、またこの『キリスト教信仰和賛』もともに、骨抜きとなってしまうということです。

上記の点を踏まえた上で、後半の「おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。」という詩句について考えて行きたいと思います。

先程も述べましたが、「神のむくい」は究極的には神の「救済の業(わざ)」また「さばき」を意味しています。そしてこの「救済の業(わざ)」と「さばき」とは、私にとっては同じ「一つのこと」を別々の言葉で述べているに過ぎません。

すなわち「終わりの日」には、神に信頼する者は「救済」され、そうでない者は相応しい「さばき」を受けるのです。込み入った「救済論」に入り込むことを避けたいので、ここでは簡単に済ませたいと思いますが、「信仰者の希望」すなわち「神の救済の業(わざ)」とは「愛と義に富みたもうお方」によって「完全なさばき」が行われることであります。この「希望」があるからこそ、信仰者は、神以外からの一切の「むくい」を求めず、このシリーズ「第三回」の時に述べたような、「「真の人間活動」としての「働き」と「学び」」を、時には歓びのうちに、時には歯を食いしばりつつ継続して行くことが出来るのです。

私たちは日々の生活の中で、確かに「神のむくい」としか考えられない、「憐みと恵み」「正義と公正」に富んだ「この世のむくい」を経験することがあります。それらは上で述べたような、信仰者が「終わりの日」に受ける究極的な「神のむくい」を「象徴」するものとして、私たちの信仰を強めてくれます。信仰者にとっては「この世のむくい」は、ただ、そのような意味に於いてのみ有益なものであります。

シリーズの中で何度か述べていることですが、この『キリスト教信仰和賛』は、基本的には、子供たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っています。ですから、今回の詩句も、一義的には、この「神のむくいにとって象徴的なこの世のむくい」について教えているように私には感じられます。

しかし、作者である吉田清太郎牧師が、キリスト者にとって唯一の希望である、究極的な「神のむくい」を見越してこの詩句を書いているのは当然のことと思われます。

「おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。」

吉田牧師によるこの詩句は、涙とともにパンを食べ、歯を食いしばって「神のむくい」を待ち望む、我々信仰者にとって、なんと大きな慰めと励ましとなることでしょうか。

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映画『ファイティング・テンプテーションズ』

2 ゴスペルの映画といえばまず思い浮かぶのは『天使にラブソングを・・・』シリーズという人が多い事と思う。

しかし今回私が紹介したい映画はキューバ・グッディング・ジュニア、ビヨンセ主演の『ファイティング・テンプテーションズ』である。

ストーリー

ジョージア州の小さな町、モンテカルロ。幼いダリンは歌手の母親と伯母のサリーの家で暮らしていた。
サリーは町の人気者で、教会の聖歌隊のリーダー、母も聖歌隊で活躍していた。
ところがある日、牧師の姉、ポーリーナがプロの歌手である母をいかがわしい歌を歌っていると糾弾、聖歌隊から追い出してしまう。
やがて、母はダリンを連れて町を去る。
大人になったダリンは、ニューヨークの広告代理店で働くサラリーマン。
頭の回転が速く、口が達者な彼は、経歴にウソを並べ立て、身分を偽って詐欺まがいの人生を送ってきていた。
だが会社にウソをついていたことがバレてしまいクビに。
そんな彼の元へ、伯母の訃報が届く。葬式と遺言開示に出るようにといわれ、ダリンはモンテカルロに帰る。
サリーの遺言はダリンに聖歌隊を率いてゴスペル大会に出て欲しいというものだった・・・。

監督は『隣のヒットマン』(ブルース・ウィリス)『ホワイト・ハウス狂想曲』(エディ・マーフィー)など、絶妙なコメディで定評のあるジョナサン・リン、主演のキューバ・グッディング・ジュニアはトム・クルーズ主演の『ザ・エージェント』でアカデミー賞助演男優賞を受賞している名優であるが、彼の魅力はそんな大物に全然見えない「軽さ」と「明るさ」であると思う。

またビヨンセは言わずと知れた元「ディスティニー・チャイルド」の、人気、実力ともにNo.1の歌姫であるが、この映画で女優としての才能も開花させており、この映画に於いてビヨンセは、非常にリラックスした良い表情を見せている。

この顔ぶれだけで期待度満点であるが、この映画は期待を遥かに上回る秀作である。

なんといっても音楽が最高に良かった。私のお気に入りは、クリスチャン・ラップの先駆者T-Boneのスペイン語ラップが炸裂する"DOWN BY THE RIVERSIDE"である。メイン・ソングの"he still loves me"も良かった。

物語は、ゴスペルの原点である「教会」を中心に繰り広げられるのであるが、劇中のゴスペル大会のシーンでは、俳優ではない、本物の教会のクワイアーも多数登場しており、監督ならびに製作者のゴスペル・ミュージックに対する愛が感じられる。

またクリスチャンである私の目から見ても、劇中に展開される「教会の人間模様」は、コミカルであるけれどリアルであった。

最後になるが、『ファイティング・テンプテーションズ』(誘惑との戦い)というタイトルが良かった。この意味は作品を見てからのお楽しみである。

『ファイティング・テンプテーションズ』は、単なるコメディーではない。ゴスペル・ミュージックとその「産みの親」であるキリスト教信仰に対する、愛に満ちた映画であり、見るものに、その愛を共感させずにはおかない。

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«映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』と『華氏911』から「恐怖」について