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「300 <スリーハンドレッド>」と、「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」

昨日、映画「300 <スリーハンドレッド>」を観た。しかも公開日であった。

ちなみに「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」も公開日に観て、最高の評価を与え、久し振りにパンフレットまで購入してきた始末である。

「スモーキン・エース」のジョー・カーナハンは最近一押しの監督である。

「300 <スリーハンドレッド>」は、有名な「テルモピュライの戦い」を題材とした、非常に魅力的なストーリーをもったフィクションであり、一流のエンターテイメントであったと思う。

その魅力についても語りたいことは、山のようにある。

しかしここでは「300 <スリーハンドレッド>」と、「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」に共通する過激な暴力描写について考えてみたい。

この問題については「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」についてのインタビューのなかで、アンディ・ガルシアはこう答えている。「これは大人向けの映画だ。子供が見ることを前提としては作られていない。」また監督のジョー・カーナハン自身も「この映画に出て来るバイオレンスは、バイオレンスがためのバイオレンス。巨大な映画のキャンバスにおいて描く、それらのバイオレンスは、何か深刻なものにつながるわけではない。」と語っている。

これらの意見に、わたしが100%賛成するかどうかはさておき、昨今メディアが青少年に与える悪影響が声高に叫ばれている。それにも関わらず、実際に上映される作品中の暴力描写はエスカレートする一方のように思われる。

それはなぜなのだろうか。

そもそもメディアは「現実を模倣」しているものなのだと思う。

現実に暴力が存在するので、メディアは暴力を描き、表現するのではないか。

作品によって、その表現にリアル(現実性)を追求するものと、反対に非現実的な暴力表現、さらにはユーモアとして暴力を用いるものもある。

その中のいずれが、青少年の教育上最も悪影響を与えるのかという議論はするつもりもないし、そんな議論は全く無意味であると思う。

恐らくはそれがどのような表現スタイルであったとしても「暴力シーン」は悪影響を与えるに決まっているのである。

しかしそれはメディアから提供されるものに限らない。わたしたちの身近には、メディアが提供するほど過激でも残虐でもないであろうが、「暴力シーン」は溢れている。

子供同士のケンカ、公共の場での親による子への折檻、ラッシュ時の大人同士のケンカなど。

これらを目撃したとき、大多数の人がそれらの行為を肯定しないと思う。折檻についてはまた、賛否両論あるかも知れませんが、この際それはひとまず脇に置いておきたい。

では、現実に行われている「過激でも残虐でもない暴力シーン」と、メディアの提供する「過激で残虐な暴力シーン」では、どちらが青少年に悪影響を及ぼすのだろうか。

これについてもわたしは議論をするつもりはない。

ここではっきりさせておきたいわたしの立場は、「たとえどんな理由があっても暴力は絶対に間違っている」というものです。

そもそも人間に他者を打ったり、傷つけたりする権利は与えられていません。たとえそれが教育の為であったとしてもです。

しかし、この世には暴力があり、また暴力を奨励、或いは賞賛する精神さえも、確かに存在するのです。

このわたしの心の中にもです。

それが問題なのです。

ここでわたしが提案したい問い掛けがあります。

それは唯、「なぜなのだろうか。」です。

わたしたちは、「なぜなのだろうか。」と問うときに初めて価値ある議論を始めることが出来るのではないでしょうか。

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コメント

いよいよBlog開始ですか?
こういう映画の評論とか風刺を込めて
書かれているのいいと思います。

投稿: NoB' | 2007年6月11日 (月) 14時36分

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