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2007年6月

世界を変えることはできますか?

つい先ほどフジテレビ系のTVドラマ『わたしたちの教科書』の最終回を観終えました。

この記事は、その最終回を観終えた時点で私の心に思い起こされた、「私の個人的な確信」についての記事です。

その「私の個人的な確信」とは「物語の持つ力」に関する確信です。

すぐれた物語は世界を変える力を持っている。これは私が十代の頃から確信している事柄です。

私はその後、『聖書』に出会い、キリスト教信仰を告白する者になりましたから、ある意味では『聖書』こそ、今この時も、まさに世界を変え続けている「最高の物語」であることを信じています。

しかし、それとは全く別の次元で、今なお私は「物語の持つ感化力」を信じています。

「芸術的表現のみが『教育的影響をもたらすために欠かせない二つのものを持っている。それは、〈普遍的重要性と即時的魅力〉だ。』芸術表現には、古代ギリシア人がプシュガゴーギア(言葉によって魂を導く技)と呼んだ力があります。輝かしさの中における崇高なもの、存在の象徴やより優れた秩序を表現することなどを通してそれが起こるのです。だからといって、聖書が持つ基本的かつ固有の重要性が損なわれることは決してありません。」                              ジェームズ・フーストン著『喜びの旅路』(いのちのことば社)より。 

「物語」とはすなわち「アレゴリー」です。そしてCSルイスはその著書の中で次のように述べています。

「アレゴリーが最高のものであるとき、それは神話に近づく。」

「神話は天与の食物のようなものだ・・・・・それは人それぞれに異なった、また人それぞれに必要な食物である。それは古くもならないし、さまざまな民族、哲学、あるいは性別の国境で立ちどまることがない。それはまた同じ人間から同じときに、次元の異なったさまざまな反応をひきだすことができる・・・・・」

「私は、すぐれた神話はアレゴリーよりも高次のものだと考えます。作者はアレゴリーの中に、彼がすでに知っていることを投入することができますが、神話の中にはまだ知らないこと、他の方法では知りえないことを盛るのです・・・・・」

これらの言葉から、私はすべての物語は「神話」となるように意図されて語られるべきであると考えます。もちろんそれは殆ど実現不可能なことでありますが。

またルイスは、「作品の意味」と「作者の意図」をはっきりと区別していますから、作者の意図に反して、物語が「神話に近づく」ことが起こりうると私は思います。

ともかく、わたしは「世界を変えることはできますか?」この質問に対して、こう答えることにしたいと思います。

「世界を変えることはできる!」すぐれた「物語」がそれを成し遂げるだろう!いや、すでに数え切れないほどたくさんの「物語たち」が、世界を変え続けているのだ。

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『キリスト教信仰和讃』解説第5回

久し振りの『キリスト教信仰和賛』解説シリーズです。

箇所
その一の三、

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所はわかりやすいようで解りにくい、理解出来るようで理解できない。そういう箇所ではないでしょうか。

この箇所を理解する為に大切なことは、この詩句のなかで「神」がどのような存在であり、また「神」と「人」との関係が、どのようなものであると考えられているかという事です。

上記の問いに関する答えは、前回取り上げた「その一の二」の詩句に求められます。すなわち「人は神の内に住み、神は人のうちに住む、魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。」というものです。

この考えからすれば、今回の詩句には、なんら矛盾も無く、当然の事を述べていることが解るでしょう。

しかし、この詩句の作者である吉田清太郎牧師が、何故この当然の事をここで、敢えて述べているのかといいますと、それはこの詩句が子供たちに、或いはこの詩句のすべての読者、すなわち私たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っているからです。

そうしますと、この箇所に示されている、「倫理道徳」は「人を大事にすること」「人を粗末にせぬこと」である事は明白です。

そして吉田牧師は「人を大事にすること」「人を粗末にせぬこと」の理由として、なぜならそれはそのまま神様にしている事になるからだと語っているのです。

このような論理は、この詩句の大前提である「天と心にすむ神」を知り、「人と神とは一体だ」ということを理解している人々にしか通用しないものです。

しかしその逆でいいますと、以上のことさえ理解してしまえば、この詩句は良く理解出来るのです。

なぜなら、「天に」住むと同時に、自分自身の「心に」神様が住まわれている事を知った人は、自分の周囲の人の「心に」も神様が住まわれる事を、ごく当然のように認める事ができるでしょうから。

また自分自身と「神とは一体だ」と知る人は、目の前の他者もまた神様と一体であることを当然悟るでしょう。

そのような人は「自分」と「他者」を区別しなくなるのではないでしょうか。

これこそ究極の「倫理道徳」であると私は思います。吉田牧師もまたこの事を教示しているのではないかと思います。

この「究極の倫理道徳」が、ごく限られた範囲ではありますが、私たちの通常の生活の中に見られることがあります。

それを私たちは「愛」と名付けています。

「愛」は「自分」と「他者」との区別を打ち消します。或いは溶かしてしまいます。

しかし私たちの「通常の生活の中に見られる愛」は非常に「限定的」であり、「一時的」であり、また「利己的」でさえあります。

「限定的」であり、「一時的」であり、また「利己的」であるもを「倫理道徳」とは呼べません。

ですから「愛」が「究極の倫理道徳」となるためには「普遍化」されなければならないのです。

ここに「普遍的な愛」の必要が提示されました。

「神は愛である」これは聖書が宣言する、神様についての最も単純で、最も美しい証言の一つです。

この「愛」そのもの、愛の源泉である神様が「天に」住まわれると、この詩句は教えています。

「天」とは、私たち人間が何処にいても、いつでも仰ぐことができる、「唯一つ」のものではないでしょうか。つまり「普遍的なもの」であるということです。

つまり「天にすむ神」とは「普遍的な愛の源泉」であり、私たちは「天にすむ神」を知った時、初めて「普遍的な愛」をも知ることができるのではないでしょうか。

これは「科学的な事実」の話しではありません。私たちの「経験的な事実」の話しです。

詩句とはそもそも、「科学的な事実」を説明するものではなく、その言葉の持つ雰囲気や手触りといったものを通して、「普遍的な何か」を表現するものなのではないかと私は考えます。

以下は今日の反省

この詩句の作者である吉田牧師は、もっと解りやすい、はっきりとしたメッセージを持ってこの詩句を書いたのだと思います。

私の未熟のせいで、この詩句のすばらしさが損なわれてしまわないように、ひたすら祈るのみです。

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映画『ザ・ロック』を観て、戦争と恐怖に関する論考

昨日TVで放映された映画『ザ・ロック』を観ました。

1996年公開の映画ですが、製作がドン・シンプソン&ジェリー・ブラッカイマー 、監督がマイケル・ベイ、主演にニコラス・ケイジとショーン・コネリーを起用し当時大ヒットした、いかにもハリウッド的な派手なアクション映画で、私の大好きな映画の一本です。

ですから、これまでにも何度も繰り返しこの映画を観ているわけですが、昨日TV放映されたものを観ていて、下記の台詞が私の印象に残りました。

「これは恐怖との戦争だ」

これは、81人の民間人の人質を取り、最新化学兵器VXガスロケットの標的をサンフランシスコに向けたテロリスト(ベトナム、パナマ、グラナダ、そして湾岸戦争と輝かしい戦歴を残し、無数の勲章を手にした伝説的な英雄ハメル准将率いる有能な海兵部隊)が立て篭もる、アルカトラズ島に対する全面的爆撃を許可する際のアメリカ合衆国大統領の台詞である。

つまり、大統領は何万人ものサンフランシスコ市民の命と、ハメル准将率いるテロリスト、事態収拾の為にアルカトラズに潜入している海軍特殊部隊NavySEAL、そして81人の民間人の命を秤にかけて苦肉の決断を下したのである。

「ザ・ロック」は湾岸戦争後のアメリカが抱えるかなり重いテーマを題材とはしているものの、ベトナム戦争の悲惨と狂気を現実的、批評的に描いたフランシス・F・コッポラの「地獄の黙示録」とは違い、基本的には娯楽映画として製作されている為、製作側がどこまでこの台詞に重きを置いているのかは定かではない。

しかしそうではあっても、いやむしろそうであるからこそ、この台詞の持つメッセージの普遍性が私の心には響いたのである。

「これは恐怖との戦争だ」

この台詞を聞いて私の心に去来した一つの問いは、「果たして”恐怖との戦争”ではない戦争などというものが、世界に存在するのだろうか?」というものである。

あまりにも有名である「地獄の黙示録」の最後の台詞はマーロン・ブランド演じるカーツ大佐の「恐怖だ、、、恐怖だ、、」というものである。(これはこの映画の一応の原作であるジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」のカーツの最後の台詞と一致している。)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E3%81%AE%E5%A5%A5

一足飛びに結論だけを言ってしまえば「戦争について考えた時、それがどのような経緯を辿ったにせよ、行き着くところは「恐怖」なのではないか。」というのが私の考えである。

何故ならば、すべての戦争が「恐怖をその根源に抱えている」と考えるからである。

私は戦争を私たちの身近にある「個人的な争いや憎しみが拡大したもの」または、「人間の自己の利益の追求の中で起こる他者との衝突が拡大したもの」のであると考えている。

つまり私は「個人的な争いや憎しみ」また、「人間の自己の利益の追求」の根源に「恐怖」があると考えるのです。

それらは「自分の存在が脅かされる」という恐怖であり、「自己の利益が害される」という恐怖である。

これらをもっと根源的な言葉で表現するならば「存在の恐怖」と言えるのではないでしょうか。そしてこの「存在の恐怖」は、我々人間が「存在を肯定される必要」を持っていると同時に、その「必要が満たされていない現実」、つまり「存在が肯定されているという絶対的な根拠を持たない」ところから来ているのだと私は考える。

クリスチャンである私の場合「存在が肯定されているという絶対的な根拠」を、聖書がその「実在」を証言している「天地の創造主なる神」すなわち「被造物である我々を愛し、その保護と養育を提供する神」に求める事ができる。

私は専門家ではないので詳しく語る言葉を持ちませんが、心理学にも「存在不安」という言葉が存在する。

常識的に考えれば、この「存在不安」は「他者から肯定される」ことで解消されるはずである。

それも自分に対して「影響力を持つ他者」であればあるほど、その効果は大きいものと思われる。例えば両親や恋人、或いは社会的な地位の高い尊敬される人々だろうか。

しかし、そこには「不完全さ」が伴う。なぜなら、ここでは「存在の肯定を提供する人々」もまた「存在を肯定される必要を持っている人々」であるからだ。

その「不完全さ」は、しばしば「関係の不健全さ」へと繋がる。現代の心理学者たち、或いはえせ心理学者たちが声高に叫ぶ「共依存」とはこのことではないかと私は考える。

とはいえ、私は専門家ではない。

私が提供できる一つの事実は、キリスト教神学では、神を「絶対他者」と定義していることである。

この事実から私が導き出した結論は、人類のうちに普遍的に存在する「存在不安」すなわち「存在の恐怖」を解決できるのは「絶対他者による存在の肯定」のみであるということだ。

もし読者が、聖書の証言する「創造主なる神」以上に「実存的な絶対他者」を発見することができるならば、キリスト教にこだわる必要は無いかも知れない。

しかし私の見たところでは、そのような「偉大な存在」は人類の歴史上「他にない」のである。

釈迦も孔子もソクラテスも、この「絶対他者」を「知覚」はしているように思える。

しかし「聖書」ほどの具体性、歴史性、信憑性、また説得力を持って、この「絶対他者」についてはっきりと証言している書物は存在しないし、イエス・キリストほどはっきりと、その「絶対他者と人間(ヒューマンネイチャー)としての自己との結びつき」を証言した人間も、歴史上存在しないのである。

最後に宗教的な話しになってしまった為、不快を感じられる読者がいたならばお詫びを申し上げたい。前回述べているいるように、私は可能な限り「独白的ではなく対話的な自分」でありたいと思っているからです。

TVで映画を観てこんなことを考えている自分を、やはり少し変人であると思う今日この頃。

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対話的または弁証法的存在として

近年、私たちの生きる社会はポストモダニズムの台頭によって価値観が多様化すると共に、個人主義がはびこり、だれもが自分の意見、立場を持ち、提供される多くの情報の中から、自分の好きなもだけを取捨選択する自由を持ってます。

このような時代にあっても「社会的な存在」である私たちは、他者と「対話」しつつ「共に生き」て行かなければなりません。

ジェームズ・フーストン博士はその著書『喜びの旅路』の序文に於いて、『「人格的な交わりを大切にする」ためには、形式は弁証法、または対話を用いなければなりません。なぜなら、何かを語る者は、同じく応答し、語ることの出来る他者と対峙するからです。』と語ってのち、「弁証法」=「対話」とは、「たとい、お互いの見解が同じでない場合でも、共に生きていくことの人格的な側面を高め、深めていくために、互いに話し合うこと」であると定義しています。

またフーストン博士をして、キリスト教界の「ソクラテス」と言わしめているセーレン・キルケゴールは、「弁証法とは、相反するものを新しく創造的に統合することである」と語っています。

フーストン博士とキルケゴール、この2人の賢人の言葉を信じるならば、私たちは「対話」することによって、物事を「新しく創造的に統合する」力を持っているということになります。

ですから私も、私の語る言葉が「独白」ではなく、「対話」となるように努力したいと思います。

またそれ以上に重要なことは、実際に他者と「会話による対話をする」とか「弁証法」によって「他者を説得する」というDoingな事ではなく、むしろBeingである自分の在りかたとして、「対話的な自分」即ち「弁証法的な自分」に成るということではないかと思う。

つまり、自分が語る時、「同じく応答し、語ることの出来る他者と対峙しているのだという事を絶えず意識して、お互いの見解が同じでない場合でも、共に生きていくことの人格的な側面を高め、深めていく」ために努力する自分になるということである。

私個人としては、「自分自身の思うところ(道徳的な基準や信仰的な信条など)」は、まず第一に自分自身にのみ適応して、他者もまたそうである(自分と同じ考え方を持つ)ことは求めない。これこそ「対話的、弁証法的な自分」の在りかたではないかと考え、そういう者に私はなりたい、と日々精進しております。

自分の気付いたことや考えていることを分かち合う。それは、大切であり、また素晴らしい経験ではあるが、「受け手である他者」が寛容に自分を受け入れ続けて下さることを信じて、初めて出来ることではないかと思う。

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「エントロピー」に対抗する力

前回の続編です。

「形骸化」とはその組織から「いのち」が失われてゆく状態である。

これがわたしの試論である。

組織の「いのち」、すなわち肝がなんであるのかという事は、それぞれの組織によって違うはずである。

私のもっとも身近にある組織である「教会」の「いのち」は「イエス・キリスト」であり、「聖書」である。

「企業」の「いのち」は「商品」であるかもしれないし「従業員」であるかも知れない。

或いは組織には必ず「基本理念」なるものがあるはずである。その呼び方はどうあれ、もしそれがないとすれば、そもそもその組織には「存在意義」がないということになってしまいます。

組織の「いのち」がやがて失われてしまうのはなぜなのだろうか。

前回に「エントロピー」の話しをしました。熱力学の話しではなく、私たちが経験的に知っている、この世の万有に働く「崩壊に向かう力」としての「エントロピー」についてである。

組織が「形骸化」してゆく時、「エントロピー」は増大する。そして組織は崩壊するのである。

「エントロピー」は、目に見えるものに対してだけではなく、目に見えないもの、例えば人間の「心」にも働く。

人間の「心」さえも、絶えず崩壊に向かっている。非常に乱暴な論法ではあるが、ある意味では、これをキリスト教的に「原罪」と考えても良いと思う。

人間の「心」は、生まれつき「罪の方向へ」傾いている。これが聖書の示す人間観である。(これもまた非常に乱暴な表現であはあるが、丁寧に扱うには時間が掛かりすぎるので別の機会を待つ。)

人間の「心」に働く「エントロピー」の結果、組織の構成要素である「個々の人間」が「堕落」する。

この「堕落」には、「怠惰」や「高慢」「ねたみ」「そねみ」「裏切り」「不信」など目に見える色々な現象がともなうであろうが、それらの根本にあるものは、結局のところ「自己中心」という一つの言葉でまとめることができると思う。

「自己中心」とはすなわち、人間と人間の結びつきを切断するハサミである。

このハサミによって、組織はバラバラに切り刻まれて崩壊へ向かう。

しかしこのような「エントロピー」に対抗する「力」も存在することを前回考えました。すなわち「ルネサンス」に代表される「新生の力」である。

それではこの「新生の力」とはなんなのであろうか。

ここで私はこの「新生の力」の構成要素として二つのものを挙げたいと思う。

まず第一のものは「愛(あい)」である。もっと詳しく言えば「いのちに対する愛」である。

ここで言う「いのち」とは「組織のいのち」のことであるから、最初に例にとった「教会」であるなら「イエス・キリスト」そして「聖書」に対する「愛」であるし、「企業」の場合「商品」また「従業員」に対する「愛」である。

第二のものは「誠実」、すなわち「基本理念」に対する「誠実」である。

愛する場合にも、誠実である場合にも、それを行う場合には努力と犠牲が伴う。なぜならばそれは、この「世の流れ」すなわち「エントロピー」に逆らう道であるからである。

しかし人間にはそれを行う「力」があり、また「意思」もあることを、私たちは経験的に知っています。

この「力」と「意思」を働かせる為に必要な事は「選択」です。

私たちには絶えず「選択」が迫られています。この「世の流れ」に従うのか、或いはそれに逆らい、「努力」し、「犠牲を払う」のかという「選択」です。

もし私たちが、「努力」し、「犠牲を払う」方を絶えず「選択」したいと願うならば、その為には「決心」が必要でしょう。

ここで一つの結論に達します。

すなわち、「エントロピー」に対抗する「新生の力」を生み出しているのは、我々「人間」であるという事です。

ひとまずこれにて御免。

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「形骸化」と「新生」について

あらゆる組織が「形骸化」する。

けいがいか【形骸化】別ウィンドウで表示
(名) スル 誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして、形ばかりのものになってしまうこと。

これは誰もが納得する、いうなれば「公理」であろうと思う。

それではなぜ「形骸化」は起こるのだろうか?

この問題についてだけでも充分に興味深い議論になると思われるが、今回は深入りはせず、根本的な話題に移りたいと思う。

私には熱力学の専門的な知識があるわけではないので、そのような専門的なフィールドで議論をするつもりは無い。しかし現在多くの人々が「エントロピー」という言葉を用いて語っているように思う。

そして多くの人々は、この世界が「絶えず崩壊の方向へ進んでいる」ことを経験的に確信している。

私は「形骸化」という言葉が気に入っています。

組織から「いのち」が失われ「形骸(けいがい)」すなわち「骸(むくろ)」へと変わって行く雰囲気を、良く表しているように思うからです。

我々人間もまた、刻一刻と確実に「死」へと向かっている。

ある意味では、毎日「死に続けている」とも言えます。

あらゆる物質(生物も含む)が「古くなり」やがて「腐敗し」最後には「崩壊」する。或いはあらゆる組織から「絶えず秩序が失われ」「混沌へ向かう」という、そのような「目には見えない力」がこの世には存在しているように思える。

しかし私たちはこれらの「崩壊、混沌へ向かう力」に対抗する、もう一つの「目には見えない力」が存在する事も、経験的に知っているのである。

私たち人間の体細胞は、「毎日死んでゆく」のであるが、それに代わる新しい細胞もまた「絶えず生まれて」いる。

つまり、ある意味では私たちは「毎日生まれている」のである。

これは「一瞬一瞬、新しく生まれている」とも言えるでしょう。

人間、或いは生物以外の「社会的組織」ではどうであろうか。

あらゆる「社会的組織」は、「一瞬一瞬、新しく生まれている人間」の集合からなっているのであるから、やはり「絶えず新しく生まれている」と言えるはずなのである。

私たちが「歴史的視点」を持つ時「形骸化」した組織が、「再生」するのことをはっきりと知る事ができる。

小さい例を挙げればきりが無いので、歴史上もっとも有名な「社会の再生」を例に挙げたいと思う。

その社会的再生とは「ルネサンス(直訳すると再生)」である。

私たちの目には「形骸化」したまま「再生」せず、「崩壊」してしまう組織も確かに存在するように見える。

しかし、そんな「無数の小さな崩壊」を包み込むように、社会全体に「いのち」が吹き込まれる出来事が歴史には確かに起こるのである。

「ルネサンス」はその代表的なものである。

また私たちの人生においても「無数の小さな崩壊」を覆う、「ルネサンス(再生)」が起こる事をも、私たちは経験的に知っているのではないだろうか。

そのような人生の刷新は、もはや再生とではなく「新生」と呼ばれるべきである。

全く語りきっていない感がありますが、ひとまず就寝。。

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「幸せのかたち」とCSルイスの「善」に関する洞察

「幸せのかたち」という言葉がある。

私の大好きな作家CSルイスは、その著書『天国と地獄の離婚』の「はしがき」のなかで、
『もろもろの生物は、完成度が加わるにつれて、相互にますます隔たって行く。善もまた、成熟するに従って、いっそう悪とちがったものになるばかりでなく、他の善ともちがったものに、たえず、なって行くのである。』
ということを語っている。

私はこの「善」という言葉を「幸福」と置き換えてみても、それは真理なのではないかと思う。

『「幸福」もまた、成熟するに従って、他の「幸福」ともちがったものに、たえず、なって行くのである。』

※ルイスは「善」について「成熟」という言葉を使っている。「幸福」の場合は「成熟する」というよりは、むしろ「深まって行く」という表現が適切であるかも知れない。

私たちは、周囲の「幸せそうな人」を見て、あの人みたいに「幸せ」になりたいと考える。

しかし、もし私たちがその人と、全く同じ人生を歩む事が出来たとして、果たしてそれが私たちの本当の「幸せ」であるという事が出来るのだろうか。

当然のことながら「幸せそうな人々」も、悩みや苦しみを持っている。
しかし私たちは、その人々の一面を見て「幸せそう」だと想像しているのである。

つまり「幸せそうな人々」を見て、自分の「幸せ」を探そうという視点が、既に誤っているのではないでしょうか。

もし私たちの「幸せ」が、CSルイスが「善」について語ったのと同じように、『他の人の「幸せ」とはちがった「幸せ」』なのだとしたら、それは『自分自身を深く知っていく』という方法でしか、見つけることが出来ないのではないでしょうか。

私たちは、なにかものを「知る」という時、どうしてもまず最初に、自分の「外側のもの」を前提としてしまいます。
つまり私たちは、『自分のことについては、既に充分に知っている』と考えているのです。

しかし、果たしてそれは事実と一致しているでしょうか?
私たちはただ、そう思い込んでいるだけで、実は自分のことこそ、よく解っていないのではないかと思います。

私たちは心理学と統計学の時代に生きています。

心理学と統計学は、私たちを「分類別け」し、レッテルを貼り、私たちが一人一人「ユニークな存在」である事を忘れさせてしまいます。

その反動として、最近では「オンリー・ワンになる」ということが叫ばれています。

しかし事実は、私たちは皆、既に「ユニーク(二つとない)」な存在なのです。とすると「オンリー・ワンになる」という努力も、なんとなく「的をはずしている」ように思われます。

むしろ私たちに必要なのは、自分が「ユニークな存在」であるということを「知る」ことなのではないでしょうか。

「自分探し」という言葉もよく使われています。
私たちはいったい何処で「本当の自分」を見つけ出すことが出来るのでしょうか。

私が知っている中で、『聖書』を除いて、この質問の回答者として、最も相応しい人物はCSルイスである。

CSルイスはその著書『顔を持つまで』のなかで、このテーマについて見事に語りつくしていると思う。

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「300 <スリーハンドレッド>」と、「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」

昨日、映画「300 <スリーハンドレッド>」を観た。しかも公開日であった。

ちなみに「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」も公開日に観て、最高の評価を与え、久し振りにパンフレットまで購入してきた始末である。

「スモーキン・エース」のジョー・カーナハンは最近一押しの監督である。

「300 <スリーハンドレッド>」は、有名な「テルモピュライの戦い」を題材とした、非常に魅力的なストーリーをもったフィクションであり、一流のエンターテイメントであったと思う。

その魅力についても語りたいことは、山のようにある。

しかしここでは「300 <スリーハンドレッド>」と、「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」に共通する過激な暴力描写について考えてみたい。

この問題については「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」についてのインタビューのなかで、アンディ・ガルシアはこう答えている。「これは大人向けの映画だ。子供が見ることを前提としては作られていない。」また監督のジョー・カーナハン自身も「この映画に出て来るバイオレンスは、バイオレンスがためのバイオレンス。巨大な映画のキャンバスにおいて描く、それらのバイオレンスは、何か深刻なものにつながるわけではない。」と語っている。

これらの意見に、わたしが100%賛成するかどうかはさておき、昨今メディアが青少年に与える悪影響が声高に叫ばれている。それにも関わらず、実際に上映される作品中の暴力描写はエスカレートする一方のように思われる。

それはなぜなのだろうか。

そもそもメディアは「現実を模倣」しているものなのだと思う。

現実に暴力が存在するので、メディアは暴力を描き、表現するのではないか。

作品によって、その表現にリアル(現実性)を追求するものと、反対に非現実的な暴力表現、さらにはユーモアとして暴力を用いるものもある。

その中のいずれが、青少年の教育上最も悪影響を与えるのかという議論はするつもりもないし、そんな議論は全く無意味であると思う。

恐らくはそれがどのような表現スタイルであったとしても「暴力シーン」は悪影響を与えるに決まっているのである。

しかしそれはメディアから提供されるものに限らない。わたしたちの身近には、メディアが提供するほど過激でも残虐でもないであろうが、「暴力シーン」は溢れている。

子供同士のケンカ、公共の場での親による子への折檻、ラッシュ時の大人同士のケンカなど。

これらを目撃したとき、大多数の人がそれらの行為を肯定しないと思う。折檻についてはまた、賛否両論あるかも知れませんが、この際それはひとまず脇に置いておきたい。

では、現実に行われている「過激でも残虐でもない暴力シーン」と、メディアの提供する「過激で残虐な暴力シーン」では、どちらが青少年に悪影響を及ぼすのだろうか。

これについてもわたしは議論をするつもりはない。

ここではっきりさせておきたいわたしの立場は、「たとえどんな理由があっても暴力は絶対に間違っている」というものです。

そもそも人間に他者を打ったり、傷つけたりする権利は与えられていません。たとえそれが教育の為であったとしてもです。

しかし、この世には暴力があり、また暴力を奨励、或いは賞賛する精神さえも、確かに存在するのです。

このわたしの心の中にもです。

それが問題なのです。

ここでわたしが提案したい問い掛けがあります。

それは唯、「なぜなのだろうか。」です。

わたしたちは、「なぜなのだろうか。」と問うときに初めて価値ある議論を始めることが出来るのではないでしょうか。

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『キリスト教信仰和讃』第4回

『キリスト教信仰和讃』の解説第4回

箇所
その一の二、

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

全文は『キリスト教信仰和讃』①を参照。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

その一の一、では神の「内在」についてお話ししましたが、今日の箇所ではこの「内在」をさらに掘り下げています。

「内在」という言葉を使うので、「神は人のうちに住む」という時、何となく神が「物理的に」人間の内側に宿るというような様子を想像する方が多いのではないでしょうか。

ここで、①で私が、『「心」即ち、我々人間の「内側(物理的にというよりは「心」という目に見えない、しかし確かに存在する器官)」に住んでおられる』という表現を用いたのを思い出して頂きたいと思います。

「心」とは目に見えない器官であって、それが物理的に何処に存在するのかという事は、科学的にも、未だはっきりしていません。「心」の位置について、ある人たちは「脳」にあると言い、ある人たちは古典的に「心臓(ハート)」にあると言いますが、私たちの「心」はそのような単純なものではなく、「霊」「魂」といったものと深く関わっています。そのことは、皆さんも自分自身で、自分の「心」が果たして何処にあるのかと、暫く黙想してみますと良く解ることと思います。

話しが「心」に脱線しましたが、神もまた目に見えず、形が無い存在であります。であるからこそ「偏在」すると共に「内在」するという事が可能となるのです。そしてこのように神の「内在」について語る時、この「内在」という言葉の意味は、単純に「内側に在る」という意味ではなく、今日の詩句が「人は神の内に住み、神は人のうちに住む、」と語っているように、神と人が全く「一体」であるという意味なのです。
※「人は神の内に住み」という場合、全宇宙を覆う「偏在」の神の内に護られて在る人というイメージもありますが、ここでは「内在」ということに集中したいと思います。

本日の詩句は、この神と人との「一体性」を、非常に理解しやすい比喩を用いて、見事に語っております。

即ち「魚と水との如くにて、」です。
この表現は、まさに言い得て妙であります。

魚は水の中に在って、水の外では生きていけません。
また水は、魚の外側を包んでいるだけでは無く、魚の内側にも満ちているのです。

このように魚と水が一体であるとき、この両者を引き離すことは自然には全く出来ないことです。

この詩句の作者である吉田清太郎牧師は、この「魚と水との如くに」「人と神とは一体だ。」と喝破しているのです。

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『キリスト教信仰和讃』解説1回から3回補足まで

『キリスト教信仰和讃』

数ヶ月前、吉祥寺の「さかえ書房」という古本屋で一冊の本に出会った。

タイトルは
『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』である。

素晴らしい本には違いないが、まだ読み始めの為、レビューは後日改めて書きたいと思います。

本書を読み始めてすぐに、一つの素晴らしい歌が紹介されていて、私の心を完全に捕らえてしまったので、まずその歌を紹介することにしました。

『キリスト教信仰和讃』

その一
一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

じつはこれに「その二」が続きますが今回はここまで。

これは牧師であられる吉田清太郎師が、日曜学校でこどもたちにも歌わせていた歌だそうで、非常に深い真理を平易な言葉で、本当に解りやすく表現しています。しかも韻がしっかり踏まれていて、文章としても、詩句としても美しさを持っていると思います。

私は本当にこの歌に惚れ込んでしまったので、
しばらくシリーズで勝手に解説なんぞを始めてみようと思い立ったのです。

手始めにその一の一、

「天と心にすむ神の、」

冒頭のこの言葉をとっても非常に深い、或いは単純には理解し難い真理を語っています。
つまりは、神はまず、「天」即ち、我々人間の「外側なる空間(また「天」という語は我々の住む次元、空間よりも高次の空間を連想させると共に、私たちの外側にある空間のいたるところとの意味も持っている)」に住むと同時に、「心」即ち、我々人間の「内側(物理的にというよりは「心」という目に見えない、しかし確かに存在する器官)」に住んでおられるという事を語っています。

これらの事を学問的な言葉では、神の「偏在」と「内在」と言います。

吉田師の神、即ちキリスト教の神様は、確かに、この一見矛盾するような二つのあり方によって、存在し、また働いておられます。

『キリスト教信仰和讃』は、この神の「偏在」と「内在」を、大袈裟にではなく、あたかも当然の事のように語っています。

続く詩句の中で、この主題は展開され、また深く解説されていますが、今日はここまでにしたいと思います。

『キリスト教信仰和讃』の解説第2回

箇所
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。

「み声を心でよく聞いて、」

上記を文字通り理解しますと、前述の「偏在」されると同時に「内在」される神様の「み声」を、鼓膜を通してではなく、「心」によって よく聞くようにという薦めです。

キリスト教の文化の中では、祈りの中で、今も生きて働いておられる神様の「み声(神様の語りかけ)」を聞くということが言われています。また私自身も日々そのような体験をしているわけです。

説明なしにこのような事を聞きますと、大多数の方々は、私を「聖人」か「狂人」のどちらかと思うか、或いは「想像力の豊かな人」とか「思い込みの強い人」と思われるかもしれません。

この歌の作者である吉田清太郎牧師は「み声」を「良心の語りかけ」であると理解していました。(未熟な私なりに理解して。。)

してみると、この歌の論理は、人間の「良心」が「完全に正しい」という前提がなければ破綻してしまいます。

はたして人間に「完全な良心」なるものが、備わっているものなのでしょうか。それも、すべての人間に備わっていなければならないのです。

この問いに答える鍵は前述の「心にすむ神」というところにあります。

吉田牧師は「良心の本源」は神様であると語っています。
詳しくは別の機会を待ちますが、『ナルニア国物語』の著者として有名なCS・ルイスも、彼の代表的な宗教著作『キリスト教の精髄』の中で、同一の論理を展開していますし、聖書もその事を語ってます。(未熟な私なりに。。)

つまり「良心」は「心にすむ神」によって完全にされているというのが、吉田牧師の考えです。

また普通、人間の「良心」と神様との連絡は切れていて(この神様との断絶を、キリスト教では「罪」と呼ぶ)、神様と「良心」の間を結ぶのが宗教であると、吉田牧師は述べています。

「心で聞く」ことについてもう一考。

キリスト教の文化の中では、神様の「み声」は「かすかな」「か細い」声であるという形容がよく用いられるように思います。

これは日常の雑踏の中で、絶えず乱れている私たちの「心」には、神様の「み声」は聞こえ難いものであるという事だと思います。

ところで「心」に聞こえる「み声」が、私たちの想像や思い込みではなく、確かに存在するのだという事を、証明する事は出来るのでしょうか?

私の考えでは、それを「論理(即ち抽象的な言葉)」として証明することは、不可能だと思います。しかし「具体的な経験」として、確かに神様が私たちに語られるという事を、私たちは経験することが出来ます。

少し前にベストセラーになって、映画化もされた『博士が愛した数式』という小説があります。残念ながら私は、映画のみをTVで視ただけで、原作はまだ読めていません。

その映画『博士が愛した数式』の中に、次のようなシーンと台詞があります。

深津絵里演じる主人公(家政婦役)の息子ルートが病院に運ばれ、主人公は病院の待合室でうなだれています。そこに寺尾聰演じる博士が紙とペンを手に近づき話しかけるのです。
※台詞の詳細は記憶に任せるほかないのが残念です。
(原作をお持ちの方は教えて下さい。)

「この紙に直線を書いてみなさい」
主人公は言われたとおりに紙とペンを受け取り、一本の横線を描く。
博士はそれを見て、
「今あなたが描いたのは、ある点と点を繋ぐ線分でしかない」
その後博士の解説が続きますが、その内容は次のようなものだったと記憶しています。

数学の上での「真の直線」とは、無限に続く真っ直ぐな線であって、それは紙の上に描けるようなものではありません。「真の直線」は「人の心の中にしか存在しない」のです。それと同じように「本当に大切なことは心にしか見えない」、また「この世界は目に見えないものを土台としている」のです。

これは真理だなぁと関心しました。(原作のファンの方、間違っていたらごめんなさい。。)

「本当に大切なことは心にしか見えない」のなら「本当に大切な言葉は心にしか聞こえない」のだと思うのです。そしてこの世界は、確かに「目に見えないお方の、耳には聞こえない声を土台として」存在し、また保たれているというのが「私たち」の考えです。

第二回、長くなりました。
最後まで読んで下さった方に心から感謝します。

先が思いやられますが、どうぞお付き合い下さい。
また、心ある方は、私がこの解説を途中で放り出さないようにお祈り下さい。

心に「み声」が聞こえます。
そうです神様、これは単なる自己満足です。。

『キリスト教信仰和讃』の解説第3回

箇所
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

全文は『キリスト教信仰和讃』①を参照。

「働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。」

非常に単純なことを勧めている箇所なので、果たしてここに解説が必要だろうかと思う。

それでも敢て解説を加えたい。

ここで注目したいのは、「働く」事と「学ぶ」事という我々人間の基本的な活動が、神の「み声」を聞いた後に「すべき事」として勧められている点です。

逆を言えば、吉田牧師は、『神の「み声」を聞く前には、「働く」事も「聞く」事も控えるべきである』と言いたかったのではないかと私は思います。

ですから、ここで語られている「働き」と「学び」とは、前節の「天と心にすむ神の、み声」を前提にしている「働き」と「学び」であって、私たちが一般に用いる「職業的労働」としての「働き」や「抽象的学問」としての「学び」を意味してはいないのです。

それでは「天と心にすむ神の、み声」を前提にしている「働き」と「学び」とはどのようなものであるかといいますと、第一には偏在の神に取り囲まれている者として、また内在の神の促しにより、平安と喜び、そして確信に溢れて行う、この世的利害関係、損得勘定とは全く無縁の「真の人間活動」としての「働き」と「学び」であるという事ができるでしょう。

この「真の人間活動」こそ「善きこと」と呼ぶに相応しい、私たち人間の行為です。

吉田牧師はこの段落を「どこにても」という言葉で閉じています。

この「どこにても」には「空間的な」意味と共に「時間的」意味が含まれているように思われます。即ち『いつでも何処でも、絶えずそうしなさい』という意味ではないでしょうか。

そしてこの言葉は、直前の「働き」と「学び」という「善きこと」に対してだけでなく、当然「天と心にすむ神の、み声を心でよく聞く」ことにも掛かっているのです。

ここで『キリスト教信仰和讃』その一の 一、を私なりの言葉でまとめると次のようになります。

『偏在であると同時に内在される神様のみ声に、絶えず耳を傾けなさい。そして、そのお声を聞いたからには、ただその通りに行いなさい。それこそが本当に善きことなのです。』

『キリスト教信仰和讃』③~補足~

『キリスト教信仰和讃』
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

昨日はこの箇所を私なりにまとめてみたのですが、現在読書中である『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』のなかに、この詩句の解説として相応しい、吉田牧師自身の言葉を発見したので、ここに補足致します。

『神の栄光は、万有を通して輝くとともにわが心を通してまた輝いてくる。その際その光りに応じて起居動作をすると千変万化する。日常生活がことごとくよろしきにかなわざるはないものとなる』

これは吉田牧師が、同時代の高名な禅僧・峨山和尚に対してキリスト教を説明した際の言葉であり、これに付いても或いは解説が必要かとも思いますが、今回は資料として紹介するに留めます。

以上

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影の国にわかれをつげて

とうとうブログを開設しました。

ブログ名は「影の国にわかれをつげて」です。

これはCSルイスによる児童文学の最高峰たる「ナルニア国ものがたり」の完結編「さいごの戦い」最終章のタイトルから取りました。

その最終章に於いては、シリーズ中の登場人物たちが大集合して「さらに高く、さらに奥へ!」と口々に叫びながら、あるところへ駆けて行くのです。そして「影の国にわかれをつげて」大団円となるのですが、その読後感に触発されてこのタイトルをつけました。

せっかくの名作が、わたしなどによってネタバレしてしまうことは避けたいので、詳細は伏せておきたいと思いますが、もし「ナルニア国ものがたり」シリーズをまだ読んだことがない方、或いはシリーズ途中だけを読み最終章まで読み終えていないという方がおられたなら、ぜひ読んでみて頂きたいと思います。

ともあれ、このブログの目的は、わたしが「ひとりの人」として、このブログを訪ねてくださる皆さんと共に「さらに高く、さらに奥へ」と「駆け」また「登ってゆく」こととしたいと思います。

わたしが思うに、ルイスはこの「影の国」を、決してネガティブなものとは考えていませんでした。

この「影の国」を、現在のわたしの言葉で説明しますと「聖と俗の狭間」という言葉になります。

そしてわたしは、この「聖と俗の狭間」に生きる「ひとりの人」として、このブログを通して多くの人に出会って行きたいと思っています。

宜しくおねがいします。

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