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対話的または弁証法的存在として

近年、私たちの生きる社会はポストモダニズムの台頭によって価値観が多様化すると共に、個人主義がはびこり、だれもが自分の意見、立場を持ち、提供される多くの情報の中から、自分の好きなもだけを取捨選択する自由を持ってます。

このような時代にあっても「社会的な存在」である私たちは、他者と「対話」しつつ「共に生き」て行かなければなりません。

ジェームズ・フーストン博士はその著書『喜びの旅路』の序文に於いて、『「人格的な交わりを大切にする」ためには、形式は弁証法、または対話を用いなければなりません。なぜなら、何かを語る者は、同じく応答し、語ることの出来る他者と対峙するからです。』と語ってのち、「弁証法」=「対話」とは、「たとい、お互いの見解が同じでない場合でも、共に生きていくことの人格的な側面を高め、深めていくために、互いに話し合うこと」であると定義しています。

またフーストン博士をして、キリスト教界の「ソクラテス」と言わしめているセーレン・キルケゴールは、「弁証法とは、相反するものを新しく創造的に統合することである」と語っています。

フーストン博士とキルケゴール、この2人の賢人の言葉を信じるならば、私たちは「対話」することによって、物事を「新しく創造的に統合する」力を持っているということになります。

ですから私も、私の語る言葉が「独白」ではなく、「対話」となるように努力したいと思います。

またそれ以上に重要なことは、実際に他者と「会話による対話をする」とか「弁証法」によって「他者を説得する」というDoingな事ではなく、むしろBeingである自分の在りかたとして、「対話的な自分」即ち「弁証法的な自分」に成るということではないかと思う。

つまり、自分が語る時、「同じく応答し、語ることの出来る他者と対峙しているのだという事を絶えず意識して、お互いの見解が同じでない場合でも、共に生きていくことの人格的な側面を高め、深めていく」ために努力する自分になるということである。

私個人としては、「自分自身の思うところ(道徳的な基準や信仰的な信条など)」は、まず第一に自分自身にのみ適応して、他者もまたそうである(自分と同じ考え方を持つ)ことは求めない。これこそ「対話的、弁証法的な自分」の在りかたではないかと考え、そういう者に私はなりたい、と日々精進しております。

自分の気付いたことや考えていることを分かち合う。それは、大切であり、また素晴らしい経験ではあるが、「受け手である他者」が寛容に自分を受け入れ続けて下さることを信じて、初めて出来ることではないかと思う。

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