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映画『ザ・ロック』を観て、戦争と恐怖に関する論考

昨日TVで放映された映画『ザ・ロック』を観ました。

1996年公開の映画ですが、製作がドン・シンプソン&ジェリー・ブラッカイマー 、監督がマイケル・ベイ、主演にニコラス・ケイジとショーン・コネリーを起用し当時大ヒットした、いかにもハリウッド的な派手なアクション映画で、私の大好きな映画の一本です。

ですから、これまでにも何度も繰り返しこの映画を観ているわけですが、昨日TV放映されたものを観ていて、下記の台詞が私の印象に残りました。

「これは恐怖との戦争だ」

これは、81人の民間人の人質を取り、最新化学兵器VXガスロケットの標的をサンフランシスコに向けたテロリスト(ベトナム、パナマ、グラナダ、そして湾岸戦争と輝かしい戦歴を残し、無数の勲章を手にした伝説的な英雄ハメル准将率いる有能な海兵部隊)が立て篭もる、アルカトラズ島に対する全面的爆撃を許可する際のアメリカ合衆国大統領の台詞である。

つまり、大統領は何万人ものサンフランシスコ市民の命と、ハメル准将率いるテロリスト、事態収拾の為にアルカトラズに潜入している海軍特殊部隊NavySEAL、そして81人の民間人の命を秤にかけて苦肉の決断を下したのである。

「ザ・ロック」は湾岸戦争後のアメリカが抱えるかなり重いテーマを題材とはしているものの、ベトナム戦争の悲惨と狂気を現実的、批評的に描いたフランシス・F・コッポラの「地獄の黙示録」とは違い、基本的には娯楽映画として製作されている為、製作側がどこまでこの台詞に重きを置いているのかは定かではない。

しかしそうではあっても、いやむしろそうであるからこそ、この台詞の持つメッセージの普遍性が私の心には響いたのである。

「これは恐怖との戦争だ」

この台詞を聞いて私の心に去来した一つの問いは、「果たして”恐怖との戦争”ではない戦争などというものが、世界に存在するのだろうか?」というものである。

あまりにも有名である「地獄の黙示録」の最後の台詞はマーロン・ブランド演じるカーツ大佐の「恐怖だ、、、恐怖だ、、」というものである。(これはこの映画の一応の原作であるジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」のカーツの最後の台詞と一致している。)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E3%81%AE%E5%A5%A5

一足飛びに結論だけを言ってしまえば「戦争について考えた時、それがどのような経緯を辿ったにせよ、行き着くところは「恐怖」なのではないか。」というのが私の考えである。

何故ならば、すべての戦争が「恐怖をその根源に抱えている」と考えるからである。

私は戦争を私たちの身近にある「個人的な争いや憎しみが拡大したもの」または、「人間の自己の利益の追求の中で起こる他者との衝突が拡大したもの」のであると考えている。

つまり私は「個人的な争いや憎しみ」また、「人間の自己の利益の追求」の根源に「恐怖」があると考えるのです。

それらは「自分の存在が脅かされる」という恐怖であり、「自己の利益が害される」という恐怖である。

これらをもっと根源的な言葉で表現するならば「存在の恐怖」と言えるのではないでしょうか。そしてこの「存在の恐怖」は、我々人間が「存在を肯定される必要」を持っていると同時に、その「必要が満たされていない現実」、つまり「存在が肯定されているという絶対的な根拠を持たない」ところから来ているのだと私は考える。

クリスチャンである私の場合「存在が肯定されているという絶対的な根拠」を、聖書がその「実在」を証言している「天地の創造主なる神」すなわち「被造物である我々を愛し、その保護と養育を提供する神」に求める事ができる。

私は専門家ではないので詳しく語る言葉を持ちませんが、心理学にも「存在不安」という言葉が存在する。

常識的に考えれば、この「存在不安」は「他者から肯定される」ことで解消されるはずである。

それも自分に対して「影響力を持つ他者」であればあるほど、その効果は大きいものと思われる。例えば両親や恋人、或いは社会的な地位の高い尊敬される人々だろうか。

しかし、そこには「不完全さ」が伴う。なぜなら、ここでは「存在の肯定を提供する人々」もまた「存在を肯定される必要を持っている人々」であるからだ。

その「不完全さ」は、しばしば「関係の不健全さ」へと繋がる。現代の心理学者たち、或いはえせ心理学者たちが声高に叫ぶ「共依存」とはこのことではないかと私は考える。

とはいえ、私は専門家ではない。

私が提供できる一つの事実は、キリスト教神学では、神を「絶対他者」と定義していることである。

この事実から私が導き出した結論は、人類のうちに普遍的に存在する「存在不安」すなわち「存在の恐怖」を解決できるのは「絶対他者による存在の肯定」のみであるということだ。

もし読者が、聖書の証言する「創造主なる神」以上に「実存的な絶対他者」を発見することができるならば、キリスト教にこだわる必要は無いかも知れない。

しかし私の見たところでは、そのような「偉大な存在」は人類の歴史上「他にない」のである。

釈迦も孔子もソクラテスも、この「絶対他者」を「知覚」はしているように思える。

しかし「聖書」ほどの具体性、歴史性、信憑性、また説得力を持って、この「絶対他者」についてはっきりと証言している書物は存在しないし、イエス・キリストほどはっきりと、その「絶対他者と人間(ヒューマンネイチャー)としての自己との結びつき」を証言した人間も、歴史上存在しないのである。

最後に宗教的な話しになってしまった為、不快を感じられる読者がいたならばお詫びを申し上げたい。前回述べているいるように、私は可能な限り「独白的ではなく対話的な自分」でありたいと思っているからです。

TVで映画を観てこんなことを考えている自分を、やはり少し変人であると思う今日この頃。

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