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「エントロピー」に対抗する力

前回の続編です。

「形骸化」とはその組織から「いのち」が失われてゆく状態である。

これがわたしの試論である。

組織の「いのち」、すなわち肝がなんであるのかという事は、それぞれの組織によって違うはずである。

私のもっとも身近にある組織である「教会」の「いのち」は「イエス・キリスト」であり、「聖書」である。

「企業」の「いのち」は「商品」であるかもしれないし「従業員」であるかも知れない。

或いは組織には必ず「基本理念」なるものがあるはずである。その呼び方はどうあれ、もしそれがないとすれば、そもそもその組織には「存在意義」がないということになってしまいます。

組織の「いのち」がやがて失われてしまうのはなぜなのだろうか。

前回に「エントロピー」の話しをしました。熱力学の話しではなく、私たちが経験的に知っている、この世の万有に働く「崩壊に向かう力」としての「エントロピー」についてである。

組織が「形骸化」してゆく時、「エントロピー」は増大する。そして組織は崩壊するのである。

「エントロピー」は、目に見えるものに対してだけではなく、目に見えないもの、例えば人間の「心」にも働く。

人間の「心」さえも、絶えず崩壊に向かっている。非常に乱暴な論法ではあるが、ある意味では、これをキリスト教的に「原罪」と考えても良いと思う。

人間の「心」は、生まれつき「罪の方向へ」傾いている。これが聖書の示す人間観である。(これもまた非常に乱暴な表現であはあるが、丁寧に扱うには時間が掛かりすぎるので別の機会を待つ。)

人間の「心」に働く「エントロピー」の結果、組織の構成要素である「個々の人間」が「堕落」する。

この「堕落」には、「怠惰」や「高慢」「ねたみ」「そねみ」「裏切り」「不信」など目に見える色々な現象がともなうであろうが、それらの根本にあるものは、結局のところ「自己中心」という一つの言葉でまとめることができると思う。

「自己中心」とはすなわち、人間と人間の結びつきを切断するハサミである。

このハサミによって、組織はバラバラに切り刻まれて崩壊へ向かう。

しかしこのような「エントロピー」に対抗する「力」も存在することを前回考えました。すなわち「ルネサンス」に代表される「新生の力」である。

それではこの「新生の力」とはなんなのであろうか。

ここで私はこの「新生の力」の構成要素として二つのものを挙げたいと思う。

まず第一のものは「愛(あい)」である。もっと詳しく言えば「いのちに対する愛」である。

ここで言う「いのち」とは「組織のいのち」のことであるから、最初に例にとった「教会」であるなら「イエス・キリスト」そして「聖書」に対する「愛」であるし、「企業」の場合「商品」また「従業員」に対する「愛」である。

第二のものは「誠実」、すなわち「基本理念」に対する「誠実」である。

愛する場合にも、誠実である場合にも、それを行う場合には努力と犠牲が伴う。なぜならばそれは、この「世の流れ」すなわち「エントロピー」に逆らう道であるからである。

しかし人間にはそれを行う「力」があり、また「意思」もあることを、私たちは経験的に知っています。

この「力」と「意思」を働かせる為に必要な事は「選択」です。

私たちには絶えず「選択」が迫られています。この「世の流れ」に従うのか、或いはそれに逆らい、「努力」し、「犠牲を払う」のかという「選択」です。

もし私たちが、「努力」し、「犠牲を払う」方を絶えず「選択」したいと願うならば、その為には「決心」が必要でしょう。

ここで一つの結論に達します。

すなわち、「エントロピー」に対抗する「新生の力」を生み出しているのは、我々「人間」であるという事です。

ひとまずこれにて御免。

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