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『キリスト教信仰和讃』解説1回から3回補足まで

『キリスト教信仰和讃』

数ヶ月前、吉祥寺の「さかえ書房」という古本屋で一冊の本に出会った。

タイトルは
『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』である。

素晴らしい本には違いないが、まだ読み始めの為、レビューは後日改めて書きたいと思います。

本書を読み始めてすぐに、一つの素晴らしい歌が紹介されていて、私の心を完全に捕らえてしまったので、まずその歌を紹介することにしました。

『キリスト教信仰和讃』

その一
一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

じつはこれに「その二」が続きますが今回はここまで。

これは牧師であられる吉田清太郎師が、日曜学校でこどもたちにも歌わせていた歌だそうで、非常に深い真理を平易な言葉で、本当に解りやすく表現しています。しかも韻がしっかり踏まれていて、文章としても、詩句としても美しさを持っていると思います。

私は本当にこの歌に惚れ込んでしまったので、
しばらくシリーズで勝手に解説なんぞを始めてみようと思い立ったのです。

手始めにその一の一、

「天と心にすむ神の、」

冒頭のこの言葉をとっても非常に深い、或いは単純には理解し難い真理を語っています。
つまりは、神はまず、「天」即ち、我々人間の「外側なる空間(また「天」という語は我々の住む次元、空間よりも高次の空間を連想させると共に、私たちの外側にある空間のいたるところとの意味も持っている)」に住むと同時に、「心」即ち、我々人間の「内側(物理的にというよりは「心」という目に見えない、しかし確かに存在する器官)」に住んでおられるという事を語っています。

これらの事を学問的な言葉では、神の「偏在」と「内在」と言います。

吉田師の神、即ちキリスト教の神様は、確かに、この一見矛盾するような二つのあり方によって、存在し、また働いておられます。

『キリスト教信仰和讃』は、この神の「偏在」と「内在」を、大袈裟にではなく、あたかも当然の事のように語っています。

続く詩句の中で、この主題は展開され、また深く解説されていますが、今日はここまでにしたいと思います。

『キリスト教信仰和讃』の解説第2回

箇所
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。

「み声を心でよく聞いて、」

上記を文字通り理解しますと、前述の「偏在」されると同時に「内在」される神様の「み声」を、鼓膜を通してではなく、「心」によって よく聞くようにという薦めです。

キリスト教の文化の中では、祈りの中で、今も生きて働いておられる神様の「み声(神様の語りかけ)」を聞くということが言われています。また私自身も日々そのような体験をしているわけです。

説明なしにこのような事を聞きますと、大多数の方々は、私を「聖人」か「狂人」のどちらかと思うか、或いは「想像力の豊かな人」とか「思い込みの強い人」と思われるかもしれません。

この歌の作者である吉田清太郎牧師は「み声」を「良心の語りかけ」であると理解していました。(未熟な私なりに理解して。。)

してみると、この歌の論理は、人間の「良心」が「完全に正しい」という前提がなければ破綻してしまいます。

はたして人間に「完全な良心」なるものが、備わっているものなのでしょうか。それも、すべての人間に備わっていなければならないのです。

この問いに答える鍵は前述の「心にすむ神」というところにあります。

吉田牧師は「良心の本源」は神様であると語っています。
詳しくは別の機会を待ちますが、『ナルニア国物語』の著者として有名なCS・ルイスも、彼の代表的な宗教著作『キリスト教の精髄』の中で、同一の論理を展開していますし、聖書もその事を語ってます。(未熟な私なりに。。)

つまり「良心」は「心にすむ神」によって完全にされているというのが、吉田牧師の考えです。

また普通、人間の「良心」と神様との連絡は切れていて(この神様との断絶を、キリスト教では「罪」と呼ぶ)、神様と「良心」の間を結ぶのが宗教であると、吉田牧師は述べています。

「心で聞く」ことについてもう一考。

キリスト教の文化の中では、神様の「み声」は「かすかな」「か細い」声であるという形容がよく用いられるように思います。

これは日常の雑踏の中で、絶えず乱れている私たちの「心」には、神様の「み声」は聞こえ難いものであるという事だと思います。

ところで「心」に聞こえる「み声」が、私たちの想像や思い込みではなく、確かに存在するのだという事を、証明する事は出来るのでしょうか?

私の考えでは、それを「論理(即ち抽象的な言葉)」として証明することは、不可能だと思います。しかし「具体的な経験」として、確かに神様が私たちに語られるという事を、私たちは経験することが出来ます。

少し前にベストセラーになって、映画化もされた『博士が愛した数式』という小説があります。残念ながら私は、映画のみをTVで視ただけで、原作はまだ読めていません。

その映画『博士が愛した数式』の中に、次のようなシーンと台詞があります。

深津絵里演じる主人公(家政婦役)の息子ルートが病院に運ばれ、主人公は病院の待合室でうなだれています。そこに寺尾聰演じる博士が紙とペンを手に近づき話しかけるのです。
※台詞の詳細は記憶に任せるほかないのが残念です。
(原作をお持ちの方は教えて下さい。)

「この紙に直線を書いてみなさい」
主人公は言われたとおりに紙とペンを受け取り、一本の横線を描く。
博士はそれを見て、
「今あなたが描いたのは、ある点と点を繋ぐ線分でしかない」
その後博士の解説が続きますが、その内容は次のようなものだったと記憶しています。

数学の上での「真の直線」とは、無限に続く真っ直ぐな線であって、それは紙の上に描けるようなものではありません。「真の直線」は「人の心の中にしか存在しない」のです。それと同じように「本当に大切なことは心にしか見えない」、また「この世界は目に見えないものを土台としている」のです。

これは真理だなぁと関心しました。(原作のファンの方、間違っていたらごめんなさい。。)

「本当に大切なことは心にしか見えない」のなら「本当に大切な言葉は心にしか聞こえない」のだと思うのです。そしてこの世界は、確かに「目に見えないお方の、耳には聞こえない声を土台として」存在し、また保たれているというのが「私たち」の考えです。

第二回、長くなりました。
最後まで読んで下さった方に心から感謝します。

先が思いやられますが、どうぞお付き合い下さい。
また、心ある方は、私がこの解説を途中で放り出さないようにお祈り下さい。

心に「み声」が聞こえます。
そうです神様、これは単なる自己満足です。。

『キリスト教信仰和讃』の解説第3回

箇所
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

全文は『キリスト教信仰和讃』①を参照。

「働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。」

非常に単純なことを勧めている箇所なので、果たしてここに解説が必要だろうかと思う。

それでも敢て解説を加えたい。

ここで注目したいのは、「働く」事と「学ぶ」事という我々人間の基本的な活動が、神の「み声」を聞いた後に「すべき事」として勧められている点です。

逆を言えば、吉田牧師は、『神の「み声」を聞く前には、「働く」事も「聞く」事も控えるべきである』と言いたかったのではないかと私は思います。

ですから、ここで語られている「働き」と「学び」とは、前節の「天と心にすむ神の、み声」を前提にしている「働き」と「学び」であって、私たちが一般に用いる「職業的労働」としての「働き」や「抽象的学問」としての「学び」を意味してはいないのです。

それでは「天と心にすむ神の、み声」を前提にしている「働き」と「学び」とはどのようなものであるかといいますと、第一には偏在の神に取り囲まれている者として、また内在の神の促しにより、平安と喜び、そして確信に溢れて行う、この世的利害関係、損得勘定とは全く無縁の「真の人間活動」としての「働き」と「学び」であるという事ができるでしょう。

この「真の人間活動」こそ「善きこと」と呼ぶに相応しい、私たち人間の行為です。

吉田牧師はこの段落を「どこにても」という言葉で閉じています。

この「どこにても」には「空間的な」意味と共に「時間的」意味が含まれているように思われます。即ち『いつでも何処でも、絶えずそうしなさい』という意味ではないでしょうか。

そしてこの言葉は、直前の「働き」と「学び」という「善きこと」に対してだけでなく、当然「天と心にすむ神の、み声を心でよく聞く」ことにも掛かっているのです。

ここで『キリスト教信仰和讃』その一の 一、を私なりの言葉でまとめると次のようになります。

『偏在であると同時に内在される神様のみ声に、絶えず耳を傾けなさい。そして、そのお声を聞いたからには、ただその通りに行いなさい。それこそが本当に善きことなのです。』

『キリスト教信仰和讃』③~補足~

『キリスト教信仰和讃』
その一の 一、

一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

昨日はこの箇所を私なりにまとめてみたのですが、現在読書中である『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』のなかに、この詩句の解説として相応しい、吉田牧師自身の言葉を発見したので、ここに補足致します。

『神の栄光は、万有を通して輝くとともにわが心を通してまた輝いてくる。その際その光りに応じて起居動作をすると千変万化する。日常生活がことごとくよろしきにかなわざるはないものとなる』

これは吉田牧師が、同時代の高名な禅僧・峨山和尚に対してキリスト教を説明した際の言葉であり、これに付いても或いは解説が必要かとも思いますが、今回は資料として紹介するに留めます。

以上

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コメント

神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神様に、ただちにお礼を申しましょう。

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。


この箇所いいね。今、しんどいぎみでたいしたことも出来ていない俺には少しだけ、ほんの少しだけやけど、全てがフィットするよ。
ちっとは希望持っていいのかしら?っ思えるね
苦しくて、キリスト教的罪を犯して、心が落ちる自分に助けになるね。こういうのあるからキリスト教すきやわ。

詩のリズムテンポもいいしね。

投稿: 良太 | 2007年6月10日 (日) 03時54分

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