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『キリスト教信仰和讃』第4回

『キリスト教信仰和讃』の解説第4回

箇所
その一の二、

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

全文は『キリスト教信仰和讃』①を参照。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

その一の一、では神の「内在」についてお話ししましたが、今日の箇所ではこの「内在」をさらに掘り下げています。

「内在」という言葉を使うので、「神は人のうちに住む」という時、何となく神が「物理的に」人間の内側に宿るというような様子を想像する方が多いのではないでしょうか。

ここで、①で私が、『「心」即ち、我々人間の「内側(物理的にというよりは「心」という目に見えない、しかし確かに存在する器官)」に住んでおられる』という表現を用いたのを思い出して頂きたいと思います。

「心」とは目に見えない器官であって、それが物理的に何処に存在するのかという事は、科学的にも、未だはっきりしていません。「心」の位置について、ある人たちは「脳」にあると言い、ある人たちは古典的に「心臓(ハート)」にあると言いますが、私たちの「心」はそのような単純なものではなく、「霊」「魂」といったものと深く関わっています。そのことは、皆さんも自分自身で、自分の「心」が果たして何処にあるのかと、暫く黙想してみますと良く解ることと思います。

話しが「心」に脱線しましたが、神もまた目に見えず、形が無い存在であります。であるからこそ「偏在」すると共に「内在」するという事が可能となるのです。そしてこのように神の「内在」について語る時、この「内在」という言葉の意味は、単純に「内側に在る」という意味ではなく、今日の詩句が「人は神の内に住み、神は人のうちに住む、」と語っているように、神と人が全く「一体」であるという意味なのです。
※「人は神の内に住み」という場合、全宇宙を覆う「偏在」の神の内に護られて在る人というイメージもありますが、ここでは「内在」ということに集中したいと思います。

本日の詩句は、この神と人との「一体性」を、非常に理解しやすい比喩を用いて、見事に語っております。

即ち「魚と水との如くにて、」です。
この表現は、まさに言い得て妙であります。

魚は水の中に在って、水の外では生きていけません。
また水は、魚の外側を包んでいるだけでは無く、魚の内側にも満ちているのです。

このように魚と水が一体であるとき、この両者を引き離すことは自然には全く出来ないことです。

この詩句の作者である吉田清太郎牧師は、この「魚と水との如くに」「人と神とは一体だ。」と喝破しているのです。

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