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『キリスト教信仰和讃』解説第7回

昨日の続きです。

箇所
その一の四、

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所の「主語」は「天と心に住む神」であり、「一つ一つ喜び」「一つ一つむくい(る)」という二つの「動詞」は「神の動詞」であること、そしてこの「動詞を持つ神」は「動かざる神」ではなく「活動する神」である、ということを前回の最後に述べました。

「動かざる神」とは「ただ存在する神」であり、その存在を認められた所で、私たち人間には、なんら影響を及ぼすことのない存在である。一体誰がそのような存在を、神であると想像することが出来るでしょうか。

しかし、実は多くの人々が日常生活の中で心に描いている神とは、この「動かざる神」なのです。しかも人々は、自分がそのような「不自然な神観」を持っていることにさえ気付いていないのです。

多くの人々が次のように語るのを私はよく耳にします。

「神は存在すると思う」「神様はいると思う」「神様は信じる」etc...

このように語る人々は愛すべき善意の人々です。しかしかれらは、一つの「決定的に大切な点」について、全く無頓着に過ぎるのです。

その「決定的に大切な点」とは、もし本当に神が存在するのだとしたら、それは一体どのような神なのであるかという点である。

私はここで、その人々を批判したい訳ではありません。そうではなくて、むしろその愛すべき善意の人々に「敬意」を表し、共に「更なる深み」へと一歩を踏み出したいと願っているのです。

この吉田清太郎牧師による『キリスト教信仰和讃』は、その名の通り「キリスト教信仰」に立って神を見、また仰いでいます。

この「キリスト教信仰における神」こそ「活動する神」である。

「活動する神」とは「生ける神」であり、「人格的な神」であり、「行為する神」である。

ところで、私たち人間も「生ける、人格的な、行為する存在」です。

「生ける、人格的な、行為する存在」である人間に対しては「敬意」が払われなければなりません。これは「私たちが生きる社会」の根底にある基本的な感情であるはずです。

もしそうであるなら、「生ける、人格的な、行為する神」に対してもまた、私たちは「敬意」を払うべきであります。

「敬意を払わない」とは即ち、「侮る(あなどる)」ことを意味します。

私たちが「侮り(あなどり)」に対して、自然に抱く感情は「怒り」ではないでしょうか。

ですから「生ける、人格的な、行為する神」もまた、「侮り(あなどり)」に対して「怒り」を燃やされるであろうことは、容易に想像出来ることであります。

しかし、今回の主題は「神の怒り」ではなく「神の喜び」であり、「神のむくい」です。

「天と心に住む神」は、私たちの行う「親切」を「一つ一つ喜び」、「一つ一つむくい」て下さるのです。

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