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2007年7月

ナルニア国ものがたり

これまでもC・S・ルイスの著作については度々触れてきたが、ここで改めて、ルイスによるファンタジー児童文学の最高傑作『ナルニア国ものがたり』を紹介したいと思う。

『ナルニア国ものがたり』は、その第一作である『ライオンと魔女』のディズニー製作(ウォルデン・メディア制作)による2006年春の映画公開に伴い、日本での知名度も一気に広がったが、それ以前より、ファンタジー児童文学の分野では、あらゆる意味に於いて他の追従を赦さない傑作として多くのファンを持つ傑作である。

作品の概要

『ナルニア国ものがたり』は、1950年から7年のあいだ、毎年一冊づつ、立て続けに出版された、「この地上ではないどこか」にある「ナルニア」という国を舞台とした、児童向けのファンタジーであり、その完結編である『さいごの戦い』は、1957年には、前年度にイギリスで出版されたもっともすぐれた児童文学として、カーネギー賞を受賞しています。 また『ナルニア国ものがたり』は、その一冊一冊が、どれを読んでも、それだけで一つのまとまったおもしろい「おはなし」になっているばかりでなく、七冊全てを通して読んでみますと、これが全体でまた一つのまとまりのある大きな物語として、全体が、「ナルニアのはじまりからおわりまで」を描いた、大きな河のように長大な長編ファンタジーとなっています。

その出版された順序は

  1. 『ライオンと魔女』("The Lion, the Witch and the Wardrobe")
  2. 『カスピアン王子のつのぶえ』("Prince Caspian")
  3. 『朝びらき丸 東の海へ』("The Voyage of the Dawn Treader")
  4. 『銀のいす』("The Silver Chair")
  5. 『馬と少年』("The Horse and His Boy")
  6. 『魔術師のおい』("The Magician's Nephew")
  7. 『さいごの戦い』("The Last Battle")

となり、ものがたりの時系列順には 

  1. 『魔術師のおい』(ナルニア建国)
  2. 『ライオンと魔女』(ピーター朝)
  3. 『馬と少年』(同上)
  4. 『カスピアン王子のつのぶえ』(テルマール朝)
  5. 『朝びらき丸 東の海へ』(カスピアン朝)
  6. 『銀のいす』(同上)
  7. 『さいごの戦い』(チリアン朝 ナルニア滅亡)

となります。

多くの読者の同意を得られることと思いますが、『ナルニア国ものがたり』をはじめて読む場合には、出版順に読む方が楽しんで読めると思います。そうすることにより読者は、出版当時の読者(イギリスのこどもたち)がそうであったように、巻を追うごとに「ナルニアのなぞ」に答えを与えられてゆき、最後に『さいごの戦い』を読み終えたとき、ナルニアという一つの世界の「はじまりからおわり」までを疑似体験し、その「向こう側」にあるものの希望に行き着くことができるでしょう。そして、今度は自分のお気に入りの順に、「ものがたり」を読み返すことでしょう。

日本語版の訳者である瀬田貞二さんは「七つの物語を通して、ナルニアとは、人間のなかにある永遠の善と悪の戦いによせた象徴」であると述べて後「けれども、この作者は、どの行にもそんなつまらない種あかしやお説教をのべずに、ただひたすらに楽しく美しく、ふしぎに劇的に、空想のお話をじゅんじゅんとみずから楽しんで語りつづけている」と述べています。

そして作者であるルイス本人は、子どもの本を書く自分の目的は、「子どものための物語こそ、私がいわなければならない事がらにとって、最良の芸術形式だから。」と語り、一面、「私は、じぶんが読みたがるような本を、じぶんで書いたのです。私がものを書く理由は、いつもそこにあります。ひとが、私の読みたい本を書いてくれないから。私がみずから書かなければならないのです。」とも語っている。

次に、なんとしても語らなければならないのは「アスラン」についてである。

アスランは「偉大なるライオン」東海の果ての大帝の息子にして、ナルニアの創造主。その知知恵と裁きは偉大にして公平である。

この「ものがたり」の中心にはある「経験」があり、その「経験」こそが、この「ものがたり」の最大の魅力である「何ともいえない感動と憧れ」そして「歓び」の源泉であります。その「経験」とは「アスランと出会い」です。「ものがたり」の中心には、いつもアスランがいて、そのアスランとの出会いに、あるいはアスランとともにある歓びに向かってストーリーが進行しているのです。そして読者は、主人公たちと共に、正にアスランに出会うのです。

アスランきたれば、あやまち正され、アスラン吼(ほ)ゆれば、かなしみ消ゆる。

きばが光れば、冬が死にたえ、たてがみふるえば、春たちもどる。

ルイスは『キリスト教の精髄』のなかで、「もしもわたしが自分のうちに、この世のどんな経験も満足させることのできないあこがれがあることに気づくとしたら、それはわたしがべつの世界のためにつくられたということを物語っているのではないでしょうか」と述べています。またオクスフォード大学のチャペルの礼拝説教のなかで「まことの故郷にたいする、わたしたちのあこがれ、いま切りはなされていると感じている、宇宙の何ものかとふたたびいっしょになりたいという気持ち、つねに外側から眺めてきた扉の内側に入りたいという思いこそ、わたしたち人間の本当のありかたをたしかに指し示しているものなのです」と語っています。

ルイスが『ナルニア国ものがたり』で書きたかったものは、この「あこがれ」なのです。

ライオンと魔女 ナルニア国ものがたり(1) Book ライオンと魔女 ナルニア国ものがたり(1)

著者:C.S.ルイス,瀬田 貞二,C.S. Lewis
販売元:岩波書店
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カスピアン王子のつのぶえ ナルニア国ものがたり (2) Book カスピアン王子のつのぶえ ナルニア国ものがたり (2)

著者:C.S. ルイス,C.S. Lewis
販売元:岩波書店
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朝びらき丸東の海へ ナルニア国ものがたり (3) Book 朝びらき丸東の海へ ナルニア国ものがたり (3)

著者:C.S. ルイス,C.S. Lewis
販売元:岩波書店
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銀のいす ナルニア国ものがたり (4) Book 銀のいす ナルニア国ものがたり (4)

著者:C.S. ルイス,C.S. Lewis
販売元:岩波書店
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馬と少年 Book 馬と少年

著者:C.S. ルイス
販売元:岩波書店
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魔術師のおい Book 魔術師のおい

著者:C.S. ルイス
販売元:岩波書店
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さいごの戦い Book さいごの戦い

著者:C.S. ルイス
販売元:岩波書店
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『社会的な死』と『霊のいのち』について

私の主観ではあるが、 現代は、自分は『社会から切り離された』と感じて、 苦しんでいる人々が多いのではないだろうか。

私が属するキリスト教の文化の中には、『死』は何かから『切り離された状態』であるという見方がある。

たとえば『肉体の死』は肉体と魂(霊)が切り離された状態であり、『霊の死』は(人間の)霊が、神から切り離された状態であると考える。
その考えを発展させると、『社会から切り離された状態』に在ることは『社会的な死』であると考えることができる。

実はキリスト教の考える死には、序列がある。
その序列を簡単に述べると、『死』のうちでもっとも影響力があるものは、『霊の死』(聖書はそれを「永遠の死」とも呼んでいる)であり、逆説的には『霊の(霊的)いのち』(即ち「永遠のいのち」)を持っていれば、人間は、その他のあらゆる『死』に打ち勝つのである。

逆に霊的に死んでいる場合、その人が、どれほどその他の『いのち』(肉体的ないのちや社会的ないのち)を持っていたとしても、それらは一時的であるし、やがては必ず衰えて『死』に至るのである。
このことを解りやすく理解して頂くために、ひとつのたとえ話をしようと思う。
今ここに、『肉体的な死』と『社会的な死』を恐れている一人の男がいる。
しかし、幸運にもその男は、『霊のいのち』を持っていた。
その『霊のいのち』を、男は、歴史上もっとも気前の良いお方から、なんの見返りも無しに、只(ただ)で頂いたのであるが。
男は、この世のあらゆる『いのち』の根源である、 『霊のいのち』を持っているので、『肉体的な死』も『社会的な死』も、彼を究極的には損なうことはできない。
それどころか男は、実はすでに『肉体的ないのち』も『社会的ないのち』も豊かに持っているのである。
ただそれらは、誰の目にでも見えるような形では現れないことが多い。

「人に知られないようでも、良く知られ、
 死にそうでも、見よ、生きており、
 罰せられているようであっても、殺されず、
 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、
 貧しいようでも、多くの人を富ませ、
 何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」
                        聖書 コリントⅡ6:9,10 より

「歴史上もっとも気前の良いお方」とはイエス・キリスト様のことである。
そして誰もがそれを望むなら、この「男」のようになることができることを私は信じている。

主よ!無益なる事物に対しては我々の眼を霞(かす)ましめ、
汝のあらゆる真理に関しては我々の眼を隈(くま)なく澄ましめたまえ!
                                    セーレン・キェルケゴール
以上
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続々・言葉の荒廃について

C・S・ルイス、そしてE・H・ピーターソンによれば、「言葉の荒廃」は「美徳への信頼を失わせる」。

また、新渡戸稲造先生によれば、現在私たちが一般的に用いる「義理」という言葉は、「時をへるうちに堕落して」「本来の意味を離れてしまった」言葉である。

言葉は堕落し、荒廃するものであるという事実には、彼等だけでなく、多くの人々が賛同することだろうと思う。

以前私は、この世界は「絶えず崩壊の方向へ進んでいる」ということを《「形骸化」と「新生」について》という記事の中で述べた。              http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_b394.html

そこで私が述べたかった内容は、そのタイトルの通り「形骸化と新生」についてでした。

そのようなことについて私が関心を抱き、語らずにはいられないのは、私がかつて読み、そして現在もまた、ことあるごとに開き、繰り返し読み続けている偉大な作家たちの著書の影響が大きいのだと思う。

私の未熟な理解によれば、新渡戸先生の『武士道』も、カーライルの『衣服哲学』も、ともに「形骸化と新生」について語っている。

またルイスとピーターソンが、その基礎を置いている(私にとってもまた基礎である)『聖書』もまた、その根底に「形骸化と新生」すなわち「堕落と回復」「死と復活」というテーマを持っている。

これらのことからも「形骸化と新生」は、私にとって、ひとつの大きなテーマなのです。

「言葉」もまた、私にとって重要なテーマです。

『聖書』に於ける「言葉」の重要性については、また別の機会を待つことにして、ここではC・S・ルイスによる児童文学の傑作『ナルニア国ものがたり⑥ 魔術師のおい』から、次の箇所を引用したい。

「生きものたちよ。大丈夫だ。大いに笑え。諸君はもはやもののいえない、おろかものではないのだから、いつまでもまじめくさっている必要はない。なぜなら、笑いも正しさも、ことばであらわされるのだから。」

これはナルニア国の創造主であるライオンの王アスランが、「くにづくり」のとき、ナルニア国の最初の住人になる「ものいうけもの」たちに向かって語っている台詞です。

ここから私は、ルイスが「ことばであらわされる」もの、また「言葉」自体に対して抱いている、大きな関心と畏怖を読み取ります。

当然、ここで語りつくすことは出来ませんが、私はこれからも「言葉」を愛し、「言葉」を畏れ、また「言葉」に関わり続けて行きたいと思います。

最後に、日本語の「アイ」すなわち「愛」という言葉について一考したいと思う。

「言葉」とは、元来は人の口から発せられるものであって、「文字」とは区別されるべきものです。つまり「言葉」とは「話し言葉」のことで、「文字」は、それを表記するための「手段」でしかありません。(もちろん価値ある「言葉」に奉仕する「文字」もまた、価値あるものであることに変わりはありませんが。)

上記から「愛」は初めにあった「アイ」という「話し言葉」を表記するために、人間によって恣意的に発明されたものであると言えます。

日本語では、「哀」もまた「アイ」と読みます。

この「愛」と「哀」は、現在一般的には、全く別々の意味を持つ言葉として用いられていますが、私は、少なくとも複数名の有識者たちが、この二つの言葉を深く関連性のあるものとして理解し、語っているのを見聞きしています。

  1. あい【愛】別ウィンドウで表示
    親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「―が芽生える」 ある物事を好み、大切に思... [さらに]
  2. 愛は惜しみなく与う【愛は惜しみなく与う】別ウィンドウで表示
    《新約聖書「コリント人への第二の手紙」から》真の愛は、自分の持つすべてのものを相手に与えても惜しいものではない。
  3. 愛は惜しみなく奪う【愛は惜しみなく奪う】別ウィンドウで表示
    《「愛は惜しみなく与う」をもとにした言葉》人を愛するということは、相手のすべてを奪って自己のものにしようとすることである。有島武郎が評論「惜みなく愛は奪ふ」で主張。

  1. あいえつ【哀咽】別ウィンドウで表示
    関連語なく【泣く】 ⇒関連語むせぶ【咽ぶ・噎ぶ】 
  2. あいがん【哀願】別ウィンドウで表示
    嘆願 哀訴 愁訴 泣き付く 泣きを入れる ⇒関連語なきつく【泣き付く】 
  3. あいしゅう【哀愁】別ウィンドウで表示
    哀傷 哀切 悲哀 哀れ 寂しさ ペーソス 
  4. あいせき【哀惜】別ウィンドウで表示
    関連語おしむ【惜しむ】 
  5. あいせつ【哀切】別ウィンドウで表示
    関連語あいしゅう【哀愁】 ⇒関連語かなしい【悲しい】  

「愛」は「自分」と「他者」との区別を打ち消すものである、ということを以前《『キリスト教信仰和賛』解説第5回》の中で述べた。                http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/5_f907.html

すなわち愛とは「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」ことであると思う。

しかし、現代一般に言う「愛」という言葉からは、そのような意味は失われてしまっているように思う。

これは「悪魔の働き」によるものであろうか、或いは「人為的の故」であろうか。恐らくはその両方が原因であろうと思う。

長らくお付き合いを頂いた方々に心からの感謝を捧げつつ、「言葉の荒廃について」は、以上で閉じたいと思う。

魔術師のおい Book 魔術師のおい

著者:C.S. ルイス
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続・言葉の荒廃について

「言葉の荒廃」について、昨日はユージン・H・ピーターソン(によるC・S・ルイス『悪魔の手紙』)からの引用を紹介した。

ここでは前回の引用を導入として、「言葉の荒廃」について考えてみたい。

だがその前に、親愛なる新渡戸稲造先生もまた、名著『武士道』の中で、この「言葉の荒廃」というテーマについて述べている箇所があるので、ここに引用したいと思う。

「私はしばらく「義理」について述べよう。これは義からの分岐と見るべき語であって、始めはその原型(オリジナル)から僅かに離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、ついに世俗の用語としてはその本来の意味を離れてしまった。義理という文字は「正義の道理」の意味であるが、時をふるに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになったのである。その本来の純粋なる意味においては、義理は単純明瞭なる義務を意味した――したがって我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのである。これらの場合において義理は義務である。何となれば義務とは「正義の道理」が我々になすことを要求し、かつ命令するところ以外の何者でもないではないか。「正義の道理」は我々の絶対命令(カテゴリカル・インペラティブ)であるべきではないか。 ・・・中略・・・私の見るところによれば、義理は偶然的なる生まれや実力に値せざる依怙(えこ)ひいきが階級的差別を作り出し、その社会単位は家族であり、年長者は才能の優越以上に貴ばれ、自然の愛情はしばしば恣意的人工的なる習慣に屈服しなければならなかったような、人為的社会の諸条件から生まれでたものである。正にこの人為的の故に義理は時をへるうちに堕落して、この事かの事――例えば母は長子を助けるために必要とあらば他の子どもを犠牲にせねばならぬのは何故であるか、もしくは娘は父の放蕩の費用のために貞操を売らねばならぬのは何故であるか等々を、説明したり是認したりする時によびだされる漠然たる妥当感となったのである。私見によれば、義理は「正義の道理」として出発したのであるが、しばしば決疑論に屈伏したのである。」

長らく引用したが、この文章に於いて新渡戸先生が仰っている「義理の堕落」は、ピーターソンの言葉で言えば、そのまま「義理」という「言葉の荒廃」を意味しています。

またこの引用文の中には、何故この「言葉の荒廃」すなわち「言葉の堕落」が起こるのかということについて重要な示唆が含まれています。

それは「正にこの人為的の故に義理は時をへるうちに堕落して」との言葉です。

ルイス、そしてピーターソンは「言葉の荒廃」を「悪魔の働き」として意識していました。私はその意見に全く賛成であります。

ここでは「悪魔」などというものが、本当に存在するのかという議論は、一旦控えたいと思います。しかし、ただ一点はっきりと言える事は、「悪魔」という存在がもし存在するのであれば、その目的の一つは「人間を堕落させる」ことであるという事です。

人間の堕落については、以前《「エントロピー」に対抗する力》というタイトルで少し触れました。http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_810c.html

「悪魔」=「エントロピー」であるという乱暴な主張は勿論しないまでも、この二つはある程度、結び付けて考えて良いものだと思う。少なくとも私の用いる用語としては明らかに関連付けて考えている。その上で付け加えておきたい事は、私の考える「悪魔」とは、単なる「何がしかの力」というような存在ではなく「人格的な存在」である。

話しがわき道にそれてしまい申し訳ない。

先程述べたように新渡戸先生は「義理の堕落」すなわち「言葉の堕落」は、「人為的」すなわち「人間の手による」が故に起こったのだと考えていたようである。

次回はこの辺りをさらに詳細に考えてみたいと思う。などと言いつつ勝手に続く。。

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言葉の荒廃について

私が尊敬してやまない牧師であり神学者であるユージン・H・ピーターソンは、その著書『牧会者の神学』のなかでC・S・ルイスの『悪魔の手紙』から引用して次のように述べている。

「誘惑者であるワームウッドは、美徳への信頼を失わせるためのもっとも効果的な方法のひとつは、なによりもまず言葉を荒廃させることであると助言している。」       ※正確には「愛情深い叔父」であるスクルーテイプが「親愛なる」甥のワームウッドに助言しているものと思われる。

この引用の前後でピーターソンが語っているのは「禁欲的」という言葉についてである。

「今では、この言葉は、やつれはてた人物、自虐的な、厭世的な人物、女嫌いの人物といったイメージを持つ言葉になり果てた。悪魔たちの働きの結果、現在、この言葉が荒廃させられてしまっている事実については議論も論証も必要としない。いったい、「禁欲的な牧師」と呼ばれたり、そうした形容が評判になることを喜ぶような人間が、私たちの中に存在するだろうか? ・・・中略・・・ けれども、「禁欲的」という言葉は競技をする者たちにとっては必ずしも特殊な言葉ではない。その人たちにとって、それはより卓越したものをめざすトレーニングを意味する。それは競技に際して最善を発揮できるように自分に適した訓練を実践することを意味するのである。」

私もまた、ルイスやピーターソンと同じく、上記のような「言葉の荒廃」を憂えている者である。

一応続く。。

悪魔の手紙 Book 悪魔の手紙

著者:C.S. ルイス,C.S. Lewis
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『キリスト教信仰和讃』解説第7回

昨日の続きです。

箇所
その一の四、

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所の「主語」は「天と心に住む神」であり、「一つ一つ喜び」「一つ一つむくい(る)」という二つの「動詞」は「神の動詞」であること、そしてこの「動詞を持つ神」は「動かざる神」ではなく「活動する神」である、ということを前回の最後に述べました。

「動かざる神」とは「ただ存在する神」であり、その存在を認められた所で、私たち人間には、なんら影響を及ぼすことのない存在である。一体誰がそのような存在を、神であると想像することが出来るでしょうか。

しかし、実は多くの人々が日常生活の中で心に描いている神とは、この「動かざる神」なのです。しかも人々は、自分がそのような「不自然な神観」を持っていることにさえ気付いていないのです。

多くの人々が次のように語るのを私はよく耳にします。

「神は存在すると思う」「神様はいると思う」「神様は信じる」etc...

このように語る人々は愛すべき善意の人々です。しかしかれらは、一つの「決定的に大切な点」について、全く無頓着に過ぎるのです。

その「決定的に大切な点」とは、もし本当に神が存在するのだとしたら、それは一体どのような神なのであるかという点である。

私はここで、その人々を批判したい訳ではありません。そうではなくて、むしろその愛すべき善意の人々に「敬意」を表し、共に「更なる深み」へと一歩を踏み出したいと願っているのです。

この吉田清太郎牧師による『キリスト教信仰和讃』は、その名の通り「キリスト教信仰」に立って神を見、また仰いでいます。

この「キリスト教信仰における神」こそ「活動する神」である。

「活動する神」とは「生ける神」であり、「人格的な神」であり、「行為する神」である。

ところで、私たち人間も「生ける、人格的な、行為する存在」です。

「生ける、人格的な、行為する存在」である人間に対しては「敬意」が払われなければなりません。これは「私たちが生きる社会」の根底にある基本的な感情であるはずです。

もしそうであるなら、「生ける、人格的な、行為する神」に対してもまた、私たちは「敬意」を払うべきであります。

「敬意を払わない」とは即ち、「侮る(あなどる)」ことを意味します。

私たちが「侮り(あなどり)」に対して、自然に抱く感情は「怒り」ではないでしょうか。

ですから「生ける、人格的な、行為する神」もまた、「侮り(あなどり)」に対して「怒り」を燃やされるであろうことは、容易に想像出来ることであります。

しかし、今回の主題は「神の怒り」ではなく「神の喜び」であり、「神のむくい」です。

「天と心に住む神」は、私たちの行う「親切」を「一つ一つ喜び」、「一つ一つむくい」て下さるのです。

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『キリスト教信仰和讃』解説第6回

またも久し振りのこのシリーズとなりました。

箇所
その一の四、

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

前節の解説に於いて私は、この詩句が「子供たちに、或いはこの詩句のすべての読者、すなわち私たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っている」という事を書きました。

そしてこの箇所は前節で示された「人を大事にすること」をさらに奨励する詩句となっています。

言うまでも無いことであるが、ここで吉田牧師は「小さい親切」を奨励しているのではなく、その大小に関わらず「親切」を行うことを勧めているのである。

ここで、第三回の「どこにても」の箇所で解説したことを思い出して頂きたい。私はそこで「この「どこにても」には「空間的な」意味と共に「時間的」意味が含まれているように思われます。即ち『いつでも何処でも、絶えずそうしなさい』という意味で」言われているのであると解説しました。

この文脈の中で言われている「親切」もまた『いつでも何処でも、絶えず』行うことが奨励されていると考えて良いと思う。その意味も含めての「小さい小さい親切も」という詩句なのである。

私は、本来「親切」に大小は無いと考える。というよりは、人間が自分の「あらゆる行為(それが善であれ悪であれ)」について、自分自身で大小を測ることは出来ないと考えているのです。ある場合には、私たちにとっての「小さい親切」は、その「親切を受ける側の人間」にとって、人生を変えるほどの大きな影響を持つかも知れない。また逆に、私たちにとっての「大きな親切」が、文字通り「大きなお世話」となる場合もあるのである。

上記の理論を「悪」あるいは「罪」について当てはめることは、興味深いことではあるけれども、今回の主題からは離れるので控えることとする。

この箇所でも中心的な言葉(主語)は「天と心に住む神」である。

この詩句を理解する為には、是非ともこの「天と心に住む神」を理解する必要があるのです。このことの具体的な内容については、前回までの解説の中でも詳しく触れています。

今回の箇所の「主語」が「天と心に住む神」であるとすると、「述語」は「一つ一つ喜び」「一つ一つむくい(る)」という、二つの「動詞」です。

上記より、この二つの動詞は「神の動詞」であるといえるでしょう。

ここに於いて私がどうしても語りたいことは、この詩句に於いて私たちが仰ぐ神は「動かざる神」ではなく「活動する神」であるということです。

今回の箇所で語られている「神の活動」は私たちの行う「親切」を「一つ一つ喜ぶ」ことと、その「親切」に「一つ一つ報いる」ことである。

この「神の活動」に思いを馳せ本日は閉じたいと思う。

今日も語りきっていない感たっぷりで次回に続く。

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レナード・コーエン(Leonard Cohen)

私のお気に入りのアーティスト、レナード・コーエンを紹介したい。                                               

レナード・コーエンは日本ではあまりにも知名度が低い。

しかし、本当に価値のある優れた芸術家、発言者とは元来「人には知られず、隠されたもの」である事が多いのだと思う。

コーエンはユダヤ系カナダ人であり、父親はユダヤ教の指導者(ラビ)として有名な人物であったことから、厳格なユダヤ教徒というバックグランドを持っている。また彼はミュージシャンとしての活動以前に詩人としてのキャリアを持っており、その才能は詩の世界でも高く評価されていました。

ミュージシャンとしてデビューしたのは1967年、彼が32歳の時で、デビュー・アルバム「レナード・コーエンの唄」の売り上げはアメリカでは162位まででしたが、イギリスでは13位と、その頃からコーエンの音楽は、アメリカよりもヨーロッパで受け入れられるという傾向がありました。

彼の作風は表面的には暗いものが多かった為、「自殺願望の鬱病シンガー」という呼び方がされるようになりました。実際彼は鬱的傾向を持っていたでしょうが、明晰な彼の精神はその事を自覚しており、その鬱性を確信犯的に作品に投入し、逆説的にポジティブな方向に昇華していたというのが私の考えです。つまり、創作こそが彼が鬱的状況から脱する手段であったのだと思います。

またコーエンは禅の修行にも本格的に取り組み1996年には臨済宗の僧籍を得ています。

カルト・ヒーローと呼ばれる彼は、同じミュージシャンの中で評価が高く、多くのアーティストが彼をリスペクトしており、トリビュートアルバムも3枚リリースされている。私のお気に入りでもあるそのうちの一枚「タワー・オブ・ソング~レナード・コーエンの唄~」の参加アーティストにはスティング、エルトン・ジョン、ピーター・ガブリエル、ビリー・ジョエル、ボノ(U2)、スザンヌ・ヴェガ、ドン・ヘンリー(元イーグルス)、ウィリー・ネルソン、アーロン・ネヴィルなどの超大物が軒並み名を連ねている。

またカート・コバーン(ニルヴァーナ)はそのラストアルバム『イン・ユーテロ』の収録のナンバー"ペニー・ロイヤル・ティー"の中でこう歌っている。

あの世で(棺の中で)レナード・コーエンを聴かせておくれ                            そうすりゃ俺は永遠に嘆いていられる

もう一つ付け加えておきたいエピソードがある。                                 オリバー・ストーン監督作、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のサウンドトラック(トレント・レイズナー《=ナイン・インチ・ネイルズ》プロデュース)への曲提供である。

映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は連続殺人を続けるカップル「ミッキー&マロリー」が、メディアによって持て囃され、時代の寵児として、ヒーローに祭り上げられてゆくサマを風刺的に描いた問題作であった。

映画の冒頭、作品全体の雰囲気を決定するかのごとく、効果的に流れ出す曲はレナード・コーエンの「ウェイティング・フォー・ザ・ミラクル」。そしてエンディングに使われたのもコーエンの「ザ・フューチャー」であった。サウンドトラックには収められなかったが、私の記憶が確かなら、本編のクライマックス・シーンにおいて、やはりコーエンの「アンセム」が効果的に使われていたはずである。

などなど、うんちくを数々述べましたが、百聞は一見に如かず、ならぬ百聞は一聴に如かず。音楽は実際に聞いてみるのが一番ではないだろうか。

レナード・コーエンの唄(紙ジャケット仕様) Music レナード・コーエンの唄(紙ジャケット仕様)

アーティスト:レナード・コーエン
販売元:Sony Music Direct
発売日:2007/06/20
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モア・ベスト・オブ・レナード・コーエン Music モア・ベスト・オブ・レナード・コーエン

アーティスト:レナード・コーエン
販売元:ソニーミュージックエンタテインメント
発売日:1997/11/01
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ベスト・オブ・レナード・コーエン Music ベスト・オブ・レナード・コーエン

アーティスト:レナード・コーエン
販売元:ソニーミュージックエンタテインメント
発売日:1997/11/01
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The Future Music The Future

アーティスト:Leonard Cohen
販売元:Columbia
発売日:1992/11/24
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イン・ユーテロ Music イン・ユーテロ

アーティスト:ニルヴァーナ
販売元:ユニバーサルインターナショナル
発売日:2006/05/17
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ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別版 DVD ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別版

販売元:ワーナー・ホーム・ビデオ
発売日:2007/04/06
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『衣服哲学』 カーライル著

今更ではありますが、現在の私という人格に多大な影響を与えている著作を、ここで改めて紹介します。

トマス・カーライル著 『衣服哲学』                               本書はこの世に生きるあらゆる人格にとって、有益な書物であると確信します。

このような書物は非常にまれであり、CSルイスが語るところの「神話」に近づいた最高の「アレゴリー」の一つであると思う。すなわち著者であるカーライルは「彼がすでに知っていること」は勿論、彼が「まだ知らないこと、他の方法では知りえないこと」をもこの書の中に盛っていると、私は思うのです。

難点は入手し難いこと。
後は、翻訳が旧仮名遣いのものしか現存しないことだろうと思う。

実は私のプロフィールの「トイフェルスドレック」とは、この作品の主人公の名前から取っています。(トマス・カーライルの『衣服哲学』と出会い傾倒する。とコメントしている通りです。)

前振りが長くなりましたが、ここから本題に入ります。

著者のカーライルについてご存知でない方は、ウィキペディアを参照してみて下さい。(かなり迫力のある肖像が見られます。)

本書の原タイトルは『Sartor Resartus(サーター リザータス)』直訳すると「仕立て屋の仕立て直し」或いは「仕立て直された仕立て屋」となる。

本書の構成は非常にユニークであり、一見複雑です。
カーライルは英国人編集者としてドイツで発表された『衣服、その起源と影響』という論文を英国に紹介するという形式で、本書を著している。
そしてその論文の著者こそ、本書の主人公、法学博士ディオゲネス・トイフェルスドレックである。(ちなみにトイフェルスドレックは「悪魔の糞」という意味で有名な胃病薬の名前だとの事。日本で言えば「正露丸」のようなものだろうかと想像しています。ディオゲネスは、「神より生まれた」という意味ですが、有名なギリシャの哲学者の名とも一致しており、その「哲学者ディオゲネス」は犬儒学派に属し、プラトンをして「狂ったソクラテス」と言わしめた変人でした。)

本書の前半部分は、編集者による上記論文の批評・紹介となっており、後半部分は論文著者トイフェルスドレックの評伝の形式を取っている。

全体に渡って、その修辞学的な美しさというよりは面白さに引き込まれるが、何と言っても本書の特徴は、主人公トイフェルスドレックのキャラクターである。

この法学博士にして、詩人であり預言者トイフェルスドレックは、自らの人生の挫折と葛藤を通して「永遠の否定」から「無関心の中心」を通って「永遠の肯定」に至る。そして彼の思想は、この世界の歴史と文化を、隆盛と衰退を繰り返しつつも、滅びることのない「不死鳥」に譬え、その中で行なわれる一切に対して、愛と憐れみをもって肯定するに至っている。

本書の原タイトル「仕立て屋の仕立て直し」には多くの意味、解釈が許されると思うが、私としては、主人公トイフェルスドレックこそが、「仕立て直された仕立て屋」即ち、挫折と葛藤を通して、この世の全てを肯定する人格へと新しく創り返られた者であったのではないかと思う。

そして本書を開く幸いな読者は、主人公トイフェルスドレックと共に、「仕立て直された仕立て屋」として、新しい「生(レーベン)」を生きる者となるものと確信します。

Book
衣服哲学
著者 カーライル
販売元 岩波書店
定価(税込) ¥ 840

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魔術師キャッツ

Kyatu すてきな猫の絵本をみつけた。

原作はなんと、20世紀最高の詩人の一人であり、ノーベル文学賞受賞作家でもあるT.S.エリオットの詩集 "Old Possum's Book of Practical Cats"翻訳版は『キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法―』である。ちなみにこの詩集は、有名なミュージカル「キャッツ」の原作でもある。

上記の詩集に収められている15篇の詩のうち『大魔術師ミストフェリーズ』と『マンゴとランプルの悪ガキコンビ』の2本を、イギリスの画家エロール・ル・カインが絵本として見事に仕上げているのが本書である。ミストフェリーズという名前が、ゲーテの『ファウスト』に登場する道化役(悪魔)「メフィストフェレス」から取られているというのも私好みだ。

彩り鮮やかにして独特の美しさを持つエロール・ル・カインの描く世界を、T.S.エリオットが生んだユニークで、魅惑的でさえある猫たちが縦横無尽に行き巡る。本書はエロール・ル・カインの遺作となったが、ミストフェリーズ、マンゴ、ランプルの3匹の猫は、時代を越えた2人の天才的芸術家によって、まさにいのちを吹き込まれ、今この時も生き続けている。

またエロール・ル・カインは、T.S.エリオットの同一の詩集から『キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命』という作品も発表している。

Book 魔術師キャッツ―大魔術師ミストフェリーズ マンゴとランプルの悪ガキコンビ

著者:T.S. エリオット,エロール ル・カイン
販売元:ほるぷ出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命 Book キャッツ―ボス猫・グロウルタイガー絶体絶命

著者:T.S. エリオット,エロール ル・カイン
販売元:ほるぷ出版
Amazon.co.jpで詳細を確認する

キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法 Book キャッツ―ポッサムおじさんの猫とつき合う法

著者:T.S. エリオット,ニコラス ベントリー
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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ハンス・フィッシャーの『長ぐつをはいたねこ』

01152687 シャルル・ペロー原作の童話『長ぐつをはいたねこ』は日本でも人気のある童話であると思う。

アニメにもなっているし、複数の作家が絵本として出版している。

ここで私が紹介したいのは福音館書店から出版されているハンス・フィッシャーの『長ぐつをはいたねこ』です。

まず第一に絵がいい感じです。デフォルメされすぎていないフィッシャーのねこは、本当にねこらしく、すばしこくて、躍動感に溢れ、そんな中にちょっぴり人間味があって、本当に魅力的です。

でももっと素敵なのは、何と言っても文章。矢川澄子さんの翻訳も良いんだと思います。                                       

ハンス版の「ねこ」は「歩く練習」をしてみたり、「怖い顔の練習」をしてみたり、ご主人様のために一生懸命な、最高にイカした奴です。「おしまいのうちあけばなし」が最高!フィッシャーの「ねこ」に対する愛着が良く伝わってきます。(フィッシャーの作品にはねこが良く登場するようです。)

Book 長ぐつをはいたねこ

著者:シャルル ペロー,ハンス フィッシャー
販売元:福音館書店
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