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『社会的な死』と『霊のいのち』について

私の主観ではあるが、 現代は、自分は『社会から切り離された』と感じて、 苦しんでいる人々が多いのではないだろうか。

私が属するキリスト教の文化の中には、『死』は何かから『切り離された状態』であるという見方がある。

たとえば『肉体の死』は肉体と魂(霊)が切り離された状態であり、『霊の死』は(人間の)霊が、神から切り離された状態であると考える。
その考えを発展させると、『社会から切り離された状態』に在ることは『社会的な死』であると考えることができる。

実はキリスト教の考える死には、序列がある。
その序列を簡単に述べると、『死』のうちでもっとも影響力があるものは、『霊の死』(聖書はそれを「永遠の死」とも呼んでいる)であり、逆説的には『霊の(霊的)いのち』(即ち「永遠のいのち」)を持っていれば、人間は、その他のあらゆる『死』に打ち勝つのである。

逆に霊的に死んでいる場合、その人が、どれほどその他の『いのち』(肉体的ないのちや社会的ないのち)を持っていたとしても、それらは一時的であるし、やがては必ず衰えて『死』に至るのである。
このことを解りやすく理解して頂くために、ひとつのたとえ話をしようと思う。
今ここに、『肉体的な死』と『社会的な死』を恐れている一人の男がいる。
しかし、幸運にもその男は、『霊のいのち』を持っていた。
その『霊のいのち』を、男は、歴史上もっとも気前の良いお方から、なんの見返りも無しに、只(ただ)で頂いたのであるが。
男は、この世のあらゆる『いのち』の根源である、 『霊のいのち』を持っているので、『肉体的な死』も『社会的な死』も、彼を究極的には損なうことはできない。
それどころか男は、実はすでに『肉体的ないのち』も『社会的ないのち』も豊かに持っているのである。
ただそれらは、誰の目にでも見えるような形では現れないことが多い。

「人に知られないようでも、良く知られ、
 死にそうでも、見よ、生きており、
 罰せられているようであっても、殺されず、
 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、
 貧しいようでも、多くの人を富ませ、
 何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」
                        聖書 コリントⅡ6:9,10 より

「歴史上もっとも気前の良いお方」とはイエス・キリスト様のことである。
そして誰もがそれを望むなら、この「男」のようになることができることを私は信じている。

主よ!無益なる事物に対しては我々の眼を霞(かす)ましめ、
汝のあらゆる真理に関しては我々の眼を隈(くま)なく澄ましめたまえ!
                                    セーレン・キェルケゴール
以上
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