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2007年10月

『キリスト教信仰和讃』解説第8回

決して忘れていた訳ではないこのシリーズです。前回は7/14でした。

箇所
その一の五、

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この箇所の主題は「神のむくい」である。

「むくい」とは、第一義には「報酬」すなわち、その働きに対して当然支払われるべき対価を意味します。

しかしそれが「神のむくい」となる場合には、それは上記のような一般的な意味に、その対価の支払い手である神の性質が関係して来ます。

この『キリスト教信仰和讃』の取り上げる神とは、当然キリスト教の神ですから、キリスト者である私の言葉で簡単に言い表すならば「愛と義に富みたもうお方」であり、「愛」とはすなわち「憐みと恵み」であり「義」とは「正義と公正」であります。そして、キリスト教の神、すなわちイエス・キリスト様は「救済者」であり「さばき主」であります。

つまり「神のむくい」とは、この世の目に見える形では様々な形を取ることがあっても、その究極的な意味は、「憐みと恵み」「正義と公正」に富んだ「救済の業(わざ)」また「さばき」であるということになります。

私はキリスト教信仰者であるので、「神のむくい」を信じ、また待ち望んでいます。

信仰者は「おそい早いはあるけれど」「神のむくい」は必ず「来る」のだということを信じ、待ち望む者です。逆に言えば、そうでない者は「信仰無き者」ということになります。

またここで言う「信仰無き者」とはいわゆる信仰のうすい人という意味ではなく、文字通り「無信仰の者」すなわち、神とはまったく「無関係」の者という意味です。

ここで私が強調したい点は、「神のむくい」を「信じ」また「待ち望む」、この行為こそ、すなわち「信仰」であって、これなくしては、信仰者であるという私のアイデンティティーも、またこの『キリスト教信仰和讃』もともに、骨抜きとなってしまうということです。

上記の点を踏まえた上で、後半の「おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。」という詩句について考えて行きたいと思います。

先程も述べましたが、「神のむくい」は究極的には神の「救済の業(わざ)」また「さばき」を意味しています。そしてこの「救済の業(わざ)」と「さばき」とは、私にとっては同じ「一つのこと」を別々の言葉で述べているに過ぎません。

すなわち「終わりの日」には、神に信頼する者は「救済」され、そうでない者は相応しい「さばき」を受けるのです。込み入った「救済論」に入り込むことを避けたいので、ここでは簡単に済ませたいと思いますが、「信仰者の希望」すなわち「神の救済の業(わざ)」とは「愛と義に富みたもうお方」によって「完全なさばき」が行われることであります。この「希望」があるからこそ、信仰者は、神以外からの一切の「むくい」を求めず、このシリーズ「第三回」の時に述べたような、「「真の人間活動」としての「働き」と「学び」」を、時には歓びのうちに、時には歯を食いしばりつつ継続して行くことが出来るのです。

私たちは日々の生活の中で、確かに「神のむくい」としか考えられない、「憐みと恵み」「正義と公正」に富んだ「この世のむくい」を経験することがあります。それらは上で述べたような、信仰者が「終わりの日」に受ける究極的な「神のむくい」を「象徴」するものとして、私たちの信仰を強めてくれます。信仰者にとっては「この世のむくい」は、ただ、そのような意味に於いてのみ有益なものであります。

シリーズの中で何度か述べていることですが、この『キリスト教信仰和賛』は、基本的には、子供たちに、「倫理道徳」を教示するという目的を持っています。ですから、今回の詩句も、一義的には、この「神のむくいにとって象徴的なこの世のむくい」について教えているように私には感じられます。

しかし、作者である吉田清太郎牧師が、キリスト者にとって唯一の希望である、究極的な「神のむくい」を見越してこの詩句を書いているのは当然のことと思われます。

「おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。」

吉田牧師によるこの詩句は、涙とともにパンを食べ、歯を食いしばって「神のむくい」を待ち望む、我々信仰者にとって、なんと大きな慰めと励ましとなることでしょうか。

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