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2008年5月

We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―

前回の記事では『We killed him.―我々が彼を殺したのだ―』と題して映画『マッド・シティ』のレビューを書いた。

「We killed him.」これは劇中のダスティン・ホフマン演じるマックスの最後の台詞であった。

この台詞が、ここ数日私の頭に張り付いて消えない。

そしてその言葉は、私の中で「We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―」という言葉に成長した。

数日前の記事で、私は聖書のエゼキエル書33章6節の「みことば」についての、私の個人的な黙想を取り上げた。

その「みことば」の中に「血の責任」という言葉が使われている。

つまりここ最近の私の個人的な関心は、この「血の責任」という言葉に集中しているということだと思う。

今この瞬間も世界では多くの「血」が流されている。これは戦争や紛争でというだけではない。勿論そのような意味でも多くの血が流されているが。

例えば先の記事では、障害者の方々への差別の問題についても「血を流す」行為であると解釈しました。

或いは、現在の社会制度、取り分け後期高齢者医療制度に代表される、弱者に痛みを強いる福祉制度の不合理によっても「血」は流されていると、私は考える。

年間で3万人を超える自殺者の問題、増え続ける高齢者の孤独死、豊かな国日本における餓死者、虐待を受けている子どもたち、数え上げれば切りがない。

このように流され続ける「血の責任」を、私たちはいつも、つい「誰か」外側の人間に対して、求めてしまいがちである。しかし真実はどうであろうか。

「We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―」

私はこう叫ばずにはいられない。

そして私たちが、まず何かを始めなければならないのではないだろうか。

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We killed him. ―我々が彼を殺したのだ―

久し振りに映画を見た。

ジョン・トラボルタ、ダスティン・ホフマン競演の社会派ドラマ『マッド・シティ』。

新しい映画ではないが、面白そうな映画だとは思いつつ、これまで見るチャンスに恵まれなかった一本である。

<以下にはネタバレの可能性があります>

物語は、博物館の警備員を首になった男サム(ジョン・トラボルタ)が、ライフルとダイナマイトを持って、再雇用を願い出ている最中、元同僚の黒人警備員に対して、誤ってライフルを発射してしまった現場に、たまたま博物館に取材に来ていたローカルテレビ局のリポーターのマックス(ダスティン・ホフマン)が居合わせたことから始まる。サムは行き掛かり上やむなく、見学に訪れていた小学生たちを人質に取り、博物館に立てこもる事になってしまう。マックスは功名心に駆られ、サムをけしかけて、独占中継を始める。「自分の主張を世間に訴えるのだ!」と。しかし、だんだんとサムとの関係が深まるに従って、マックスは、職業を失い、自分の意図とは関係なく、凶悪犯の立場に追いやられてしまったサムに、同情をし始める。そして、事件の平和的な解決を目指そうと決心するが、、。時すでに遅し、博物館の周囲は、地元警察に加えてFBIが包囲し、全国からマスコミが詰め掛け、のみならず白人主義者たちや黒人運動化たち、はては出店まで立ち並び、お祭り騒ぎとなっていた。そして詰め掛けた人々は、それぞれに自分に都合の良いことばかりを語り、サムを或いは英雄、或いは危険思想を持った凶悪犯だと囃し立てているのである。『マッド・シティ』という表題は、この辺りの雰囲気を、非常によく象徴している。そして物語のクライマックスに向けて、気違い沙汰は加速して行き、事態はもう、サムにもマックスにも、コントロール不能になってしまう。

非常に良く出来た映画であったと思う。

私の個人的な考えではあるが、良い映画の判断基準のひとつは、物語のラストのインパクトではないかと思う。そしてこの『マッド・シティ』のクライマックスは間違いなくラストである。

「We killed him. ―我々が彼を殺したのだ―」

マックスの叫びが、取り囲む群集の中に吸い込まれて行く。私はこのラストシーンを見終えたとき、『地獄の黙示録』のラスト、カーツ大佐の「The horror.―恐怖だ―」という台詞を聞いたときと似た感情が湧き上がってくるのを感じた。

『地獄の黙示録』は私にとっても、また多くの映画ファンにとって特別な映画であると思うので、このような感想に、或いは賛同できない方々も多数おられることとは思う。

そのような方々には、これが単に、私の個人的な感情体験に過ぎないことを、是非ご考慮頂きたいと思う。

ともかく『マッド・シティ』は、見る価値のある、一流の社会派ドラマであると思う。

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この子らを世の光に

タイトルの言葉は、糸賀一雄(いとが かずお)氏の言葉です。http://www.biwa.ne.jp/~itogamf/date/index.htm

糸賀先生(氏は社会福祉の実践家であると共に教育者でした)は、戦後の混乱期の中で障害のある子供たちの福祉と教育に、文字通り一生を捧げた、日本の障害者福祉の先駆者であります。

そして先生の事業の根底には、何よりも深い愛がありました。下記のような先生の言葉に触れるとき、そのことがより深く実感出来ます。

「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」(「糸賀一雄著作集Ⅲ」より)

「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」。このたった二文字の入れ替えによって、糸賀先生は、まさに当時の社会の常識を覆すような大事業を成し遂げました。このような人物こそ、真に創造的な人物であると私は思います。

また、先生の残された多くの言葉には、先生と同じキリスト信仰を持つ私にとって、信仰の先達の言葉としても深く心に響いて参ります。

「愛は深めていけばいくほど、どこまでもどこまでも深まっていきます。
そしてそれは純化されていきます。
そのことを私たちは知っておきたいと思います。」

「 精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。
精神薄弱な人たち自身の真実な行き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目ざめ救われていくのだ」

「すべての人間は生まれたときから社会的存在なのだから、それが生きつづけていくかぎり、力いっぱい生命を開花していくのである。 」

糸賀先生については機会があればさらに記事に書かせて頂きたいと考えています。

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障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例

という素晴らしいネーミングの条例を見つけました。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tibasyougaisyajyourei.htm

千葉県出身者の私としては、とても誇らしい気持ちになりました。

この条例の素晴らしいのは名前だけではありません。

第二条に次のように謳われています。

『 この条例において「差別」とは、次の各号に掲げる行為(以下「不利益取扱い」という。)をすること及び障害のある人が障害のない人と実質的に同等の日常生活又は社会生活を営むために必要な合理的な配慮に基づく措置(以下「合理的な配慮に基づく措置」という。)を行わないことをいう。』

つまり、障害のある人に対して「不利益を及ぼす」という”積極的”行為のみを「差別」と考えるのではなくて、「配慮した措置(行動)を行わない」という”消極的”態度もまた、「差別」であると考えているのです。

私はキリスト者であるので、極端な表現ではあるが、この「差別」という言葉を「罪」という言葉に置き換えて考えてみたいと思います。

すなわち、現実にある「差別」や、そこから発生する「理不尽な悲しみ」を、私たちが「対岸の火事」と見て、”積極的”な解決行動を取らないとすれば、それは「罪」である、ということではないでしょうか。

聖書によれば「すべての人間は罪人である」ので、このことによって他者を責めることの出来る人間は一人もいません。ただ、その「罪」を、日々の生活のなかで「悔い改め」て、自分にも”積極的”な行動が何か出来ないであろうかと、私自身が想いを巡らすのみです。

ここで、一つの聖書の言葉を個人的に黙想してみたいと思います。

しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。

聖書の「エゼキエル書」33章6節に書かれている言葉です。

この場合、「剣」は神のさばきであるので、今回の話題である「差別」や「理不尽な悲しみ」とは直接に結びつくものではありません。しかしこの世の「すべての悲惨」が、究極的には人類の罪に起因するという、聖書的な世界観に立つならば、或いは、そこまで極端には考えないにしても、「差別」自体を、「人類の普遍的な罪性」の現れの一形態であると考えるならば、「剣」は「差別によって起こる理不尽な悲しみ」であると私には思えます。

このような黙想には、「その者の咎」を「被差別者の咎」と誤解されてしまう危険性があることを十分に自覚して、注意して個人的な黙想を補強したいと思います。

ここでの黙想においては「その者の咎」とは、勿論「被差別者の咎」などでは断じてなく、むしろ「剣」である「差別によって起こる理不尽な悲しみ」を招いている「咎」、すなわち「人類の普遍的な罪性」であり、この「咎のために」、理不尽にも「被差別者」である「障害のある人」が「打ち取られ」る、すなわち人間としての尊厳を踏みにじられるという「悲惨」の中におかれるということであり、文脈的には、「血を流す」ということです。

聖書の神は、その「血の責任」を、「見張り人」すなわち、”積極的”な解決行動を取らなかった私たちに問うと宣告しています。

繰り返しになりますが、これらの内容は、社会人としても、キリスト者としても、まだまだ未熟である私の個人的な黙想です。

私の意図は、現実にあると考えられる、障害のある方々に対する差別についての「個人的な反省」を、この文章を読んでくださる方々と分かち合いたいというものでしたが、内容が、決して単純でも、軽いものでもありませんので、この文章を読んで、異論をお持ちになる方、或いはお怒りさえ抱かれる方がいらっしゃるかも知れません。万が一そのようなことがあった場合には、心よりお詫びを申し上げます。

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「welfare(ウェルフェア)」から「well-being(ウェルビーイング)」へ

久し振りの更新です。

この4月から久し振りに学生に戻り「福祉」について学び始めました。

そんな中で最初に触れた言葉が「welfare(ウェルフェア)」と「well-being(ウェルビーイング)」という二つの言葉です。

英和辞典で調べると、どちらも「幸福」或いは「福利」という意味の単語ですが、一般に日本語の「福祉」に対する訳語としては「welfare」を使うことが多いようです。

ウィキペディアで「福祉」と検索してみても、まず最初にあるのは「社会福祉」としての「social-welfare」で「well-being」という語は補足的に、同一の意味を持つ単語として記載があるだけです。

ところが、近年の福祉の現場では、この二つの言葉を別々の意味を持つ言葉として使い分ける傾向にあります。

例えば

「welfare(ウェルフェア)」=事後処理的な対応

「well-being(ウェルビーイング)」=人権の尊重・自己実現

などがそうですが、これが必ずしも正しいという訳ではなく、勿論「welfare」にも人権の尊重や自己実現という概念も含まれいています。

どうやらポイントは「welfair」が事後的、補完的、代替的である、”従来的な「社会福祉」”の有り方を表すのに対して「well-being」の方は、より個人の尊重、自己実現、権利擁護を基調にする”これからの「社会福祉」”の有り方を表すのに用いられているということのようです。

そして近年「welfare(ウェルフェア)」から「well-being(ウェルビーイング)」へというスローガンがしきりに叫ばれている。

これを別の言葉で言えば、従来の「社会福祉」が憲法第25条(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。)に基礎をおいた、国民の”最低限度の生活”を保障するものから、憲法第13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)に基礎をおいた国民の”自由及び幸福追求”を助長するものへの変革と言えるかも知れない。

上記のようなことが叫ばれるのは大変結構なことであると私は思う。

しかし、そのような中で、貧富の差は広がり従来的な「社会福祉」の保証である「生活保護」の対象者は年々増加している。また、「生活保護」不正受給者がいる一方で、本当に、「生活保護」を必要とする人が、「自立支援」の名の下に保護を打ち切られたり、窓口へ行っても手続きをさせないなど、行政による弱者の切捨てが横行している。そのために最悪のケース、この”豊かな国日本”で餓死者が出ている現実がある。

また、老人の孤独死、年金問題、後期高齢者医療制度など、高齢者福祉についても問題は山積している。

問題は多く、しかも巨大である。しかし、まずは私たち国民の一人ひとりが「welfare(ウェルフェア)」について、また「well-being(ウェルビーイング)」について深く考えることからはじめてはどうだろうか。

私は「welfare(ウェルフェア)」と「well-being(ウェルビーイング)」という言葉に意味の違いがあると考えた場合、どちらも共に大切であると考えます。

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