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2008年7月

創世記1章26節から「神かたち」についての推論

創世記1章26節において、神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と書かれている。

ここには人間のモデルになる「神のかたち」が前提とされている。

この「神のかたち」については、異なる幾つかの説に分かれるのであるが、「人間が神のかたちとして創造されたという表現は、人間が他のすべてと相違する存在とされていることの最も明確で端的な表現」であることは間違いないであろう。

このことを前提とした上で、「神のかたち」について、以下で、私なりの推論を述べたい。

まず26節において神が「われわれに」という、一人称複数で自らを示している点について、私は「後の啓示の中で、三位一体としてはっきり定義され得るようになる神についての事実が、ここに顔をのぞかせている」という、聖書信仰の立場で最も受け入れられている解釈を支持したい。

つまり、ここにおいては「神」という「唯一の存在の中に父と子と聖霊なる(個としてはっきりと区別し得る)三位格が存在する」という点が、はっきりと明言されないまでも、暗に前提されていると私は考える。

つまり、神はその内に「われ」と「なんじ」と明らかに区別されるべき立場を持ち、さらに言えば、その内面に「対話」し得る複数の人格を持っているのということである。

次に、「かたちとして」と「似せて」という二つの類義語については、同義ではないにしても、全く別の内容を意味するものではなく、敢えてそれぞれに解釈するとするならば、「かたちとして」は、「その内面に「対話」し得る複数の人格を持っている」という、その「存在の在り様」に対応し、「似せて」は、その「内面的対話を行う」という「性質」に対応するのではないかと私は考える。

26節をこのように解釈するとき、K・バルトやボンヘッファーらの、27節において「男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する」解釈も、より肯定し得るものになる。

すなわち「人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」「なんじ」に相当するもので、類比の関係がここにある」とする解釈である。

人間のモデルである「神のかたち」をこのように解釈するとき、人間の創造の最終的な帰結として、創世記2章24節の「男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」という言葉の真意が、明らかになるのではないだろうか。

さらにパウロは、エペソ人への手紙5章31節において、創世記2章24節の言葉を引用した上で32節において「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と書いている。

多少の議論の飛躍があることを自覚しながらも、敢えて、上記の推測を踏襲して、新旧約聖書全体の文脈から解釈するならば、創世記1章26、27節において人間に与えられた「神のかたち」とは、「キリストと教会」すなわち「神と人間」が、「結び合い、、一体となる」能力、或いは性質ということもできるのではないか。

以上が「神のかたち」についての私の推論である。

参考文献
新聖書注解 旧約1(いのちのことば社)
新聖書辞典(いのちのことば社)

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現代社会における弁証法の意義

ヘーゲル哲学の方法は一般に弁証法と呼ばれる。

「弁証法」という語を辞書で引くと「対話・弁論の技術の意。(大辞林)」などと書かれ、ソクラテスやプラトンと並び、ヘーゲルの名前も必ずといって良いほど引用されている。また、ヘーゲルの弁証法を取り上げる際に、頻繁に登場するのが、マルクス主義における弁証法である「唯物論的弁証法」とキェルケゴールにおける「質的弁証法、あるいは逆説的弁証法(キェルケゴール自身がみずからの弁証法をそのように呼んでいる)」である。

この考察においては、歴史的にその欠陥が証明されたかに見える「唯物論的弁証法」を退け、古代ギリシャから形式においては既に存在した、対話をモデルとした哲学的思考方法を、現代に至る近代哲学に大きく普及させた「ヘーゲルの弁証法」と、批判者としてそれを発展させた「キェルケゴールの弁証法」の二者を支持して「弁証法の現代的意義」を考えて行きたい。

一つの主張(定立)に対してそれと反対の主張(反定立)をおき、その両者を統合してより高い概念を得る。そして、この統合するという働きを「止揚(アウフヘーベン)」と呼び、このアウフヘーベンというドイツ語には、取り消す、上へ上げる、保存する、という意味がある。つまり、定立(テーゼ)と反定立(アンチテーゼ)という対立する概念が、その対立を取り消し、より高いところに引きあげられて統一され、新しい概念として保存される。これが「ヘーゲルの弁証法」である。

これに対して、より深い肯定的な倫理を求めたキェルケゴールは、この否定的なものが止揚されることによって高度な肯定的な思想が生み出されるという「ヘーゲルの弁証法」を、抽象的であるとして退け、その弁証法の主体を具体的な実存、言い換えれば有限的主体としての人間、或いは自分自身としたうえで、有限的主体が自らの否定性に直面した場合、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するのだとした。

その結果キェルケゴールは「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと、死によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられると考えた。言い換えるならば、キェルケゴールは、アウフヘーベンという抽象的直接性を否定し、「神による救済」という「第三者の介在の必要性」を認め、受け入れたのである。

キリスト教信仰者である私の立場から見て、このキェルケゴールの実存的、逆説的弁証法は好ましく、また有益であることこの上ない。しかし同時に、この社会に生きる社会的な存在としての私にとっては、「ヘーゲルの弁証法」の抽象的思考もまた、好ましく、有益である。

ここで私は「ヘーゲルの弁証法」をテーゼ、「キェルケゴールの弁証法」をアンチテーゼとして、アウフヘーベンを試みたいという衝動に駆られるのであるが、少なくとも現時点の私には手に余る企てである。

ところで「弁証法」とは、キェルケゴールのように実存的に受け止め、止揚することを放棄するのでない場合には、その性質上、その抽象的な思考は無限に繰り返される永続性を持っているのではないかと私は考える。

この永続性を、結論を導き出せないという欠点として考えることもできるが、むしろ、あらゆることを単純化しようとする現代の風潮にあっては、あらゆる可能性を肯定する柔軟性であると考えることもできる。

「弁証法」の持つ、この柔軟性を思うとき、現代こそ、大きく「弁証法」を必要としているのではないかと考えいたる。また「弁証法」のモデルが「対話」であることを思うとき、現代社会は「対話」を必要としているのであると言える。そしてその「対話」とは「弁証法的対話」でなければならない。

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