キェルケゴール著 『死に至る病』を読む
久し振りにキェルケゴールの『死に至る病』を手にとって序文に目を通してみると、そこには、一般にキェルケゴールについて理解されている「デンマークの哲学者」でも「実存主義の創始者」でもない、ただ「真剣」(この真剣さこそ、キェルケゴールの最大の関心の一つであった)に「神の前に」立つことを願った一人の「個体的な」信仰者に出会った。正しくは再会したのである。
これは『死に至る病』をすでに読んだことがある方には明らかなことであろうが、上述のような「デンマークの哲学者」あるいは「実存主義の創始者」などという(敢えて言うのであるが)ろくでもない評判のせいで、キェルケゴールに近づき難い印象を持っているキリスト者が非常に多いのではないかと思う。
それはあまりにも勿体なく、残念なことである。そこで、ここではキェルケゴールなど全く読んだことがないというキリスト信仰者、あるいはキリスト教に関心のある人々に対して、キェルケゴールの著書『死に至る病』から、「真剣」な信仰者としてのキェルケゴールを紹介し、その著作を読むことを勧めて行きたいと考える。
キェルケゴールは一つの祈りをこの著書の冒頭で捧げている。
主よ!無益なる事物に対しては
我等の眼を霞ましめ、汝の凡(あら)ゆる
真理に関しては我等の眼を隈なく澄ましめ給え。
この祈りからもキェルケゴールが単なる哲学者ではなく、真剣な信仰者であったことがはっきりと解る。ちなみにこのキェルケゴールの祈りを、北森嘉蔵はその代表的な著書『神の痛みの神学』の冒頭で引用している。恐らく北森は『神の痛みの神学』を著すに当たって、キェルケゴールの真剣さに倣うものでありたいと考えたのであろうと私は想像している。また、この祈りは、私個人にとっての生涯の願いであり、すべての信仰者がこのように祈りつつ日々を歩むことをも私は願っている。
キェルケゴールは『死に至る病』の序文を次のような文章で書き始めている。
本書の「論述」の形式は多くの人には奇妙に思われるかもしれない、――それは教化的でありうるためにはあまりに厳密であり、厳密に学問的でありうるためにはあまりに教化的である。中略、、だが本書の論述がもし本当にあまりに厳密すぎて教化的でないとしたら、それは私の眼から見れば失敗であることになる。
つまりキェルケゴールはこの著書を、はじめから「教化的」なものとして書いているのである。そして「教化的」であるとは「キリスト教的」なものであり、換言すれば「キリスト教信仰者的」なものである。
ところでキェルケゴールはその序文において聖書のローマ書8章28節の「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という聖句を念頭に、次のように続けている。
一体キリスト教的にいうならば一切は、それこそ一切が教化に役立つべきである。結局において教化的でないような学問性は、まさしくそのことの故に非キリスト教的なのである。
ここにおいて、キェルケゴールは「教化的でない」「非キリスト教的」な学問性を、はっきりと退けている。そしてキェルケゴールの考える「キリスト教的なるものの一切の叙述は医者の臨床講義に似たものを持っていなければならない」のである。
つまり「ただ医学に通じたもののみがこの講義を理解しうるにしても、講義が患者のベッドの側で行われていることを忘れてはならない」のだとキェルケゴールは述べている。
ここではE・H・ピーターソンが、その著書『牧会者の神学』の中で引用しているハーマン・メルヴィルの小説『ホワイト・ジャケット』の中の一つのエピソードを合わせて紹介することが、キェルケゴールの意図をより深く理解するのに役立つように思う。
そのエピソードとは次のような内容である。
水夫の一人がひどい腹痛に苦しむ場面が出てくる。船の外科医であるカティクル医師は、医者としての技量を発揮できそうな患者の出現を喜ぶ。患者は虫垂炎と診断された。同量の水夫たちは意思の看護ぶりに非常な感銘を受ける。患者である水夫は手術台に寝かされ、手術の準備が整えられた。カティクル医師は情熱をこめ、手段を尽くしてこの仕事にとりかかる。彼は正確にメスをふるって患部を切除しながら、手術台の周囲にいる、内臓の状況など見たこともない水夫たちに向かって、解剖学的に興味深い諸項目についての説明を行なう。医師は自分の仕事に熱中し、手術はとてもうまい具合に進んでいった。それはまったくもって印象的なパフォーマンスだったが、まわりにいた水夫たちは感銘を受けるよりも、むしろぞっとするような思いにさせられていた。あわれなことに、その患者は切開した部分が縫合されるよりもずっと前に手術台の上で息を引きとっていたからである。外科手術に熱中しているカティクル医師はそれに気づかなかった。そして、内気で卑屈な水夫たちは事実を医師に告げることができなかったのである。
キェルケゴールの語る「かの種の「冷静」な学問性」「学問の超然たる英雄的精神」を無反省に発展させて行けば、上述のような事態に陥るのではないかというのが私の考えである。ただ「学問性」ということについて考えるとしても、人にいのちを与えるのでなく、奪い去るようなものであるとしたら、それは一体なんのための「学問」であろうか。そこで私はすべての学問がキェルケゴールの考えるところの「教化的」なものであって欲しいと願う。それこそがキェルケゴールの「一体キリスト教的にいうならば一切は、それこそ一切が教化に役立つべきである。」という言葉の真意ではないかと考えるからである。
そしてキェルケゴールは次のようにも述べている。
キリスト教的な意味での英雄的精神(おそらくこれはごく稀にしか見出されないものではあるが)とは、人間が全く彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的な人間であろうとあえてすることである、――かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任をひとりで担いながら、神の前にただひとりで立つことである。中略、、キリスト教的な認識は、その形式がどのように厳密であろうとも、すべて配慮でなければばらない、――これこそまさに教化的なるものである。配慮とは人生に対するすなわち人間的な現実に対する関係であり、したがって(キリスト教的には)真剣ということである。冷静な知識の超然性は(キリスト教的には)より高次の真剣さであるどころか、それは(キリスト教的には)戯言と虚栄を意味するにすぎない。真剣ということがまた教化的なるものである。
上の文章を読むとき、私には二つのことが思い起こされる。
一つは、幸運にも私が数年前にジェームズ・フーストン氏が来日した際に鬼怒川で開かれたあるセミナーに参加した時の質疑応答の中でフーストン氏が仰っていた言葉である。
質問は「フーストン氏にとっての福音を一言で表わすとどのような言葉になるか」というものであった。大胆にして重要な問いではあるが、難しい質問であるから、私は長い答えが返って来るものと思っていた。しかし氏は、まさに一言で回答を表わした。それは「神に出逢って、初めて私は私という人間になることが出来た」(記憶に違いがなければであるが、とにかくニュアンスとしてはこのようなものであったと思う。)という内容であった。
もう一つは、どの書物であったかは忘れてしまった言葉ではあるが、恐らくある日本人の神学者の「愛」についての言葉である。それは「愛とは徹底した配慮である。」というような内容のものでった。このことをキェルケゴール流に換言すると、「愛とは徹底した真剣さである」ということが出来る。いやむしろ私は、ここから逆に、キェルケゴールがその著書『死に至る病』を通して、神と人(読者)を、徹底して愛している姿を見るのである。
ここに記した内容はほとんど『死に至る病』の序文からの内容に過ぎない。
「『死に至る病』を読む」と題したからには、これでは十分でないことを自覚しつつ、しかし、優れた著作の序文には、その著作の主題が余すことなく著されていることを感動と共に覚え、今回は閉じることとする。
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