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2009年1月

キェルケゴール著 『死に至る病』を読む

久し振りにキェルケゴールの『死に至る病』を手にとって序文に目を通してみると、そこには、一般にキェルケゴールについて理解されている「デンマークの哲学者」でも「実存主義の創始者」でもない、ただ「真剣」(この真剣さこそ、キェルケゴールの最大の関心の一つであった)に「神の前に」立つことを願った一人の「個体的な」信仰者に出会った。正しくは再会したのである。

これは『死に至る病』をすでに読んだことがある方には明らかなことであろうが、上述のような「デンマークの哲学者」あるいは「実存主義の創始者」などという(敢えて言うのであるが)ろくでもない評判のせいで、キェルケゴールに近づき難い印象を持っているキリスト者が非常に多いのではないかと思う。

それはあまりにも勿体なく、残念なことである。そこで、ここではキェルケゴールなど全く読んだことがないというキリスト信仰者、あるいはキリスト教に関心のある人々に対して、キェルケゴールの著書『死に至る病』から、「真剣」な信仰者としてのキェルケゴールを紹介し、その著作を読むことを勧めて行きたいと考える。

キェルケゴールは一つの祈りをこの著書の冒頭で捧げている。

主よ!無益なる事物に対しては

我等の眼を霞ましめ、汝の凡(あら)ゆる

真理に関しては我等の眼を隈なく澄ましめ給え。

この祈りからもキェルケゴールが単なる哲学者ではなく、真剣な信仰者であったことがはっきりと解る。ちなみにこのキェルケゴールの祈りを、北森嘉蔵はその代表的な著書『神の痛みの神学』の冒頭で引用している。恐らく北森は『神の痛みの神学』を著すに当たって、キェルケゴールの真剣さに倣うものでありたいと考えたのであろうと私は想像している。また、この祈りは、私個人にとっての生涯の願いであり、すべての信仰者がこのように祈りつつ日々を歩むことをも私は願っている。

キェルケゴールは『死に至る病』の序文を次のような文章で書き始めている。

 本書の「論述」の形式は多くの人には奇妙に思われるかもしれない、――それは教化的でありうるためにはあまりに厳密であり、厳密に学問的でありうるためにはあまりに教化的である。中略、、だが本書の論述がもし本当にあまりに厳密すぎて教化的でないとしたら、それは私の眼から見れば失敗であることになる。

つまりキェルケゴールはこの著書を、はじめから「教化的」なものとして書いているのである。そして「教化的」であるとは「キリスト教的」なものであり、換言すれば「キリスト教信仰者的」なものである。

ところでキェルケゴールはその序文において聖書のローマ書8章28節の「神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という聖句を念頭に、次のように続けている。

一体キリスト教的にいうならば一切は、それこそ一切が教化に役立つべきである。結局において教化的でないような学問性は、まさしくそのことの故に非キリスト教的なのである。

ここにおいて、キェルケゴールは「教化的でない」「非キリスト教的」な学問性を、はっきりと退けている。そしてキェルケゴールの考える「キリスト教的なるものの一切の叙述は医者の臨床講義に似たものを持っていなければならない」のである。

つまり「ただ医学に通じたもののみがこの講義を理解しうるにしても、講義が患者のベッドの側で行われていることを忘れてはならない」のだとキェルケゴールは述べている。

ここではE・H・ピーターソンが、その著書『牧会者の神学』の中で引用しているハーマン・メルヴィルの小説『ホワイト・ジャケット』の中の一つのエピソードを合わせて紹介することが、キェルケゴールの意図をより深く理解するのに役立つように思う。

そのエピソードとは次のような内容である。

水夫の一人がひどい腹痛に苦しむ場面が出てくる。船の外科医であるカティクル医師は、医者としての技量を発揮できそうな患者の出現を喜ぶ。患者は虫垂炎と診断された。同僚の水夫たちは医師の看護ぶりに非常な感銘を受ける。患者である水夫は手術台に寝かされ、手術の準備が整えられた。カティクル医師は情熱をこめ、手段を尽くしてこの仕事にとりかかる。彼は正確にメスをふるって患部を切除しながら、手術台の周囲にいる、内臓の状況など見たこともない水夫たちに向かって、解剖学的に興味深い諸項目についての説明を行なう。医師は自分の仕事に熱中し、手術はとてもうまい具合に進んでいった。それはまったくもって印象的なパフォーマンスだったが、まわりにいた水夫たちは感銘を受けるよりも、むしろぞっとするような思いにさせられていた。あわれなことに、その患者は切開した部分が縫合されるよりもずっと前に手術台の上で息を引きとっていたからである。外科手術に熱中しているカティクル医師はそれに気づかなかった。そして、内気で卑屈な水夫たちは事実を医師に告げることができなかったのである。

キェルケゴールの語る「かの種の「冷静」な学問性」「学問の超然たる英雄的精神」を無反省に発展させて行けば、上述のような事態に陥るのではないかというのが私の考えである。ただ「学問性」ということについて考えるとしても、人にいのちを与えるのでなく、奪い去るようなものであるとしたら、それは一体なんのための「学問」であろうか。そこで私はすべての学問がキェルケゴールの考えるところの「教化的」なものであって欲しいと願う。それこそがキェルケゴールの「一体キリスト教的にいうならば一切は、それこそ一切が教化に役立つべきである。」という言葉の真意ではないかと考えるからである。

そしてキェルケゴールは次のようにも述べている。

キリスト教的な意味での英雄的精神(おそらくこれはごく稀にしか見出されないものではあるが)とは、人間が全く彼自身であろうとあえてすること、一人の個体的な人間、この特定の個体的な人間であろうとあえてすることである、――かかる巨大な努力をひとりでなし、またかかる巨大な責任をひとりで担いながら、神の前にただひとりで立つことである。中略、、キリスト教的な認識は、その形式がどのように厳密であろうとも、すべて配慮でなければばらない、――これこそまさに教化的なるものである。配慮とは人生に対するすなわち人間的な現実に対する関係であり、したがって(キリスト教的には)真剣ということである。冷静な知識の超然性は(キリスト教的には)より高次の真剣さであるどころか、それは(キリスト教的には)戯言と虚栄を意味するにすぎない。真剣ということがまた教化的なるものである。

上の文章を読むとき、私には二つのことが思い起こされる。

一つは、幸運にも私が数年前にジェームズ・フーストン氏が来日した際に鬼怒川で開かれたあるセミナーに参加した時の質疑応答の中でフーストン氏が仰っていた言葉である。

質問は「フーストン氏にとっての福音を一言で表わすとどのような言葉になるか」というものであった。大胆にして重要な問いではあるが、難しい質問であるから、私は長い答えが返って来るものと思っていた。しかし氏は、まさに一言で回答を表わした。それは「神に出逢って、初めて私は私という人間になることが出来た」(記憶に違いがなければであるが、とにかくニュアンスとしてはこのようなものであったと思う。)という内容であった。

もう一つは、どの書物に書かれていた言葉であるのか思い出せないのであるが、恐らくある日本人の神学者の「愛」についての言葉である。それは「愛とは徹底した配慮である。」というような内容のものでった。このことをキェルケゴール流に換言すると、「愛とは徹底した真剣さである」ということが出来る。いやむしろ私は、ここから逆に、キェルケゴールがその著書『死に至る病』を通して、神と人(読者)を、徹底して愛している姿を見るのである。

ここに記した内容はほとんど『死に至る病』の序文からの内容に過ぎない。

「『死に至る病』を読む」と題したからには、これでは十分でないことを自覚しつつ、しかし、優れた著作の序文には、その著作の主題が余すことなく著されていることを感動と共に覚え、今回は閉じることとする。

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「狭間を生きる」という霊性について

カナダのバンクーバーにあるリージェント・カレッジの初代学長であるジェームズ・フーストンによって「個人的な証しである」と述べられている著書『喜びの旅路(Joyful Exiles)』に付された日本語版のサブタイトルは「狭間を生きるキリスト者たちへ」である。

原著では「Life in Christ on The Dangerous Edge of Things」であり、訳者である長島勝氏の本文の翻訳も参考にして、私の拙い英語力で直訳するならば、「危険な崖っぷちに生きるキリスト者の生活」というものではないかと思う。

フーストンが、序文において述べているように、私たちが「聖書の使信に対して誠実であろうとすれば、私たちを取り巻く社会の中で「危険な崖っぷち」で生きていくことが求められ」る。

この主題が、この著作の全体の中で深められて行くのであるが、ここでは私なりにエッセンスをごく短く抽出することに留める。

「私たちには、自分たちが生きている「時代の精神」によって制約されてしまうという生来の傾向」がある。そして現代における時代の精神とは「極端なほどにさまざまなものを許容する傾向のある西欧社会の世俗主義」であり、「神の愛とご聖霊にではなく、さまざまなテクニックに頼るようにという執拗な誘惑」である。これによって、「現代のキリスト教会は、「パーソン(人格的な交わり、関係の中で生きる人間)」よりも「制度」を大切にする実体のないアイデンティティーを作り出す危険」をはらんでいる。

加えて、これは私の意見であり、フーストンもこの著作の全体を通してそのように語っているのであると、私は信じているが、本来のキリスト教とは、序文に引用されているフーストンの友人マルコム・マゲリッジの言葉の通り「世間の通念に反する」ものである。

だからこそ、フーストンは著作を閉じるに当って「キリスト者生活は、世俗的価値観の生み出した現状や既成秩序と衝突」し、「きわめて重要なキリストの十字架は、そもそも常にこの世に対して「攻撃的」で」あると述べているのであろう。

しかし、だからと言ってキリスト者の生活は、「独りよがりな個人主義や孤立した独立独歩のあり方を意味」しない。

ここに、キリスト者の生活と社会一般との緊張関係があり、これをフーストンは「危険な崖っぷち」の生活であると表現しているのである。

ところで、本稿のテーマは「崖っぷち」ではなく「狭間」である。

私は、『喜びの旅路(Joyful Exiles)』の日本語版のサブタイトルとして、直訳の、「危険な崖っぷちに生きる~」よりも「狭間に生きる~」を好ましく思う。

なぜならば、この「狭間に生きる」という言葉が、私たちが生きる「危険な崖っぷち」のイメージを捨て去ることなく、もうひとつの著作のテーマである「弁証法(二律背反的要素の狭間で物事を考える方法)」をも含意しているからである。

そしてこの「狭間に生きる」という表現は、さらに豊かなイメージの発展性を持っていると私は考える。

そこで私はこのブログの見出しにもこの言葉を使っている。

私は、私自身の霊性を「聖と俗との狭間を生きる」ことだと理解しているのである。

キリスト教の霊性の定義と象徴(symbole)について」の中でも取り上げたが、アリスター・E・マクグラスは、「霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いや経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの“信仰の内面化”に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。」と述べている。

そして私の生活は、決して修道院や社会から隔絶されたある種の聖域のような「聖」なる世界でなされているのではなく、世俗化した現代の日本において、そのただ中で、「ひとりの人」、「パーソン(人格的な交わり、関係の中で生きる人間)」として、文字通り現実的になされているのである。

また私にとっては、「聖と俗」のどちらもが、「神と出会い経験する」生活の欠かすことの出来ない構成要素である。

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プロメテウスは祈らない

E・H・ピーターソン著『牧会者の神学』から、祈りについての私のお気に入りのたとえを紹介したい。

アイスキュロスによる「プロメテウスの物語」によれば、原初における人間存在の本質的特徴とは、一人一人が自分の死ぬ日を知っていたことにあったという。換言すれば、人間は自らの限界を知っていたのである。

そしてギリシャの神々は気まぐれで残酷だった。彼らは多くの知識や手段を持っていたが、それを人間に与えようとはしなかった。この物語における人間の根本的な経験とは「死と暴虐の経験」にほかならない。

神々のひとりであったプロメテウスは、どういうわけかこのような人間の惨状に同情を寄せるようになり、同時に神々のかしらであったゼウスに対して怒りを覚えるようになった。そして彼は人間の状態を改善するために3つのことを行った。

第一に、プロメテウスは「死の日」についての知識、限界という感覚、死についての意識を、人間から取り去った。死という気のめいる意識から解放された人間は、今やあらゆることを企てることができるようになった。

第二に、プロメテウスは「人間を無目的な希望の中においた」のである。彼は男も女もこれまで以上の存在となるように、努力し、背伸びをし、野心家であれと励ました。

第三にプロメテウスがしたことは、神々から火を盗み、それを人間に与えたということである。この贈り物によって、人間は料理をしたり、武器を作ったり、陶器を焼くことが出来るようになった。「テクノロジーの世界」が始まったのである。

人間は神々のもつ知恵や先見性をもたぬまま、神々のもつ技術だけを手にしたのである。

当然ながらゼウスは激怒し、プロメテウスを遠く離れた山の岩に鎖で縛りつけて罰し、焼けつく太陽と冷たい月のもとにさらした。

プロメテウスは自分のしたことを後悔しなかった。彼は挑戦的だった。

この物語は悲劇である。人間はプロメテウスによって、文明的な生活と共に苦しみの原因を与えられたのである。

プロメテウスは勇敢で、大胆で、思いやり深く、知的な存在であり、人間にとって生きるということの水準を向上させた。しかし、将来への洞察と自己認識の訓練を伴うことなく、ただ野心と道具だけを人間に与えたことの結末を、プロメテウスは岩に縛りつけられたまま見せつけられることになったのである。

これは西洋文明というものを表象する物語である。ヴェルナー・イェーガーは、この神話を、人間的本性の悲劇を描いたもっとも偉大な表現であると述べている。

しかし、人間は悲劇を好まない。

現代はまさにプロメテウス的な時代である。現代の神話を作りだす人々は、それを悲劇としてではなく勝利の物語として語る。プロメテウスが神々から火を奪う場面だけが、すなわち技術、エネルギー、そして道具の始まりの部分だけが抜き出されており、死についての記憶喪失、目的の定まらぬ野心、日ごとに繰り返される苦しみといったことがらは、そこから削除されてしまっている。

神に対抗するような野心に満ちた傲慢なプロメテウス的な精神に対抗する手段は祈りである。

旧約の詩人はうたっている。「自分の日を正しく数えることを教えてください。」詩篇90:12

これに呼応してルターは次のように叫んだ。「主よ!(生涯の日を数えることにおいて)私たちすべてが熟練した算術家であることができますように!」

当然のことながら、プロメテウスは祈らない。「なすべきこと」はあまりにも多く、それらを行う時間はあまりにもわずかなのだから・・・・・。

※E・H・ピーターソン著『牧会者の神学』からなるべく忠実に引用しましたが、途中表現を変えたり、詳細な解説を省いています。

この物語から私たちが学ぶのは、私たちはこのプロメテウス的な(テクノロジーと無目的な野心の支配する)世界から来る悲劇から身を守るために、人間としての限界(それは究極的には必ず死すべきものとしての人間存在)を意識して生きるべきであるということ。そして、それは、立ち止まって神に祈ることを通してしか与えられないということである。

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キリスト教の霊性の定義と象徴(symbole)について

ユージン・H・ピーターソンは、「深みへの成長(グローイング・ディーパー)」シリーズ 序文の中で次のように述べている。

『私たちの多くは「霊性」の定義を十分にできないかもしれない。にもかかわらず、ほとんどの人がその「霊性」の存在や不在を認めている。そして多くの人たちが「霊性」の存在によって自らが高められ、その欠如によって自らが落ちていくのを感じている。』

「霊性」とは一体何であり、そして何でないのか?

「霊」とは目に見えない、しかも実態の捉えにくいものである。そして目に見えない、実態の捉えにくいものを表現する場合、我々は一般に象徴(symbole)を用いる。例えば、聖書において「霊」は、「風」や「息(神の息)」として表現される。

そしてキリスト教の霊性とは、この「霊(神の霊/聖霊)」に由来するものであるから、これを適切に表現するためには象徴(symbole)が必要であると私は考える。

事実、多くの先達はキリスト教の「霊性」を、ある象徴(symbole)によって表現してきた。

その象徴(symbole)とは「旅」である。

その理由についてはオックスフォード大学ウィクリフホール学長のA.・E・マクグラスは、適切にも「霊性」をテーマにした著書『信仰の旅路』において「聖書には旅のイメージが多く用いられてい」ることを指摘している。

その理由からか、同じくイギリスの代表的な福音主義神学者であるジョン・ストットは、直接に「霊性」という言葉を用いないながらも、信仰者の生涯について「旅」という表現を頻繁に用いている。

前述の『信仰の旅路』の中でマクグラスは、「旅とは人格的な成長の過程であり、単にAからBに進む行程ではありません。」と述べており、またその文脈において「中世の霊的な著作家」が「信仰者を表現するのにヴィアートルというラテン語を用い」ていること、そして、この「ヴィアートル」という単語が「文字通りには「旅行者」、「旅人」、すなわち世界を通り過ぎる人」を意味していることを指摘している。

また『信仰の旅路』におけるマクグラスによる「霊性」の定義とその意味は次のようなものである。

「霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いや経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの“信仰の内面化”に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。」

これらのことから私が考えるのは「霊性」は牧師や神学者にだけ関わりのある特別なものではなく、すべての信仰者の日常生活に深い関わりのあるものであり、また、そのことはこれまで以上に強調されるべきであるということである。

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わが国の学校教育の問題について

昨日、「進化論と創造論について」の中で「日本の学校教育の問題」が大きいと書いたことについて幾人かの方々に誤解を与えたようなので今日はこの点についての私の考えを述べたい。

前段の「誤解」の内容とは、私が「日本の学校教育において、キリスト教教育、特に創造論や創造科学についての授業を持つべきであると考えている」という内容であったように思う。恐らくはそのために、「キリスト教だけ特別扱いするのはおかしい」という内容の指摘もあった。

上記は大きな誤解であって、そのような趣旨は記事の中に全く書かなかったつもりであったが、そのような印象を与えたのであれば私の文章の未熟であったと反省するところである。

そこでまず、私が昨日の記事の中で、「日本の学校教育の問題」と表現した内容についてであるが、それは記事にも書いたとおり「進化論」が「あたかも実証されている、ある種の法則」のように教育されている点である。

この問題は、なにも進化論に限ったことではなく、いわゆる「歴史教科書問題」と呼ばれる歴史の認識や解釈をめぐる問題についても同じことが言えると私は考える。

解りやすく言えば「議論を無視して、一方の考え方だけを無批判的に受け入れさせる教育」なのであり、しかも、教科書問題については「一方」に都合の悪い意見を、かなり強引な方法で、しかもあからさまに排除している。

上記のような問題も、現在まさに論争が行われている最中であるので、進化論と創造論の問題と同じく、どちらが正しく、どちらが間違っているということを単純にいうことが出来ない問題である。

私が考える、「日本の学校教育の問題」とは、まさにこの「単純に決めつけることの出来ない、そして決めつけるべきでない内容を、単純化して知識として一方的に教育している」点である。

ここでは二つの大きな問題が生じる。

第一に、このような教育のなかで育った人間は、批判的にものごとを学ぶという「批判的、批評的な思考」を持たない。第二に、ものごとには多様な側面があり、多種多様な考え方の人間がいるということを理解する「想像力」を持たないという問題である。

上記の二点を、分かりやすい一つの言葉で表現するならば「客観性」ということになろうと思うが、これもまた私が批判している「単純化」であるから注意しなければならない。

つまり反対に、私が求める教育とは「複雑なものは複雑なものとして」教育することであり、「議論がある内容については、その議論そのもの」を提供して、学習に発展を持たせる教育である。

いわゆる「総合学習」の創設のきっかけとなった、第15期中央教育審議会の委員の1人である児島邦宏氏は、その著書の中で、知識の存在形態には、「○○はこれである」「△△とは何々である」という「知りえたもの」(これを「内容知」という)と、「知識や技能自体をどのように獲得していくかという学習の方法に関わる知の形態」(これを「方法知」という)の2つがあることを指摘している。

上記の私が求める教育の姿は、児島氏の言葉を借りれば「方法知」に関する教育であるということが出来るかもしれない。しかし、そのためには「総合学習」の時間を創るというだけでは不十分である。問題は日本の学校教育、即ち日本の文部科学省の学校教育に関する教育方針を、現在のような「国家の経済成長に役立つ人間を育てる」という方向から、真に「想像力と問題意識を持って自ら考え学び続ける人間を育てる」方向へと変換しなければならないという点であると私は考える。

実は「想像力と問題意識を持って自ら考え学び続ける人間」とは、私自身が目指す人間像であり、これと同じ意味を持つ言葉として、以前の記事である「対話的または弁証法的存在として」の中では「弁証法的な自分」と表現している。

同じ記事の一番最後に書いている言葉は、このブログについての私のポリシーでもあるため、最後に引用して閉じたい。

『自分の気付いたことや考えていることを分かち合う。それは、大切であり、また素晴らしい経験ではあるが、「受け手である他者」が寛容に自分を受け入れ続けて下さることを信じて、初めて出来ることではないかと思う。』

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進化論と創造論について

おもにアメリカを中心に進化論と創造論の論争というものがある。

この論争について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「創造科学」の項には「キリスト教根本主義による創造論から生まれたものであり、聖書(主として『創世記』)に記されている神による天地創造は記述どおりの事実であるとし、地球・宇宙の誕生に関する事象は聖書からより科学的に説明できるとする論説。科学と称するが、反対する立場からは反証可能性を持たない疑似科学とされる。」と記されている。

この中で使われている「キリスト教根本主義による」という言葉には少なからず偏見を感るのに加え、「反対する立場からは反証可能性を持たない疑似科学とされる。」という表現も、「反対する立場」である、おそらく「進化論の立場」は、完全に科学的であるという印象を与えアンフェアであると感じる。

私は、科学については素人ではあるが、キリスト教信仰の立場からすれば、決して根本主義と揶揄されるような偏ったものではないと自負している。ここでは、このような立場から、この論争を取り上げてみたい。

私と同じくキリスト教の信仰を持っている方の中には、この問題に真摯な関心を持っている方々も多数おられることと思うが、一般的には全く関心を払われないか、このような論争があることすら知らない方がほとんどであろう。

これについては日本の学校教育の問題も大きいのであるが、日本においては、進化論はあたかも実証されている、ある種の法則のような扱われ方をしており、進化論を信じていない者は、非科学的な人間であると決め付けられてしまう風潮が強い。

ここまでで恐らくご理解頂けているとおり、私は進化論を信じてはいない。

ここで「信じる」という言葉をつかっているのは、進化論が現時点で「仮説」でしかなく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』において「実証の難しい現象であるが、生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている」などといわれながらも、実際現在のところ、進化とよべるような現象は全く観測されておらず、進化がもしおこるとしても、それが一体どのようにおこるのかというメカニズムについても、それぞれの研究者が「新しい仮説」を繰り返しているに過ぎないからである。

しかも、この研究者たちは、何故か進化は間違いなく起こったということを前提として確信しており、それこそ何かにとりつかれたように研究を重ねているように、私には思われてならない。

私は科学には疎い者ではありますが、進化論には大きく分けて二つのテーゼが存在すると思う。

私の言葉で言えば、二つのうちの一つは「生物は進化する(ここで言う進化とはある種の動物が環境に適応して毛が長くなったとか短くなったというレベルではなく、アメーバがトカゲに進化したり、魚が鳥に進化したりというもの)」というものであり、もう一つは「生命の起源は偶然にある」というものである。

間違っていれば申し訳ないのであるが、私には、進化論の研究者たちは、上記の2点については、自明の理であって、後はそれがどのように起こったのかを説明すれば良いという前提のもとに、莫大な努力を費やしているように思えてならない。

しかし、それで本当に正しい答えにたどり着けるのだろうか?

使い古されたたとえにはなるが、それは「最初のボタンの掛け違え」ということにならないだろうか?

とまあ、科学の素人である私にはこの問題についてはこの程度のことしか書くことは出来ないが、このテーマに関してYouTubeで面白い動画を見つけたので是非紹介したい。

http://jp.youtube.com/watch?v=P0oT-g_ihNs&feature=related

このURLは「創造科学セミナー 第一」のもので、本編は「第十五」まであるのでこのテーマに関心があり、時間のある方は是非全て見て頂きたい。(ちなみに、このセミナーの講師であるケント・ホヴィンド博士は進化論が宇宙の存在と生命の起源を説明できる、 唯一の可能な理論であるという実験的証拠を見つけた者に25万ドルを支払うという公募を行っている http://www.drdino.com/articles.php?spec=67&kws=250,000

クリスチャンである私にとっては非常に興味深く納得の行く内容であったが、万人が私と同じ感想を持つことないであろうと思う。

最後に、この分野で私と同じ立場から啓発活動を行っているHPを2つほど紹介して閉じたい。

『クリエーションリサーチ』 http://www.sozoron.org/home/

『創造科学』 http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/

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