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「狭間を生きる」という霊性について

カナダのバンクーバーにあるリージェント・カレッジの初代学長であるジェームズ・フーストンによって「個人的な証しである」と述べられている著書『喜びの旅路(Joyful Exiles)』に付された日本語版のサブタイトルは「狭間を生きるキリスト者たちへ」である。

原著では「Life in Christ on The Dangerous Edge of Things」であり、訳者である長島勝氏の本文の翻訳も参考にして、私の拙い英語力で直訳するならば、「危険な崖っぷちに生きるキリスト者の生活」というものではないかと思う。

フーストンが、序文において述べているように、私たちが「聖書の使信に対して誠実であろうとすれば、私たちを取り巻く社会の中で「危険な崖っぷち」で生きていくことが求められ」る。

この主題が、この著作の全体の中で深められて行くのであるが、ここでは私なりにエッセンスをごく短く抽出することに留める。

「私たちには、自分たちが生きている「時代の精神」によって制約されてしまうという生来の傾向」がある。そして現代における時代の精神とは「極端なほどにさまざまなものを許容する傾向のある西欧社会の世俗主義」であり、「神の愛とご聖霊にではなく、さまざまなテクニックに頼るようにという執拗な誘惑」である。これによって、「現代のキリスト教会は、「パーソン(人格的な交わり、関係の中で生きる人間)」よりも「制度」を大切にする実体のないアイデンティティーを作り出す危険」をはらんでいる。

加えて、これは私の意見であり、フーストンもこの著作の全体を通してそのように語っているのであると、私は信じているが、本来のキリスト教とは、序文に引用されているフーストンの友人マルコム・マゲリッジの言葉の通り「世間の通念に反する」ものである。

だからこそ、フーストンは著作を閉じるに当って「キリスト者生活は、世俗的価値観の生み出した現状や既成秩序と衝突」し、「きわめて重要なキリストの十字架は、そもそも常にこの世に対して「攻撃的」で」あると述べているのであろう。

しかし、だからと言ってキリスト者の生活は、「独りよがりな個人主義や孤立した独立独歩のあり方を意味」しない。

ここに、キリスト者の生活と社会一般との緊張関係があり、これをフーストンは「危険な崖っぷち」の生活であると表現しているのである。

ところで、本稿のテーマは「崖っぷち」ではなく「狭間」である。

私は、『喜びの旅路(Joyful Exiles)』の日本語版のサブタイトルとして、直訳の、「危険な崖っぷちに生きる~」よりも「狭間に生きる~」を好ましく思う。

なぜならば、この「狭間に生きる」という言葉が、私たちが生きる「危険な崖っぷち」のイメージを捨て去ることなく、もうひとつの著作のテーマである「弁証法(二律背反的要素の狭間で物事を考える方法)」をも含意しているからである。

そしてこの「狭間に生きる」という表現は、さらに豊かなイメージの発展性を持っていると私は考える。

そこで私はこのブログの見出しにもこの言葉を使っている。

私は、私自身の霊性を「聖と俗との狭間を生きる」ことだと理解しているのである。

キリスト教の霊性の定義と象徴(symbole)について」の中でも取り上げたが、アリスター・E・マクグラスは、「霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いや経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの“信仰の内面化”に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。」と述べている。

そして私の生活は、決して修道院や社会から隔絶されたある種の聖域のような「聖」なる世界でなされているのではなく、世俗化した現代の日本において、そのただ中で、「ひとりの人」、「パーソン(人格的な交わり、関係の中で生きる人間)」として、文字通り現実的になされているのである。

また私にとっては、「聖と俗」のどちらもが、「神と出会い経験する」生活の欠かすことの出来ない構成要素である。

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