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キリスト教の霊性の定義と象徴(symbole)について

ユージン・H・ピーターソンは、「深みへの成長(グローイング・ディーパー)」シリーズ 序文の中で次のように述べている。

『私たちの多くは「霊性」の定義を十分にできないかもしれない。にもかかわらず、ほとんどの人がその「霊性」の存在や不在を認めている。そして多くの人たちが「霊性」の存在によって自らが高められ、その欠如によって自らが落ちていくのを感じている。』

「霊性」とは一体何であり、そして何でないのか?

「霊」とは目に見えない、しかも実態の捉えにくいものである。そして目に見えない、実態の捉えにくいものを表現する場合、我々は一般に象徴(symbole)を用いる。例えば、聖書において「霊」は、「風」や「息(神の息)」として表現される。

そしてキリスト教の霊性とは、この「霊(神の霊/聖霊)」に由来するものであるから、これを適切に表現するためには象徴(symbole)が必要であると私は考える。

事実、多くの先達はキリスト教の「霊性」を、ある象徴(symbole)によって表現してきた。

その象徴(symbole)とは「旅」である。

その理由についてはオックスフォード大学ウィクリフホール学長のA.・E・マクグラスは、適切にも「霊性」をテーマにした著書『信仰の旅路』において「聖書には旅のイメージが多く用いられてい」ることを指摘している。

その理由からか、同じくイギリスの代表的な福音主義神学者であるジョン・ストットは、直接に「霊性」という言葉を用いないながらも、信仰者の生涯について「旅」という表現を頻繁に用いている。

前述の『信仰の旅路』の中でマクグラスは、「旅とは人格的な成長の過程であり、単にAからBに進む行程ではありません。」と述べており、またその文脈において「中世の霊的な著作家」が「信仰者を表現するのにヴィアートルというラテン語を用い」ていること、そして、この「ヴィアートル」という単語が「文字通りには「旅行者」、「旅人」、すなわち世界を通り過ぎる人」を意味していることを指摘している。

また『信仰の旅路』におけるマクグラスによる「霊性」の定義とその意味は次のようなものである。

「霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いや経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの“信仰の内面化”に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。」

これらのことから私が考えるのは「霊性」は牧師や神学者にだけ関わりのある特別なものではなく、すべての信仰者の日常生活に深い関わりのあるものであり、また、そのことはこれまで以上に強調されるべきであるということである。

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