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『キリスト教信仰和讃』解説第10回

今回はこの『キリスト教信仰和讃』解説のシリーズ記念すべき一つの節目となる。

一つには第10回を迎えたこと、もう一つには、今回で『キリスト教信仰和讃』「その一」の最後の節を取りあげ完結することになるからである。

私としてはやっとここまで来たという想いであるが、果たしてどれほどの読者がいるのであろうかという疑問もないではない。

もし最近、或いはこの記事で初めてこのブログを訪れ関心を持たれた方は、すべての記事がそれなりに長文ではあるが、カテゴリーの『キリスト教信仰和讃』 から、全ての記事に目を通して頂ければ幸いである。

それでは今回の箇所
その一の七、

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この説の一文目は前節に引き続き「ただちに」という語が用いられている。

この「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることは、前回述べた通りである。

そして今回この箇所で「ただちに」せよと勧められているのは「おわび」である。

これは「神さま」に対するお詫びであるから、キリスト教的な意味での悔い改めの勧めである。

前節の「祈り」と「感謝」に引き続き、この詩の作者である吉田師は「悔い改め」を勧めている。しかもその「悔い改め」とは、前回述べたような「自分と全く一体となっている神を覚え、即応答する」という実態を持つ行為としての「悔い改め」を意味している。

私としては、このことを理解した上で、初めて「もし間違いをした時は」と言われる「時」がはっきりしてくるように思う。というのは「間違い」とは一体何を意味するのであるかという問題があるからである。

キリスト教信者、或いはキリスト教に理解のある人であれば、この「間違い」が、「罪」と換言し得ることは容易に察しがつくことであろう。しかし問題は、罪とは一体なんであろうかという質問や、聖書において全人類が罪の下におかれ、その奴隷となっているということが語られている文脈の中で、人間が、或いはキリスト者が「間違いをした時」即ち「罪を犯した時」とは、具体的にはどのような「時」を意味するのであろうかということである。

上述のような質問に対して、一方では盗みや人殺し、或いはそれに先立つ妬みや憎しみを他者に対して抱いた時など、聖書において罪とされている心の中の想いも含めた、具体的な行為を行った時であると答えることが可能であろう。また、人間はすべて罪人であり、たとえ信仰者であろうともこの地上においては、絶えず罪に傾く傾向を持っているのであるから、「絶えず」即ち「無時間的、継続的に」悔い改め続けるべきであると答えることも可能であると私は考える。

上述の2つの回答はどちらも真理であると私は信じている。しかし、この詩のこの箇所の解説としては、どちらも不十分であると私は考える。

後者については、この箇所が「時」に言及していることの意味を薄めてしまっている。対して前者においては「聖書において罪とされている」ことについての個人の知識と理解、解釈によって厳密さがなくなる。「悔い改め」に関して厳密さを欠くということは、真剣さを欠くということであり、真剣さを欠く「悔い改め」はもはや「悔い改め」ではないと私は考える。

この詩句においては「おわび」という語で言われているので、相応しい表現に言い換えれば、「まごころからのおわび」でなければならない。

この『キリスト教信仰和讃』全体に込められた、作者である吉田師の神と人に対する愛と真剣さから言っても、ここで「悔い改め」について真剣さ、即ち厳密さを欠くことは出来ないと私は考える。勿論この厳密さとは、キェルケゴールが言うところの「配慮」即ち「人間的な現実に対する関係」であり「キリスト教的」な「真剣」さに立った上での厳密さである。

それでは果たしてそのような「厳密さ」は、如何にして実現するのであろうか。

それは今日の箇所の二文目の言葉に明確に表されている。即ち「天と心に住む神」である。

つまり、これは同じ「ただちに」という主題を持っている前節の2つの「時」についても同じことが言えるのであるが、「天と心に住む神」と唱え得るように「内在」する神を覚えている者にとっては、「祈り」にしても「感謝」にしても、そして「悔い改め」にしても、全ては「内在」する神に対しての行為であるから、その成すべき時が来れば、その「時」は自ずからはっきりと解るということであり、これほどキリスト教的であり、且つ厳密な内容はない。

言い換えれば、結局のところすべては「天と心に住む神」を覚えることに掛かっているのである。

『キリスト教信仰和讃』「その一」の全文を見れば一目瞭然となることであるが、この詩の第一節、第一の言葉もまた「天と心に住む神」である。またこの詩の全体の内容を概観すれば、その中心的な主題もまた「天と心に住む神」即ち「偏在し且つ内在する神」であることは明らかである。

このように「天と心に住む神」こそが、この『キリスト教信仰和讃』「その一」全体の主題であり、且つ大前提でもあることを明らかにして、この第10回、即ち『キリスト教信仰和讃』「その一」の解説完結編を閉じることとする。

次回はいよいよ『キリスト教信仰和讃』「その二」のお披露目である。

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