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『キリスト教信仰和讃』解説第9回

1年以上ぶりの再開である。

箇所
その一の六、

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

前回から今回の間に1年以上の期間が空いてしまったことについては、私が飽きっぽく怠け者であるということに加え、今回の箇所の内容にも理由があると私は考えている。

それはつまり今回の箇所の詩句の単純明快さである。

苦しい時には祈り、すなわち神に助けを請い、楽しい時、すなわち喜ばしいことがあった時には神に感謝を捧げること、これほど単純で解りやすいこともない。

これまで、幾度かこの箇所に取り掛かろうと思い立ったことはあったのであるが、この詩句を読むたびに、これほど単純で解りやすい詩句に解説や説明を加えるというのは、私には不可能なことのように思われたのである。

しかし、今回改めてこの詩句を読み返してみたところ、この詩句の要となる言葉が、スーッと浮かび上がってきた。その要となる言葉とは「ただちに」という言葉である。

この『キリスト教信仰和讃』の作者である吉田清太郎牧師は「禅者牧師」と呼ばれた人であり、キリスト教の牧師でありながら、禅を真剣に研究した人であった。それがどれほどの熱心さによってなされたのかということは、この『キリスト教信仰和讃』の出典である秋月龍珉 著/編 『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』によって知ることができる。

この禅者であり牧師でもある吉田師は以前『キリスト教信仰和讃』第4回でみたように、神の内在性について、「神と人が一体である」という独特の理解を持っていた。

独特とはいうものの、勿論聖書の教理に反するものではなく、むしろその点に特別の思い入れを持っていたという方が正しいと思う。

ともかく、そのような文脈の中で今回の詩句を読むとき、この箇所の要は「ただちに」という言葉であるというのが私の見解である。

ここで使われている「ただちに」という言葉は、言い換えれば「即(そく)」」ということではないかと私は考える。

「即(そく)」とは、そもそも仏教の用語であり、二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態を意味している。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」には「色即是空、空即是色」とある。

ともかく、この「即」という言葉を副詞的に用いると「ただちに」という意味となり、「即(そく)実行する」というような使われ方をする。

また接続詞として用いられるときには、前者と後者とが同じであることを表す語となり、「とりもなおさず」或いは「すなわち」(即ち)という意味を持つ。

このように「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることが解る。

これらのことを覚えて、再度今回の詩句を読んでみたい。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

ここには、「苦(しみ)」即「祈(り)」「楽(喜び)」即「礼(感謝)」という、信仰者の生活に現れるべき理想的な在り方が浮かび上がる。さらにこのような在り方とは「とりもなおさず」「神と一体となっている」ことを確信している信仰者の姿であると私には思われる。

この私の考えをよりはっきりと理解して頂くために、逆説的なたとえを挙げて、この記事を閉じることにする。

もし信仰者が「神と一体となっている」(これはすべての信仰者の実状であるが)のに、その実状を確信せず、それどころかそんなことは全く知らないという場合、その信仰者は苦しみに遭うと、「なぜ神は、私をこのような苦難に遭わせるのだろうか」と「つぶやく」(それは断じて祈りではない)ことになる。なぜなら彼にとっての神は遠く天に在り、人間の運命をその手に握っているのではあるが、人間の苦しみの只中にはおられないからである。

同じように彼が楽しむとき、彼は彼個人として楽しみ、たとえ、彼が楽しみを享受して後、我に帰り神に感謝を捧げるとしても、彼の享受した楽しみの経験の只中で、神の現実的な存在を味わい感謝するということは無い。なぜならば、彼の神は遠く天におられるからである。

この詩句において吉田師が表現している、「苦しい時に、ただちに祈り、楽しい時に、ただちにお礼を申す」とは、苦しみや楽しみの只中で、自分と全く一体となっている神を覚え、即応答することであると私は考える。

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