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2009年2月

偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?

偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか? という興味深い問いに出会った。 (プラシーボ効果についてはhttp://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.htmlなどを参照)

以下は上記の興味深い問いに対して試みた、現時点での私の試論である。

聖書が偶像礼拝について批判している理由の一つは、偶像礼拝によって、礼拝者である人間も、また礼拝の対象である神も矮小化されてしまうからである。

口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 
                               詩篇115:5-8

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。 
                                      イザヤ44:9

次に聖書の主張する、まことの「神」である「主」以外に、絶対的な権威者として仰ぐべき存在はないということについて。

主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
                                     詩篇95:3

つまり聖書は「主」であるヤハウェのほかに「神々」と呼ばれるものが存在することは認めている。しかし、この「神々」をどのような存在として理解するのかについては多くの議論があるが、ここでの関心は、この点についての詳しい議論ではない。

上記の点を踏まえた上で、果たして偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?という問いについての私の考えを述べる。

『人は神に向けて造られており、人の心は神に憩うまでは安らぎがない』
                            アウグスティヌス著「告白」より

『人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何者をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる。』 
                                パスカル「パンセ」より                                          
これらの先達の言葉から、人間は真実の神を見出して心が満たされるまでは、普遍的に偶像を必要とする存在であると私は考える。

ジェームズ・フーストンは、その著書『心の渇望』の中で、偶像礼拝は「誤った願望により生じる結果」であると言っている。ここでいう「誤った願望」とは、真実の神によって満たされるべき空洞を、別のもので満たそうとする「願望」であると私は解釈している。フーストンは同じ著書の中で、有名な心理学者のユングの「その神々は死なない」という言葉と、預言者エゼキエルが「神々」を「糞」と呼んだことを引用して、偶像の持つ「汚す力」の危険性を指摘している。

つまり、聖書は「偶像礼拝の無意味さ」だけでなく「危険性」も語っているのである。

さらにフーストンは「神々」が「礼拝を受ける時に現実の力に」なることを指摘している。

その「力」とは「人はマモン(金銭欲の象徴である偶像)のように固く金属的になったり、エロースのように柔らかく官能的になったり、サタンのように残忍で邪悪になったりしうる」というものである。

これを私なりに解釈すると、人はその信じる偶像に似たものとなるということである。そしてその法則は、偶像の「神々」が実在するかどうかに関わらないのだと私は考える。

それは例えば、アイドル(まさに偶像を意味する言葉である)やロックバンド、或いは歴史上の偉人や身近な尊敬する人物に熱狂的になる人々は、その外見や性格、嗜好など、その全人格に渡って、その熱狂する対象に影響を受ける。そしてそれは、その熱狂の対象が空想上の人物(例えばマンガや物語、映画の登場人物)であってもなんら変わりはない。そしてその結果は、ある時には、その人々に、生活上の成功経験(例えば、友人に尊敬されたり、仕事上の成功をもたらしたり、地位や名声を与えたり)をもたらす。この成功経験は、ある意味では熱狂から来る「御利益」であると考えて良いと思う。勿論熱狂は、逆に破壊的な影響をもたらすこともある。

以上の「熱狂による成功経験」の現象が、キリスト教以外の宗教において観察できる場合、これをある意味においては「偶像礼拝におけるプラシーボ効果」であると言って良いのではないかと私は考える。

これに加えて、「逆説的なプラシーボ効果」として、祈願に応じて子宝を授かることや、病の癒しなどの、実は原因は他の所にある現実の現象を、偶像礼拝者本人が、それを本人の信仰の結果だと思い込む場合があるのではないか、また、この「逆説的なプラシーボ効果」には異教的な文化における「たたり」や「呪い」、「神罰」などが含まれるのではないかとも私は考える。

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任命責任

以下は2月19日の中日新聞、朝刊コラム中日春秋の記事である。

「経済財政担当相兼財務相兼金融担当相」。与謝野馨さんの新たな肩書だ。何となく「三菱東京UFJ銀行」を思い出した。従前からの肩書に加えて、後ろ二つの大臣を兼ねることになったのは、その役にあった中川昭一さんがローマでの記者会見で演じた失態の責任を取り辞任したため。カネの問題や失言などによる引責辞任ならともかく、「風邪薬」のせいでというのは、何というか新機軸である。ただでさえ、支持率低迷で苦境にある麻生首相だ。まさに弱り目に祟(たた)り目としか言いようがないが、自民党内でも麻生批判が一層強まり、当然のように野党からは「任命責任」を問う声が上がっている。それはもっともだろうが、ふと考える。では、その麻生さんを首相に選んだのは誰か。自民党総裁に選んだのは自民党員だが、首相になったのは国会での投票の結果。だから「任命責任」は国会議員にあると言ってもいい。しかし、もう一段遡(さかのぼ)り、では、その国会議員を選挙で選び、そういう状況を国会につくり出したのは誰か。認めざるを得ない。それは、われわれ有権者。「任命責任」は最終的にはそこに行き着くとも言える。政権迷走は極限に近づき、今度の一件で早まったのか遠のいたのかさえ判然としない総選挙だが、遅くも今秋にはある。「任命責任」を思って、今度使う一票には今から磨きをかけておきたい。

この記事を読んで、全くその通りだと頷く反面、なにかトラブルや意に沿わないことが起こると、とかく他者に責任を押し付けがちな自分に反省させられた。

私たちは他者の無責任を責める前に、自分自身を省み、自分自身、与えられた社会的責任を果たしているか吟味してみる必要があるのではないだろうか?

勿論、為政者たちには大きな権威が委ねられているのであるから、それに見合う責任を負う義務がある。

キリスト者である私は、政治に無関心であってはならないと私は考えている。同時に、メディアと同調して彼等を責めるだけではなく、為政者たちのために真剣に祈る必要もあることを改めて反省させられた。

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『キリスト教信仰和讃』解説第10回

今回はこの『キリスト教信仰和讃』解説のシリーズ記念すべき一つの節目となる。

一つには第10回を迎えたこと、もう一つには、今回で『キリスト教信仰和讃』「その一」の最後の節を取りあげ完結することになるからである。

私としてはやっとここまで来たという想いであるが、果たしてどれほどの読者がいるのであろうかという疑問もないではない。

もし最近、或いはこの記事で初めてこのブログを訪れ関心を持たれた方は、すべての記事がそれなりに長文ではあるが、カテゴリーの『キリスト教信仰和讃』 から、全ての記事に目を通して頂ければ幸いである。

それでは今回の箇所
その一の七、

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

この説の一文目は前節に引き続き「ただちに」という語が用いられている。

この「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることは、前回述べた通りである。

そして今回この箇所で「ただちに」せよと勧められているのは「おわび」である。

これは「神さま」に対するお詫びであるから、キリスト教的な意味での悔い改めの勧めである。

前節の「祈り」と「感謝」に引き続き、この詩の作者である吉田師は「悔い改め」を勧めている。しかもその「悔い改め」とは、前回述べたような「自分と全く一体となっている神を覚え、即応答する」という実態を持つ行為としての「悔い改め」を意味している。

私としては、このことを理解した上で、初めて「もし間違いをした時は」と言われる「時」がはっきりしてくるように思う。というのは「間違い」とは一体何を意味するのであるかという問題があるからである。

キリスト教信者、或いはキリスト教に理解のある人であれば、この「間違い」が、「罪」と換言し得ることは容易に察しがつくことであろう。しかし問題は、罪とは一体なんであろうかという質問や、聖書において全人類が罪の下におかれ、その奴隷となっているということが語られている文脈の中で、人間が、或いはキリスト者が「間違いをした時」即ち「罪を犯した時」とは、具体的にはどのような「時」を意味するのであろうかということである。

上述のような質問に対して、一方では盗みや人殺し、或いはそれに先立つ妬みや憎しみを他者に対して抱いた時など、聖書において罪とされている心の中の想いも含めた、具体的な行為を行った時であると答えることが可能であろう。また、人間はすべて罪人であり、たとえ信仰者であろうともこの地上においては、絶えず罪に傾く傾向を持っているのであるから、「絶えず」即ち「無時間的、継続的に」悔い改め続けるべきであると答えることも可能であると私は考える。

上述の2つの回答はどちらも真理であると私は信じている。しかし、この詩のこの箇所の解説としては、どちらも不十分であると私は考える。

後者については、この箇所が「時」に言及していることの意味を薄めてしまっている。対して前者においては「聖書において罪とされている」ことについての個人の知識と理解、解釈によって厳密さがなくなる。「悔い改め」に関して厳密さを欠くということは、真剣さを欠くということであり、真剣さを欠く「悔い改め」はもはや「悔い改め」ではないと私は考える。

この詩句においては「おわび」という語で言われているので、相応しい表現に言い換えれば、「まごころからのおわび」でなければならない。

この『キリスト教信仰和讃』全体に込められた、作者である吉田師の神と人に対する愛と真剣さから言っても、ここで「悔い改め」について真剣さ、即ち厳密さを欠くことは出来ないと私は考える。勿論この厳密さとは、キェルケゴールが言うところの「配慮」即ち「人間的な現実に対する関係」であり「キリスト教的」な「真剣」さに立った上での厳密さである。

それでは果たしてそのような「厳密さ」は、如何にして実現するのであろうか。

それは今日の箇所の二文目の言葉に明確に表されている。即ち「天と心に住む神」である。

つまり、これは同じ「ただちに」という主題を持っている前節の2つの「時」についても同じことが言えるのであるが、「天と心に住む神」と唱え得るように「内在」する神を覚えている者にとっては、「祈り」にしても「感謝」にしても、そして「悔い改め」にしても、全ては「内在」する神に対しての行為であるから、その成すべき時が来れば、その「時」は自ずからはっきりと解るということであり、これほどキリスト教的であり、且つ厳密な内容はない。

言い換えれば、結局のところすべては「天と心に住む神」を覚えることに掛かっているのである。

『キリスト教信仰和讃』「その一」の全文を見れば一目瞭然となることであるが、この詩の第一節、第一の言葉もまた「天と心に住む神」である。またこの詩の全体の内容を概観すれば、その中心的な主題もまた「天と心に住む神」即ち「偏在し且つ内在する神」であることは明らかである。

このように「天と心に住む神」こそが、この『キリスト教信仰和讃』「その一」全体の主題であり、且つ大前提でもあることを明らかにして、この第10回、即ち『キリスト教信仰和讃』「その一」の解説完結編を閉じることとする。

次回はいよいよ『キリスト教信仰和讃』「その二」のお披露目である。

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真理は寒梅の似(ごと)し

今年も梅の咲く季節となった。

今回のテーマは私の座右の銘の一つともいえるもので、同志社大学(前身は同志社英学校)の創立者新島襄の言葉である。

真理は寒梅の似し
敢えて風雪を侵して開く

(しんりはかんばいのごとし
あえてふうせつをおかしてひらく)

この句はもともとは「真理似寒梅 敢侵風雪開」という漢詩であり、現在の同志社大学のキャンパスの礼拝堂近くの「寒梅碑(かんばいひ)」と呼ばれる碑に刻まれている。これは、卒業生で、後に日銀総裁にもなった深井英吾に書き贈った詩であるとされている。

実は新島襄の「寒梅の詩」と呼ばれるもう一つの漢詩がある。

庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁

庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)
笑って風雪を侵(おか)して開く
不争(あらそ)わず又力(つと)めず
自(おのずか)ら百花の魁(さきがけ)を占(し)む

庭先の一本の梅の木、寒梅とでも呼ぼうか
風に耐え、雪を忍び
笑っているかの様に、平然と咲いている。
別に、争って、無理に一番咲きを競って
努力したのでもなく、
自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。

これは新島襄の晩年の作と言われているが、私はこちらの「寒梅の詩」を先に知った。

この詩には後に曲がつけられ、同志社学生混声合唱団設立の端緒となっている。またこの詩は、詩吟として吟じられることもあり、多くの人々に愛されている。

私がこの詩に最初に出会ったのは、神学校の卒業式であり、ある先生が祝辞の中でこの詩を吟じて下さった際、非常に感動したことを今も覚えている。

ところで、上の二つの詩句を比較するとすぐに分かることであるが、二つの詩は「侵風雪開」という共通する詩句を持っているいわば、お互いに深い関わりを持った、兄弟或いは姉妹のような詩であり、少なくとも私はそのように理解している。

詩として私が特に好むのは最初に出会った「寒梅の詩」であり、どこかでそう聞いたからそうなのか、私の思い込みかは定かではないが、「庭上一寒梅 笑侵風雪開」を「庭上の一寒梅 風雪に笑う」という訳で諳(そら)んじており、この「風雪に笑う」という雰囲気が非常に気に入っている。

また、「寒梅碑」の詩では「敢えて」風雪を侵すのであるが、「寒梅の詩」では「笑って」それをするのである。

これは私の想像であるが、「寒梅の詩」が晩年の作であるということから、この変化に、新島襄の「真理」についての理解の深まりがあるのではないかと考えている。

ところで、新島襄は熱心なキリスト者であり、またキリスト教の布教者でもあったことは周知のことがらであるから、ここでの「真理」とは、究極的には聖書の真理、キリスト教の真理であると私は考えている。

そこで上述の「真理」についての理解の深まりということについてであるが、私の考えでは、「寒梅碑」の詩を読んだ時点での新島襄にとっての「真理」とは、どんな事情が在ろうとも変転させずに堅く守るべきものであり、それを曲げようとする「風雪」のごとき外圧に対しては、敢えてそれを侵して断固として守るべきものであったのだと思う。また、私の考えるキリスト教的真理とは、いつの世の時代の精神や常識に対しても、常に全く対抗するラジカルな価値観を主張するものであるから、当然世の厳しい風雪に晒されることとなる。したがって、私は、この「寒梅碑」の詩の真理についての教説に賛同するものである。

同時に、新島襄の晩年の作と言われる「寒梅の詩」には、さらに深い共感を覚える。

「寒梅の詩」を、「寒梅碑」の詩における「真理」との関連で解釈するならば、次のようなものであろうと私は考える。

寒梅が風に耐え、雪を忍び、笑っているかのように、平然と咲いている。しかもそれは、争って、無理に一番咲きを競って努力したのでもなく、自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。真理とはまさにそのようなものであり、真理は真理である故にあらゆる非難や誤った考えに晒されようとも、定まったときには自然に明らかにされるのである。しかもそれは論争や努力によるのではなく、真理そのものの性質の故にである。

新島襄にとっての真理、即ちキリスト教の真理とは、そのまま神そのものとも、イエス・キリストご自身と読み替えて良いものであると私は考える。

キリスト教の真理を知るというのは、神を知ることであり、即ちそれはイエス・キリストを知ることである。

また真理である寒梅が百花の魁となるイメージから、私は聖書の次の言葉を思い浮かべる。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。 箴言9:10

主、即ち神を恐れ、聖なる方を知ることこそ、キリスト教的には真理を知ることである。この真理を知ることは、百花と譬えられるような、この世のあらゆる知恵と悟りにさきがけてどうしても必要なことであると、この箇所から教えられる。

また最近の私の関心である「仏教とキリスト教の対話について」という観点から、沢庵和尚が柳生但馬守宗矩に書いて与えた「剣禅一致」極意書と言われる『不動智神妙録』から次の一文を紹介したい。

「如何なるか是れ仏法の極意」と問わば、その声未だ絶えざるに、「一枝の梅花」なりとも、「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりとも言ふべし。

新島襄は上州安中藩の藩士の子、つまりは武士の子であるから、あるいは上述のような沢庵和尚の書にも接していたのではないかと思う。もしそうであれば、「寒梅の詩」は、またさらに意味深いものとして響いてくる。また、たといそうでなくとも、真理を寒梅に譬えた新島襄と、仏法の極意を「一枝の梅花」或いは「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりと著した沢庵和尚の書の驚くばかりの一致に、まさに真理は「寒梅の詩」に表現されているとおりに、自ずから明らかになるものであると、改めて思わされる。

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仏教とキリスト教の対話について

あらゆる意味での「対話」こそが、このブログのテーマであるため、今回はこのような記事を書いてみた。

昨日『キリスト教信仰和賛』解説の記事を書くに当って、久し振りにその出典である秋月龍珉 著/編 『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』を開いた。

その「まえがき」は次のような文章で始まっている。

「今世紀最大の歴史家と言われるイギリスのトインビー博士は、ある有名な講演を結ぶに当って、次のようなことを言っている。「千年後に人類の歴史を書こうとする学者が、我われの二十世紀という世紀をどのような時代として位置づけるであろうか。ある国で共産主義者と自由主義者とが争っていた、というようなことは、あまり問題にならないに違いない。そのとき問題になるのは、二十世紀の後半になって、人類は、西洋と東洋と、キリスト教と仏教とが、初めて対話ができるようになって、そこに互いに相浸透しあう何ものかを発見した、と言うことであろう」。東洋と西洋と、仏教徒とキリスト教徒とが対話して、お互いに通じあう、今までより深い人間性(=真人)を発見した、そしてそれが、その後の千年間の人類を導く基本思想になる、という予感が、あるいは期待が、トインビー博士の心の中にあったのに違いない、と私は思う。」

著者である秋月龍珉氏が一体どのようなものを思い描いて「今までより深い人間性(=真人)」という言葉を用いたのかまでは、私には知る由もないことであるが、私は「仏教徒とキリスト教徒とが対話」することについては、トインビー博士と秋月氏の両氏と同様に期待と希望を持つ者である。

そして対話については、秋月氏の「対話を可能にするのには、少なくとも、同じ神が、違った文化伝統の中で異なった仕方で、みずからを全人類に啓示しているという可能性を認めなければ、いくら善意の対話に努めても、真の対話にはならない。」という意見に全面的に賛同をする。

ここで私の考えとして、はっきりと述べておきたい点は、他の宗教に関心を持ち、真剣に研究することは、自分の信仰が二つ、或いはそれ以上の複数の宗教の折衷した、これまでとは別の「異なる信仰」になることでも、またはどちらか一方だけが「絶対的な真理」であり、一方は必ず退けられなければならないようなものでもないということである。

同時に、非常に残念なことではあるが、上述のような混乱に陥る人々が、世の中には非常に多く見られるようにも私には思える。

ここで『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』に引用された吉田清太郎牧師自身の言葉を引用したい。

「魚木君(著者である秋月氏が吉田師を訪ねるきっかけとなった『日本キリスト教の精神的伝統』(教文社刊)の著者である魚木忠一(同志社)教授)は私をまったく禅宗坊さんにしてしまったが、私はどこまでもクリスチャンです。中略、、また、私が蛾山和尚に参禅したことは大いに私の信仰のために力になった。和尚に参禅しなかったら、今日の私のこの境涯はなかったろう」

吉田師のこの言葉に現れている、自身のキリスト教信仰に確信を持ちつつ、謙遜に禅(仏教)を学んだ先達としての姿に、倣いたいものであると私は願っている。

仏教とキリスト教の対話については、もう一人、日本を代表する神学者であり、私が敬愛してやまない信仰の先達、北森嘉蔵師の代表的な著書『神の痛みの神学』(講談社学術文庫)の中にも見られるのであるが、ここでその内容を取り上げることは、現在の私の手に余るため断念するが、この『神の痛みの神学』は「わが国の仏教学界」の側からも好意的に受け入れられたことは最後に付しておきたい。

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『キリスト教信仰和讃』解説第9回

1年以上ぶりの再開である。

箇所
その一の六、

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

全文は『キリスト教信仰和讃』①にてご確認下さい。 http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_d7de.html

前回から今回の間に1年以上の期間が空いてしまったことについては、私が飽きっぽく怠け者であるということに加え、今回の箇所の内容にも理由があると私は考えている。

それはつまり今回の箇所の詩句の単純明快さである。

苦しい時には祈り、すなわち神に助けを請い、楽しい時、すなわち喜ばしいことがあった時には神に感謝を捧げること、これほど単純で解りやすいこともない。

これまで、幾度かこの箇所に取り掛かろうと思い立ったことはあったのであるが、この詩句を読むたびに、これほど単純で解りやすい詩句に解説や説明を加えるというのは、私には不可能なことのように思われたのである。

しかし、今回改めてこの詩句を読み返してみたところ、この詩句の要となる言葉が、スーッと浮かび上がってきた。その要となる言葉とは「ただちに」という言葉である。

この『キリスト教信仰和讃』の作者である吉田清太郎牧師は「禅者牧師」と呼ばれた人であり、キリスト教の牧師でありながら、禅を真剣に研究した人であった。それがどれほどの熱心さによってなされたのかということは、この『キリスト教信仰和讃』の出典である秋月龍珉 著/編 『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』によって知ることができる。

この禅者であり牧師でもある吉田師は以前『キリスト教信仰和讃』第4回でみたように、神の内在性について、「神と人が一体である」という独特の理解を持っていた。

独特とはいうものの、勿論聖書の教理に反するものではなく、むしろその点に特別の思い入れを持っていたという方が正しいと思う。

ともかく、そのような文脈の中で今回の詩句を読むとき、この箇所の要は「ただちに」という言葉であるというのが私の見解である。

ここで使われている「ただちに」という言葉は、言い換えれば「即(そく)」」ということではないかと私は考える。

「即(そく)」とは、そもそも仏教の用語であり、二つのものが互いに表裏の関係にあって分離できない状態を意味している。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」には「色即是空、空即是色」とある。

ともかく、この「即」という言葉を副詞的に用いると「ただちに」という意味となり、「即(そく)実行する」というような使われ方をする。

また接続詞として用いられるときには、前者と後者とが同じであることを表す語となり、「とりもなおさず」或いは「すなわち」(即ち)という意味を持つ。

このように「ただちに」を「即」という語との関係で考えるとき、この言葉が、宗教的であり且つ、禅者牧師である吉田清太郎的な表現であることが解る。

これらのことを覚えて、再度今回の詩句を読んでみたい。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

ここには、「苦(しみ)」即「祈(り)」「楽(喜び)」即「礼(感謝)」という、信仰者の生活に現れるべき理想的な在り方が浮かび上がる。さらにこのような在り方とは「とりもなおさず」「神と一体となっている」ことを確信している信仰者の姿であると私には思われる。

この私の考えをよりはっきりと理解して頂くために、逆説的なたとえを挙げて、この記事を閉じることにする。

もし信仰者が「神と一体となっている」(これはすべての信仰者の実状であるが)のに、その実状を確信せず、それどころかそんなことは全く知らないという場合、その信仰者は苦しみに遭うと、「なぜ神は、私をこのような苦難に遭わせるのだろうか」と「つぶやく」(それは断じて祈りではない)ことになる。なぜなら彼にとっての神は遠く天に在り、人間の運命をその手に握っているのではあるが、人間の苦しみの只中にはおられないからである。

同じように彼が楽しむとき、彼は彼個人として楽しみ、たとえ、彼が楽しみを享受して後、我に帰り神に感謝を捧げるとしても、彼の享受した楽しみの経験の只中で、神の現実的な存在を味わい感謝するということは無い。なぜならば、彼の神は遠く天におられるからである。

この詩句において吉田師が表現している、「苦しい時に、ただちに祈り、楽しい時に、ただちにお礼を申す」とは、苦しみや楽しみの只中で、自分と全く一体となっている神を覚え、即応答することであると私は考える。

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キリスト者の霊性と詩篇と祈りについて

E・H・ピーターソンはその著書『牧会者の神学』の第1章を「祈り」に当てている。

以前「プロメテウスは祈らない 」という記事で紹介した物語は、その章から引用したものである。

今回は、その同じ第1章から「詩篇」についての記事を紹介したい。

その記事において、ピーターソンは、啓蒙主義の影響からユリウス・ヴェルハウゼンによって行われた「聖書の歴史的研究」の結果、「ヘブライ人の祈りの集大成である詩篇」が「聖書における中心的な重要性を失い、歴史の片隅に追いやられることとなった」ことを批判している。

そして「ヴェルハウゼンの時代に至るまで、詩篇は祈りにおけるヘブライ人の大胆かつ厳格な姿を示すものとして、救いを与えたもう神へ応答するための中心的な部分とみなされて」おり、「人々は非常な真剣さと大きな喜びをもって詩篇を取りあげたものであり、それは最高の聖書注解者たちを魅了してきた」こと、また「詩篇は礼拝全体と信仰に生きる人々の経験するあらゆる次元の出来事を表現する言葉を提供するもの」であり、「あらゆる聖書の物語の中でも、詩篇ほど、微に入り細をうがって人間のさまざまな側面を描きだしているものはない」ことを指摘している。

ここでの私の関心は啓蒙主義がキリスト教神学に対してもたらした影響を批判することではなく、キリスト者の霊性に対して詩篇と祈りの持つ重要性を明らかにすることであるため、『牧会者の神学』からヴェルハウゼンについて引用するのは、次の一文で終えることとする。

「だが、やがてヴェルハウゼンの解釈が決定的なものではないことが明らかにされる時がやってきた。」

それはノルウェーの研究者であるシグムント・モーヴィンケルによる「比較宗教学の分野で」行われた「古代チュートン民族の礼拝研究」によって明らかになったことをピーターソンは指摘している。

そしてピーターソンは次のように続ける。

「チュートン民族の祈りを研究していく中で、モーヴィンケルはヨーロッパの原始社会では共同体における祈りが、そこで行われる他のすべてのことがらに対する規範的な役割を果たすものであったことを理解した。」すなわち、「人々が礼拝に集まって祈りに加わる時、その行為はいいかげんなものでも末梢的なものでもな」く、「それは彼らにとって根源的な行為であり、劇的な行為だったのである。」

以下はモーヴィンケルの言葉である。

「それ(祈り)は社会の全体を力強く包容する行為であって、さまざまな理念を形成し、もろもろの価値観を教えるとともに、その共同体を一つにまとめあげるきずなとして働いたのであった。」

ピーターソンはさらに続ける。

「祈りは人格に密着したものであるとともに、歴史と文化における共同体の生活をかたちづくるものであった。」

モーヴィンケルによれば「詩篇こそが水の湧き出る井戸そのものだったのであり、預言者たちの言葉はこの祈りと礼拝から現れたものなのである。」

「つまり、イスラエルの共同体が集って祈りをささげる時に、その言葉、その声、その原動力を与えたのは詩篇そのものだったのであり、詩篇こそが預言者たち、「知恵文学」の人々、歴史書の著者たちを生み出し、それらを形づくったのである。」

結論は次の通りである。

「まず詩篇が最初に存在したのであって、預言者たちはそのあとに続いたのである。祈りという内面的な行為が宣教という外的行為に先行するのである。」

私の関心であるキリスト教の霊性とは単にキリスト者の内面の在り方ではなく、宣教に限らず、キリスト者の生活全面に渡ることがらである。

そのような前提に立った上で、内面が外面に優先するというピーターソンの示唆は注目に値する。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 伝道者の書12:13

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