偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?
偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか? という興味深い問いに出会った。 (プラシーボ効果についてはhttp://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.htmlなどを参照)
以下は上記の興味深い問いに対して試みた、現時点での私の試論である。
聖書が偶像礼拝について批判している理由の一つは、偶像礼拝によって、礼拝者である人間も、また礼拝の対象である神も矮小化されてしまうからである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。
詩篇115:5-8
偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。
イザヤ44:9
次に聖書の主張する、まことの「神」である「主」以外に、絶対的な権威者として仰ぐべき存在はないということについて。
主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
詩篇95:3
つまり聖書は「主」であるヤハウェのほかに「神々」と呼ばれるものが存在することは認めている。しかし、この「神々」をどのような存在として理解するのかについては多くの議論があるが、ここでの関心は、この点についての詳しい議論ではない。
上記の点を踏まえた上で、果たして偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?という問いについての私の考えを述べる。
『人は神に向けて造られており、人の心は神に憩うまでは安らぎがない』
アウグスティヌス著「告白」より
『人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何者をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる。』
パスカル「パンセ」より
これらの先達の言葉から、人間は真実の神を見出して心が満たされるまでは、普遍的に偶像を必要とする存在であると私は考える。
あるジェームズ・フーストンは、その著書『心の渇望』の中で、偶像礼拝は「誤った願望により生じる結果」であると言っている。ここでいう「誤った願望」とは、真実の神によって満たされるべき空洞を、別のもので満たそうとする「願望」であると私は解釈している。フーストンは同じ著書の中で、有名な心理学者のユングの「その神々は死なない」という言葉と、預言者エゼキエルが「神々」を「糞」と呼んだことを引用して、偶像の持つ「汚す力」の危険性を指摘している。
つまり、聖書は「偶像礼拝の無意味さ」だけでなく「危険性」も語っているのである。
さらにフーストンは「神々」が「礼拝を受ける時に現実の力に」なることを指摘している。
その「力」とは「人はマモン(金銭欲の象徴である偶像)のように固く金属的になったり、エロースのように柔らかく官能的になったり、サタンのように残忍で邪悪になったりしうる」というものである。
これを私なりに解釈すると、人はその信じる偶像に似たものとなるということである。そしてその法則は、偶像の「神々」が実在するかどうかに関わらないのだと私は考える。
それは例えば、アイドル(まさに偶像を意味する言葉である)やロックバンド、或いは歴史上の偉人や身近な尊敬する人物に熱狂的になる人々は、その外見や性格、嗜好など、その全人格に渡って、その熱狂する対象に影響を受ける。そしてそれは、その熱狂の対象が空想上の人物(例えばマンガや物語、映画の登場人物)であってもなんら変わりはない。そしてその結果は、ある時には、その人々に、生活上の成功経験(例えば、友人に尊敬されたり、仕事上の成功をもたらしたり、地位や名声を与えたり)をもたらす。この成功経験は、ある意味では熱狂から来る「御利益」であると考えて良いと思う。勿論熱狂は、逆に破壊的な影響をもたらすこともある。
以上の「熱狂による成功経験」の現象が、キリスト教以外の宗教において観察できる場合、これをある意味においては「偶像礼拝におけるプラシーボ効果」であると言って良いのではないかと私は考える。
これに加えて、「逆説的なプラシーボ効果」として、祈願に応じて子宝を授かることや、病の癒しなどの、実は原因は他の所にある現実の現象を、偶像礼拝者本人が、それを本人の信仰の結果だと思い込む場合があるのではないか、また、この「逆説的なプラシーボ効果」には異教的な文化における「たたり」や「呪い」、「神罰」などが含まれるのではないかとも私は考える。
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