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仏教とキリスト教の対話について

あらゆる意味での「対話」こそが、このブログのテーマであるため、今回はこのような記事を書いてみた。

昨日『キリスト教信仰和賛』解説の記事を書くに当って、久し振りにその出典である秋月龍珉 著/編 『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』を開いた。

その「まえがき」は次のような文章で始まっている。

「今世紀最大の歴史家と言われるイギリスのトインビー博士は、ある有名な講演を結ぶに当って、次のようなことを言っている。「千年後に人類の歴史を書こうとする学者が、我われの二十世紀という世紀をどのような時代として位置づけるであろうか。ある国で共産主義者と自由主義者とが争っていた、というようなことは、あまり問題にならないに違いない。そのとき問題になるのは、二十世紀の後半になって、人類は、西洋と東洋と、キリスト教と仏教とが、初めて対話ができるようになって、そこに互いに相浸透しあう何ものかを発見した、と言うことであろう」。東洋と西洋と、仏教徒とキリスト教徒とが対話して、お互いに通じあう、今までより深い人間性(=真人)を発見した、そしてそれが、その後の千年間の人類を導く基本思想になる、という予感が、あるいは期待が、トインビー博士の心の中にあったのに違いない、と私は思う。」

著者である秋月龍珉氏が一体どのようなものを思い描いて「今までより深い人間性(=真人)」という言葉を用いたのかまでは、私には知る由もないことであるが、私は「仏教徒とキリスト教徒とが対話」することについては、トインビー博士と秋月氏の両氏と同様に期待と希望を持つ者である。

そして対話については、秋月氏の「対話を可能にするのには、少なくとも、同じ神が、違った文化伝統の中で異なった仕方で、みずからを全人類に啓示しているという可能性を認めなければ、いくら善意の対話に努めても、真の対話にはならない。」という意見に全面的に賛同をする。

ここで私の考えとして、はっきりと述べておきたい点は、他の宗教に関心を持ち、真剣に研究することは、自分の信仰が二つ、或いはそれ以上の複数の宗教の折衷した、これまでとは別の「異なる信仰」になることでも、またはどちらか一方だけが「絶対的な真理」であり、一方は必ず退けられなければならないようなものでもないということである。

同時に、非常に残念なことではあるが、上述のような混乱に陥る人々が、世の中には非常に多く見られるようにも私には思える。

ここで『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』に引用された吉田清太郎牧師自身の言葉を引用したい。

「魚木君(著者である秋月氏が吉田師を訪ねるきっかけとなった『日本キリスト教の精神的伝統』(教文社刊)の著者である魚木忠一(同志社)教授)は私をまったく禅宗坊さんにしてしまったが、私はどこまでもクリスチャンです。中略、、また、私が蛾山和尚に参禅したことは大いに私の信仰のために力になった。和尚に参禅しなかったら、今日の私のこの境涯はなかったろう」

吉田師のこの言葉に現れている、自身のキリスト教信仰に確信を持ちつつ、謙遜に禅(仏教)を学んだ先達としての姿に、倣いたいものであると私は願っている。

仏教とキリスト教の対話については、もう一人、日本を代表する神学者であり、私が敬愛してやまない信仰の先達、北森嘉蔵師の代表的な著書『神の痛みの神学』(講談社学術文庫)の中にも見られるのであるが、ここでその内容を取り上げることは、現在の私の手に余るため断念するが、この『神の痛みの神学』は「わが国の仏教学界」の側からも好意的に受け入れられたことは最後に付しておきたい。

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独白ではなく、対話として・・・」カテゴリの記事

コメント

私も賛成いたします。

私もクリスチャンであり、「私にとって」の神はイエス・キリストだけですが、親鸞をはじめ、尊敬する、仏教徒の方々は大勢おられます。

わたしの最初のミクシィの写真はなんと、良寛和尚の写真でした。(笑)

トイフェルスドレックさん、これからも卓越した文章おねがいたします。

投稿: びすこコーロギ | 2009年2月 9日 (月) 08時40分

そうか、和洋折衷の融合文化は21世紀の産物ではなく
すでに20世紀後半には始められていたんだな。然るに今の時代は競争原理の規制緩和の影響のためか宗教や思想も皆似たり寄ったりなことをしていると聞く。例えばある仏教の宗派は葬儀中、会葬者に説法を施しているらしい。これも信者獲得のため背に腹は変えられない様子。

対話とは「双方が相向き合って話をすること」とある。斜に構えることでも、相手の良点を盗むことでもない。そこで秋月氏の「対話を可能にするのには、少なくとも、同じ神が、違った文化伝統の中で異なった仕方で、みずからを全人類に啓示しているという可能性を認めなければ、いくら善意の対話に努めても、真の対話にはならない。」という言葉が生きてくる。
相容れない者同士が向き合う。かつて中世の時代に神学者たちがお互いに論駁し合っていた。文化や思想を超えて対話できることも神の恵みなのかもしれない。一般的な言葉ならば幸いなことなのかもしれない。公同の教会とはまさに“相容れない者同士が向き合う”ところに兆しを感じずにはいられない。稚拙な長文で申し訳ない。

投稿: NoB' | 2009年2月 9日 (月) 09時25分

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