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キリスト者の霊性と詩篇と祈りについて

E・H・ピーターソンはその著書『牧会者の神学』の第1章を「祈り」に当てている。

以前「プロメテウスは祈らない 」という記事で紹介した物語は、その章から引用したものである。

今回は、その同じ第1章から「詩篇」についての記事を紹介したい。

その記事において、ピーターソンは、啓蒙主義の影響からユリウス・ヴェルハウゼンによって行われた「聖書の歴史的研究」の結果、「ヘブライ人の祈りの集大成である詩篇」が「聖書における中心的な重要性を失い、歴史の片隅に追いやられることとなった」ことを批判している。

そして「ヴェルハウゼンの時代に至るまで、詩篇は祈りにおけるヘブライ人の大胆かつ厳格な姿を示すものとして、救いを与えたもう神へ応答するための中心的な部分とみなされて」おり、「人々は非常な真剣さと大きな喜びをもって詩篇を取りあげたものであり、それは最高の聖書注解者たちを魅了してきた」こと、また「詩篇は礼拝全体と信仰に生きる人々の経験するあらゆる次元の出来事を表現する言葉を提供するもの」であり、「あらゆる聖書の物語の中でも、詩篇ほど、微に入り細をうがって人間のさまざまな側面を描きだしているものはない」ことを指摘している。

ここでの私の関心は啓蒙主義がキリスト教神学に対してもたらした影響を批判することではなく、キリスト者の霊性に対して詩篇と祈りの持つ重要性を明らかにすることであるため、『牧会者の神学』からヴェルハウゼンについて引用するのは、次の一文で終えることとする。

「だが、やがてヴェルハウゼンの解釈が決定的なものではないことが明らかにされる時がやってきた。」

それはノルウェーの研究者であるシグムント・モーヴィンケルによる「比較宗教学の分野で」行われた「古代チュートン民族の礼拝研究」によって明らかになったことをピーターソンは指摘している。

そしてピーターソンは次のように続ける。

「チュートン民族の祈りを研究していく中で、モーヴィンケルはヨーロッパの原始社会では共同体における祈りが、そこで行われる他のすべてのことがらに対する規範的な役割を果たすものであったことを理解した。」すなわち、「人々が礼拝に集まって祈りに加わる時、その行為はいいかげんなものでも末梢的なものでもな」く、「それは彼らにとって根源的な行為であり、劇的な行為だったのである。」

以下はモーヴィンケルの言葉である。

「それ(祈り)は社会の全体を力強く包容する行為であって、さまざまな理念を形成し、もろもろの価値観を教えるとともに、その共同体を一つにまとめあげるきずなとして働いたのであった。」

ピーターソンはさらに続ける。

「祈りは人格に密着したものであるとともに、歴史と文化における共同体の生活をかたちづくるものであった。」

モーヴィンケルによれば「詩篇こそが水の湧き出る井戸そのものだったのであり、預言者たちの言葉はこの祈りと礼拝から現れたものなのである。」

「つまり、イスラエルの共同体が集って祈りをささげる時に、その言葉、その声、その原動力を与えたのは詩篇そのものだったのであり、詩篇こそが預言者たち、「知恵文学」の人々、歴史書の著者たちを生み出し、それらを形づくったのである。」

結論は次の通りである。

「まず詩篇が最初に存在したのであって、預言者たちはそのあとに続いたのである。祈りという内面的な行為が宣教という外的行為に先行するのである。」

私の関心であるキリスト教の霊性とは単にキリスト者の内面の在り方ではなく、宣教に限らず、キリスト者の生活全面に渡ることがらである。

そのような前提に立った上で、内面が外面に優先するというピーターソンの示唆は注目に値する。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 伝道者の書12:13

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