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真理は寒梅の似(ごと)し

今年も梅の咲く季節となった。

今回のテーマは私の座右の銘の一つともいえるもので、同志社大学(前身は同志社英学校)の創立者新島襄の言葉である。

真理は寒梅の似し
敢えて風雪を侵して開く

(しんりはかんばいのごとし
あえてふうせつをおかしてひらく)

この句はもともとは「真理似寒梅 敢侵風雪開」という漢詩であり、現在の同志社大学のキャンパスの礼拝堂近くの「寒梅碑(かんばいひ)」と呼ばれる碑に刻まれている。これは、卒業生で、後に日銀総裁にもなった深井英吾に書き贈った詩であるとされている。

実は新島襄の「寒梅の詩」と呼ばれるもう一つの漢詩がある。

庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁

庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)
笑って風雪を侵(おか)して開く
不争(あらそ)わず又力(つと)めず
自(おのずか)ら百花の魁(さきがけ)を占(し)む

庭先の一本の梅の木、寒梅とでも呼ぼうか
風に耐え、雪を忍び
笑っているかの様に、平然と咲いている。
別に、争って、無理に一番咲きを競って
努力したのでもなく、
自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。

これは新島襄の晩年の作と言われているが、私はこちらの「寒梅の詩」を先に知った。

この詩には後に曲がつけられ、同志社学生混声合唱団設立の端緒となっている。またこの詩は、詩吟として吟じられることもあり、多くの人々に愛されている。

私がこの詩に最初に出会ったのは、神学校の卒業式であり、ある先生が祝辞の中でこの詩を吟じて下さった際、非常に感動したことを今も覚えている。

ところで、上の二つの詩句を比較するとすぐに分かることであるが、二つの詩は「侵風雪開」という共通する詩句を持っているいわば、お互いに深い関わりを持った、兄弟或いは姉妹のような詩であり、少なくとも私はそのように理解している。

詩として私が特に好むのは最初に出会った「寒梅の詩」であり、どこかでそう聞いたからそうなのか、私の思い込みかは定かではないが、「庭上一寒梅 笑侵風雪開」を「庭上の一寒梅 風雪に笑う」という訳で諳(そら)んじており、この「風雪に笑う」という雰囲気が非常に気に入っている。

また、「寒梅碑」の詩では「敢えて」風雪を侵すのであるが、「寒梅の詩」では「笑って」それをするのである。

これは私の想像であるが、「寒梅の詩」が晩年の作であるということから、この変化に、新島襄の「真理」についての理解の深まりがあるのではないかと考えている。

ところで、新島襄は熱心なキリスト者であり、またキリスト教の布教者でもあったことは周知のことがらであるから、ここでの「真理」とは、究極的には聖書の真理、キリスト教の真理であると私は考えている。

そこで上述の「真理」についての理解の深まりということについてであるが、私の考えでは、「寒梅碑」の詩を読んだ時点での新島襄にとっての「真理」とは、どんな事情が在ろうとも変転させずに堅く守るべきものであり、それを曲げようとする「風雪」のごとき外圧に対しては、敢えてそれを侵して断固として守るべきものであったのだと思う。また、私の考えるキリスト教的真理とは、いつの世の時代の精神や常識に対しても、常に全く対抗するラジカルな価値観を主張するものであるから、当然世の厳しい風雪に晒されることとなる。したがって、私は、この「寒梅碑」の詩の真理についての教説に賛同するものである。

同時に、新島襄の晩年の作と言われる「寒梅の詩」には、さらに深い共感を覚える。

「寒梅の詩」を、「寒梅碑」の詩における「真理」との関連で解釈するならば、次のようなものであろうと私は考える。

寒梅が風に耐え、雪を忍び、笑っているかのように、平然と咲いている。しかもそれは、争って、無理に一番咲きを競って努力したのでもなく、自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。真理とはまさにそのようなものであり、真理は真理である故にあらゆる非難や誤った考えに晒されようとも、定まったときには自然に明らかにされるのである。しかもそれは論争や努力によるのではなく、真理そのものの性質の故にである。

新島襄にとっての真理、即ちキリスト教の真理とは、そのまま神そのものとも、イエス・キリストご自身と読み替えて良いものであると私は考える。

キリスト教の真理を知るというのは、神を知ることであり、即ちそれはイエス・キリストを知ることである。

また真理である寒梅が百花の魁となるイメージから、私は聖書の次の言葉を思い浮かべる。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。 箴言9:10

主、即ち神を恐れ、聖なる方を知ることこそ、キリスト教的には真理を知ることである。この真理を知ることは、百花と譬えられるような、この世のあらゆる知恵と悟りにさきがけてどうしても必要なことであると、この箇所から教えられる。

また最近の私の関心である「仏教とキリスト教の対話について」という観点から、沢庵和尚が柳生但馬守宗矩に書いて与えた「剣禅一致」極意書と言われる『不動智神妙録』から次の一文を紹介したい。

「如何なるか是れ仏法の極意」と問わば、その声未だ絶えざるに、「一枝の梅花」なりとも、「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりとも言ふべし。

新島襄は上州安中藩の藩士の子、つまりは武士の子であるから、あるいは上述のような沢庵和尚の書にも接していたのではないかと思う。もしそうであれば、「寒梅の詩」は、またさらに意味深いものとして響いてくる。また、たといそうでなくとも、真理を寒梅に譬えた新島襄と、仏法の極意を「一枝の梅花」或いは「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりと著した沢庵和尚の書の驚くばかりの一致に、まさに真理は「寒梅の詩」に表現されているとおりに、自ずから明らかになるものであると、改めて思わされる。

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