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二つながら神から与えられているもの

以下は3月16日(月)の岐阜新聞に掲載されたコラム『分水嶺』の記事である。

梅から桜への間にも、いろんな花が春の訪れを伝えている。わが家の小さな庭でも沈丁花(じんちょうげ)が満開を迎えた。華やかさよりは香りで知られるが、花もなかなか面白い。つぼみのころは少し紫がかった赤色で、開花とともに白が広がる。花弁の外側は赤でも内側は白。外側を隠すように開花は進むので、全体の色も赤から白へと変化する。そんな紅白の対照が楽しい沈丁花だが、目を射るばかりに鮮やかなのは連翹(れんぎょう)の黄色だ。春がすみの中にあっても、つるのように長い枝を揺らしつつ、春の眠りをむち打つような原色の黄色を放っている。「日本大歳時記」にこの二つの花にちなんだ句があった。《部屋空(うつ)ろ沈丁の香のとほり抜け 池内友次郎》《連翹のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎》。俳人たちは「部屋空ろ」や「うれひかな」と、喜びあふれるはずの春の風物を前に憂愁の思いも感じている。だが、そんな春の愁いをいち早く見いだしたのが万葉歌人だったことに驚かされる。《うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば 大伴家持》。歌人でもあった国文学者折口信夫は《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》と、家持の鋭敏な感性と時代を超えた普遍性を指摘している。明と暗、歓喜と憂愁。古今の詩人たちは日々の生活だけではなく、自然の営みにもそれをくみ取っていたようだ。

この記事を読んで、私も、大伴家持のような《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》でありたいと改めて考えさせられた。

明と暗、歓喜と憂愁、これらは確かにはっきりとした境界線を持たずに、私たちの生活に混在する。

明と暗、歓喜と憂愁。或いは、私たちはその間に生きているということもできよう。

私は私という人格について、聖と俗の狭間に生きる「ひとりの人」であると考えている。

同じように私は明と暗の狭間、歓喜と憂愁の狭間に生きる「ひとりの人」でもある。

明と暗、歓喜と憂愁。これらは私にとって、いずれも、二つながら神から与えられているものである。

わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。 イザヤ45:7

神から与えられるものは全て感謝して受けるべき恵みであると考えるべきである。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 Ⅰテモテ 4:4

今、我が家の庭では、水仙(すいせん)が花盛りであるが、雑草も伸び盛りである。

水仙は春の訪れという歓喜を私にもたらし、雑草は労苦して草むしりに励まなければならないという憂愁を私にもたらしたわけである。

主の御名をほめたたえつつ、二つながら感謝して受けよう。

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独白ではなく、対話として・・・」カテゴリの記事

コメント

主のアーティストですね~☆(・∀・)イイ!

投稿: ccn+ | 2009年3月18日 (水) 23時19分

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