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2009年3月

春爛漫に神を知る

このところ急に暖かくなり、一気に春めいてきた。

ちょっと散歩に出かければ、正に春爛漫、百花が咲き乱れており、陳腐な言葉ではあるが、今更ながらに自然の美しさに驚嘆する。

特に私の目を惹くのが白い花々と黄色い花々である。

白い花と言えば、雪柳(ユキヤナギ)や小手毬(コデマリ)、白木蓮(ハクモクレン)など。

黄色い花では連翹(レンギョウ)やミモザ、そして何と言っても私の故郷の菜の花畑を思い出させるアブラナが私の心を捉えて止まない。

花々は、明るく優しい春の光の中で、自らの命の輝きを鮮烈に放っている。

次のようなイエス・キリストの言葉が真実であることを、改めて気づかせられる思いである。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 マタイ 6:29~30

また花々を見ていて、気がついたことがある。

花々は日の光に照らされ、風に揺られている瞬間に最も活き活きと、その命を輝かせているように私には感じられたのである。

ヨハネはイエス・キリストを「すべての人を照らすそのまことの光」であると証言している。

また主イエス・キリストご自身が、自ら「わたしは、世の光です。」と証言しておられる。

光とは命を輝かせるものであると私は考えている。

命を輝かせるとは、その命が持っている性質を最大限に引き出すということではないだろうか?

光の中で、雪柳はより雪柳らしく、連翹はより連翹らしく、人間はより人間らしく、その命を輝かせることができるのではないだろうか?

もっと言えば、イエス・キリストという光に照らされて、私という人格は、他の誰とも違う、より自分らしい自分になれるのであると私は考える。

自ら「わたしは、世の光です。」と証言しておられるその同じお方が「あなたがたは、世界の光です。」と、私たちキリスト者について証言しておられる。

ここから私は、私たちキリスト者は世界中の人々が、自分らしい自分になれる世界を実現するために世に生きているのだと考える。

ここで、同じように風についての聖書の言葉にも思いを巡らせてみる。

旧約聖書の多くの箇所において、風は、神の命、神の力、神の働きの象徴とされている。

神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。 創世記 8:1

あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。 出エジプト 15:10

数え上げれば切りがない。

そしてイエス・キリストは風を、神の霊すなわち聖霊の象徴として用いた。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。 ヨハネ 3:8

ここから、風もまた命を輝かせるものであると私は考える。

春爛漫を愛でつつ、聖書の言葉に思いを巡らせたとき、神がご自身を自然の中にあらわされるお方であることを改めて知った。

今日私にあらわされたのは、春爛漫の力強くも優しい自然であった。

しかし、私たちが経験として知っている通り、自然は優しいだけではない。

自然は人間に支配されるものではなく、殺し、壊し、奪うという恐るべき力をも持っているものである。私たちは、この自然を創られた神は、それ以上に恐るべきお方であることも忘れてはならない。

私たちにとって幸いなことは、神は自然とは違い、人格あるお方であり、そのご人格は、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる」ということである。

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二つながら神から与えられているもの

以下は3月16日(月)の岐阜新聞に掲載されたコラム『分水嶺』の記事である。

梅から桜への間にも、いろんな花が春の訪れを伝えている。わが家の小さな庭でも沈丁花(じんちょうげ)が満開を迎えた。華やかさよりは香りで知られるが、花もなかなか面白い。つぼみのころは少し紫がかった赤色で、開花とともに白が広がる。花弁の外側は赤でも内側は白。外側を隠すように開花は進むので、全体の色も赤から白へと変化する。そんな紅白の対照が楽しい沈丁花だが、目を射るばかりに鮮やかなのは連翹(れんぎょう)の黄色だ。春がすみの中にあっても、つるのように長い枝を揺らしつつ、春の眠りをむち打つような原色の黄色を放っている。「日本大歳時記」にこの二つの花にちなんだ句があった。《部屋空(うつ)ろ沈丁の香のとほり抜け 池内友次郎》《連翹のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎》。俳人たちは「部屋空ろ」や「うれひかな」と、喜びあふれるはずの春の風物を前に憂愁の思いも感じている。だが、そんな春の愁いをいち早く見いだしたのが万葉歌人だったことに驚かされる。《うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば 大伴家持》。歌人でもあった国文学者折口信夫は《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》と、家持の鋭敏な感性と時代を超えた普遍性を指摘している。明と暗、歓喜と憂愁。古今の詩人たちは日々の生活だけではなく、自然の営みにもそれをくみ取っていたようだ。

この記事を読んで、私も、大伴家持のような《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》でありたいと改めて考えさせられた。

明と暗、歓喜と憂愁、これらは確かにはっきりとした境界線を持たずに、私たちの生活に混在する。

明と暗、歓喜と憂愁。或いは、私たちはその間に生きているということもできよう。

私は私という人格について、聖と俗の狭間に生きる「ひとりの人」であると考えている。

同じように私は明と暗の狭間、歓喜と憂愁の狭間に生きる「ひとりの人」でもある。

明と暗、歓喜と憂愁。これらは私にとって、いずれも、二つながら神から与えられているものである。

わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。 イザヤ45:7

神から与えられるものは全て感謝して受けるべき恵みであると考えるべきである。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 Ⅰテモテ 4:4

今、我が家の庭では、水仙(すいせん)が花盛りであるが、雑草も伸び盛りである。

水仙は春の訪れという歓喜を私にもたらし、雑草は労苦して草むしりに励まなければならないという憂愁を私にもたらしたわけである。

主の御名をほめたたえつつ、二つながら感謝して受けよう。

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慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 Ⅱコリント1:3

今この瞬間も、世界中の多くの人々が慰めを必要としている。

ほんの少し想像力を働かせれば、人類の歴史は常に大いなる慰めを必要としていたことが、誰にでも分かるに違いない。

世界は苦難と悲しみが溢れていて、私たちはいつでも大いなる慰め主を必要としている。

そして聖書は神こそが偉大な慰め主であると証言している。

神は完全なお方であるから神が慰め主であるというとき、それは完全な慰め主を意味する。

私たちには他者の苦しみに対する想像力と、理解によって慰めの言葉を語ることが、確かに可能である。

苦しむ人々も、その慰めの言葉から、確かにある程度の慰めを受けるであろう。

しかし、慰められる者は、自分の苦しみは完全には理解されていないであろうことを知っている。そしてそれは自己憐憫による誤解などではなく、事実である。

私たち人間に、他者の苦しみや痛み、辛さを完全に理解することなど不可能である。

しかし完全な慰め主である神は、禅者牧師と呼ばれた吉田清太郎の言葉を借りれば、「天と心に住む神」であるであるから、私たちの心の隅々までを理解することが可能である。

そればかりか神は私たちの心と身体を創られた方なので、全てのことを知っておられる。

完全な慰め主は、自らがその慰める対象と同等の苦しみ、悲しみを経験していなければならない。

必要なのは経験であって、想像力や理解ではないと私は考える。

なぜなら私たちは、たとえそれがどれほど慈愛に満ちた言葉であろうとも、苦しみの経験を持たない者の慰めを受け入れないからである。

涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味は分からないというゲーテの言葉を、私たちは真実として受け入れる。

私たちの神は、人類の歴史の只中に、ナザレのイエスという一人の人間として入り込み、まさに「涙とともにパンを食べた」お方であり、さらには信頼していた友に裏切られ、誰からも見放され、その十字架の苦しみの極みの中で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」とまで叫ばれたお方である。

このように人間の苦しみを極みまで経験されたお方であるから、私たちはこの方の慰めを受け入れることができる。

私たちはそのような完全な慰め主を絶えず必要としているはずである。

慰められる者が神によって慰められるために、どうしても必要なことがただひとつある。それは、神が人間の苦しみを極みまで経験された、まさに完全な慰め主であることを知ることである。

この事実を心から理解し、その神が今も生きて私たちを愛しておられることを知ったとき、私たちはすでに完全な慰めを受けているのである。

また世界が現実に慰められるためには、慰め主には力がなければならない。

世界は病み、呻いている。

しかしここでも私は世界を構成する一人ひとりの人格的な人々、個人に目を向けたい。

一人ひとりの人格を完全に救済する力こそ、世界を慰める力であると私は確信する。

そして「ひとりの人」を完全に救済する神の力は、聖書においては「死者をよみがえらせる」という言葉で完全に表現されている。

そして聖書は、神がイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのと同じように、私たちをよみがえらせてくださると約束している。

私たちの希望は、この主イエス・キリストの復活にこそあるのである。

また私はこれまでの人生においてひとつのよみがえりを経験している。

それは私がイエス・キリストを神として受け入れキリスト者となったという経験である。

これは今のわたしにとっては、「死んでいたのが生き返った」のと全く同じ意味を持っている。

イエス・キリストが語った有名な放蕩息子のたとえ話は、私にそのことを確信させるのに役立つ。

「絶望は死に至る病である」と書いたとき、キェルケゴールは唯一の救いであり、慰めである神を見上げていたのだと私は確信している。

慰められるとは、人が絶望の中で希望を見出すことであると私は考える。

聖書が語る「慈愛の父、すべての慰めの神」を知るとき、私たちには永遠にまで続く希望がある。

このことを覚えるとき、最初に引用した聖書の言葉は、私たちの心からの祈りになる。

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

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天の父が完全なように、完全でありなさい。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 マタイ5:48

この言葉は「心の貧しい者は幸いです。」という驚くべき言葉から始まるイエス・キリストの有名な説教である山上の説教のなかで語られたものである。

天の父とは父なる神である。イエス・キリストはその神が完全であるように、私たちも完全でありなさいと仰った。果たしてイエス・キリストは私たちに不可能な重荷を無理矢理に負わせるようなお方であろうか?

それとも、ある憐れみ深い牧師がかつて私に語ったように、このような聖書の中の達成不可能と思われるような命令は、私たちの不完全さを示し、謙虚と謙遜を与えるために、達成不可能であることを前提に語られているのであろうか?

以前は私はそのような理屈にも納得していた。そしてそのように考えることは確かに私の信仰生活に少なからず良い影響をもたらしてもいる。

私は自分の限界を知り、主イエス・キリストのようにはなれない罪深く弱いものであるからこそ、主の前にへりくだり、赦された罪人としてだけではなく、今も赦され続けている罪人として、それでも「わたしについて来なさい。」と仰ってくださる主の憐みによって、主と共に歩むことができる今を喜んでいる。

しかし、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というこの言葉が、主イエス・キリストの言葉である以上、私はこの言葉に真剣に取り組まないわけには行かない。

ここでイエス・キリストの仰られた父の完全さとは一体何を意味しているのであろうか?

当然考えられることは、神が全知全能であるように全知全能であれという意味ではないということである。

文脈から考えれば、ここでの完全さとは、愛における完全さである。

ここでもやはり愛である。

神は、そして主イエス・キリストは、徹底して人間に愛を求めている。

愛についてこの文脈で強調されていることのひとつは、自分の敵を愛することである。

「汝の敵を愛せ」

キリスト教の愛の奨励において最も有名なものが、この敵をも愛する愛である。

このような愛は自然の人間の感情に反するし、実現が不可能であるように思われる。

この愛の奨励と対になって、よく教会の説教において語られる言葉が「愛は感情ではない」というものである。

この言葉によって表現したいことは私にも理解できる。「愛は行為である」とか「愛は決断」であるとか、たとえ感情的に目の前の敵を愛することができないとしても、その敵を赦す決断をするとか、さらにはその敵が窮地に立っているとしたら、その窮地から脱するために積極的に力になるということを奨励しているのである。

このような奨励が実現されたとき、それはまさに敵をも愛する愛であると言えよう。

そして驚くべきことに(私は本当に驚いているし、この記事の読者にも心から驚嘆して欲しいのであるが)教会の歴史の中で、このような愛は度々実現されている。

しかし、敵をも愛する愛が、神の愛の完全さと等しい完全さとして奨励されるとき、その愛に感情が伴っていないとは私にはどうしても思われない。

感情という言葉が人間の罪性を連想させる言葉であるとすれば、別の言葉を用いる必要がある。

神の愛は、心からの愛、さらに相応しい言葉で言えば、全人格的な愛なのではないだろうか?

聖書の神、即ちキリスト教の神は人格的な神であると言われる。そしてその人格とは愛そのものである。そのような神が、その存在の一部においては敵を憎みながら、決断において、或いは行為においてのみ愛するということをなさるだろうか?

そうとは考えられない。そのような愛は完全な愛ではないからである。

私たちは神ではない、弱く罪深い人間である。それはイエス・キリストの福音に出会い、そのイエス・キリストへの愛と信仰を持ったキリスト者になっても完全には変わらない、或いは信仰を持ったことにより、それ以前よりもより深く自分の弱さと罪深さを発見する、そのような者である。

そんな私たちはあらゆる社会生活において敵と対峙したとき、選択を迫られるのである。

敵を敵として憎むか?それとも愛するか?

敵を憎むことを選ぶのも、簡単なことではない。敵を憎めば、その憎しみが私たちを縛る鎖になるからである。それはキリスト者でなくとも経験的に理解していることではないだろうか?

それでは敵を愛するのはどうか?

私は感情にはよらない、決断においてこの敵を赦そうと考えることは、ある意味では憎み続けることを選択するよりもたやすいことのように私には思われる。

もちろん私個人が全ての敵に対してそのように行うことが出来るという意味ではない。

人間はどちらがたやすいかによって自分の行動を選択するのではなく、そのときの気分によって選択するのだと私は考える。

そして気分は良く変わるものである。

そこで、大切な選択をするときには、気分を追いやる必要があると私は考える。

その気分を追いやる方法を聖書は提供していることを私は知っている。

それは沈黙、「神である主の前に静まれ。」という言葉である。

主の前に沈黙するためには、私は自分の全ての仕事を一切止めなければならない。

この神の前での沈黙によって、私たちは敵を愛することを決断することができるのだと私は信じている。

しかしそれはまだスタートであってゴールではない。

ここから「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というイエス・キリストの言葉が心に迫ってくる。私は完全な愛を追い求めなければならないのである。

そして祈りが生まれるのである。

祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ。  キェルケゴール

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 Ⅱコリント 3:18

祈りは御霊なる主の働きの中でも最大のものの一つであろう。

そして御霊なる主は、私たちが自分の仕事を止めて主の前に静まるときに最も力強く働かれる。

残念なことは、私は完全に困窮するまでは自分の仕事を止めないことである。

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なぜ自分は書物を書くのか?

スイスの精神科医ポール・トゥルニエがその著書『人生を変えるもの』の序文で、この問いについて書いている。

そこにはこの同じ設問についてのパリ生まれのアメリカ人女性アナイス・ニンの言葉が引用されている。

「人が書物を書くのは、自分が住みやすい世界を作るためである」

そして、トゥルニエにとっての住みやすい世界とは、「人間同士の間に誠の触れ合いが存在する世界すなわち、互いに心を開くことができ、互いにこうして真実の自分自身になるために助け合うことができる世界」であると書かれている。

私がこの場で記事を書く動機も、恐らくこの二人の先達と同じである。

自分が住みやすい世界、そしてそれは誰にとっても住みやすい世界でなければならない。

トゥルニエが語る住みやすい世界とは、今の私の言葉で表現すれば、全ての人々が人格的な「ひとりの人」すなわちパーソナルな存在として自覚を持ち、しかも尊重される世界である。

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愛がなければ、何の役にも立ちません。

タイトルは有名な聖書の言葉であるが、今日はこの言葉についての黙想をここに記すことにしたい。

聖書の別の箇所には「愛は神から出ているのです。」「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉が書かれている。

そこでこの聖書に土台を置くキリスト教が、愛の宗教であると言われるのは至極当然のことであると思う。

しかしこのことはキリスト者である私にとっては非常に重い意味を持つことになる。

なぜならば、上述の前提に立てば、全てのキリスト者は愛の人であるか、或いは少なくとも愛の人たらんと努力しているのでなければならないのではないかと、私は考えるからである。

ある人々に言わせれば、それは自分で努力するのではなく、神様にして頂くのであるということになろう。

私もその意見に全面的に賛成であるし、私の理解では、聖書もそのように示唆している。

しかし、それを理解したうえでも、私には、この愛の問題は大きな問題なのである。

愛とはいったいなんなのであろうか?

「人類愛」という言葉がある。

「愛は世界を救う」という有名な標語がある。

だれもが愛とは、素晴らしいものであると認めているし、多くの文学者や芸術家たちが、愛が人間の本質的な感情のひとつであり、人間の行動、或いは人間存在そのものを、より高い次元に引き上げるものであると見做している。

上の意見にも私は賛成である。確かに愛は、人間の行動や人間存在を、より高い次元に引き上げるものであろう。

しかしそのような愛が、いったい私のような単なる一人のキリスト者の日常生活のどこに在るのだろうか?

そこで私はいつものように聖書に答えを求めるのである。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 Ⅰコリント13:4~7

聖書による愛の説明はこうである。

私にとっての信仰とは真剣さであるから、この愛の説明にも真剣に向かい合いたいと思う。

この中で語られている一部のものを、私は微少ながら持っていると言っていいかも知れない。

私は人々に寛容でありたいと、絶えず望んでいる。同じように、人々に親切でありたいと望み、礼儀に反することは極力ないように努めているつもりである。そして何よりも真理を喜ぶものでありたいと願っている。

そしてこのような自分を、キリスト者として誇りに思う自分が、私の中に確かにいるのである。

これは高慢と言えるのではないか?

また、怒らず、人のした悪を思わずということも、私に難しい。これは個人的な恨みや憎しみについてもそうであるが、公の正義についても言えることである。いったい公の正義が踏みにじられる時に、怒らずにおられるであろうか?

不正を喜ばずという言葉は、不正を憎むという言葉とは、全く別の意味であるように私には思われる。

真剣に考えれば考えるほど、私の中に聖書が示すような愛はないことが、ありありと理解されてくる。

しかし、聖書は神を愛し、互いに愛し合うように、それどころか敵をさえも愛すように命令しているのである。

そしてそれは、私にはとうてい不可能であると考えられることが時々ある。

愛がなければ、何の役にも立ちません。

この言葉に、私は心から賛同する。

そこで、私には愛がないと感じる時に、私は何の役にも立たない者であるとも感じているのである。

しかし、別の時の私は、愛の人でありたいと心から願い、神に祈り、努力しているのも事実である。そしてそれは、誰のためでもない、自分自身のためなのである。

それはこういうことだ。

私は、もし上述の聖書の言葉にあるような愛を持った人間がこの世にいるとしたら、その人がこの上も無く幸福な人間であることを確信しているのである。

そこで私は、今この瞬間も、私自身の幸福のために、愛の人でありたいと願っているのである。

私は正直に言えば、私と私の家族、そして私の愛する人々の幸福を願っているのであるが、私を含めた全ての愛する人々の幸福が、時として対立することがあることを知っている。

それは上の聖書の言葉で言えば、妬まず、自分の利益を求めず、ということと関係するであろう。

またここでは、幸福とはいったい何であるのかという問題が発生してくる。

またこの文脈において幸福について考えるとき、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶということについても考えさせられる。

聖書の説明する愛と、私の考える幸福は、深い関係にある。これは事実である。

しかし、どうやら私は言葉の迷宮に迷い込んでしまったらしい。

結局はこういうことではないか?

愛とはイエス・キリストの全存在を通して、私たちに教えられているのである。愛を知るためにはイエス・キリストを知るしかない。イエス・キリストを知るということは愛を知ることである。すなわちイエス・キリストを、真実に知った者は全て、イエス・キリストを愛するようになるのである。

イエス・キリストは、あなたは私を愛するか?と、今日も私に語りかけておられる。

私はいつものようにこう答えるのである。

主イエス・キリスト、私はあなたを愛します。そしてあなたはそのことを知っています。

そして主はいつものようにこう仰る。

それではそれで充分である。

そして私はただアーメン(それは真実です)と答えるのである。

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