« なぜ自分は書物を書くのか? | トップページ | 慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 »

天の父が完全なように、完全でありなさい。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 マタイ5:48

この言葉は「心の貧しい者は幸いです。」という驚くべき言葉から始まるイエス・キリストの有名な説教である山上の説教のなかで語られたものである。

天の父とは父なる神である。イエス・キリストはその神が完全であるように、私たちも完全でありなさいと仰った。果たしてイエス・キリストは私たちに不可能な重荷を無理矢理に負わせるようなお方であろうか?

それとも、ある憐れみ深い牧師がかつて私に語ったように、このような聖書の中の達成不可能と思われるような命令は、私たちの不完全さを示し、謙虚と謙遜を与えるために、達成不可能であることを前提に語られているのであろうか?

以前は私はそのような理屈にも納得していた。そしてそのように考えることは確かに私の信仰生活に少なからず良い影響をもたらしてもいる。

私は自分の限界を知り、主イエス・キリストのようにはなれない罪深く弱いものであるからこそ、主の前にへりくだり、赦された罪人としてだけではなく、今も赦され続けている罪人として、それでも「わたしについて来なさい。」と仰ってくださる主の憐みによって、主と共に歩むことができる今を喜んでいる。

しかし、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というこの言葉が、主イエス・キリストの言葉である以上、私はこの言葉に真剣に取り組まないわけには行かない。

ここでイエス・キリストの仰られた父の完全さとは一体何を意味しているのであろうか?

当然考えられることは、神が全知全能であるように全知全能であれという意味ではないということである。

文脈から考えれば、ここでの完全さとは、愛における完全さである。

ここでもやはり愛である。

神は、そして主イエス・キリストは、徹底して人間に愛を求めている。

愛についてこの文脈で強調されていることのひとつは、自分の敵を愛することである。

「汝の敵を愛せ」

キリスト教の愛の奨励において最も有名なものが、この敵をも愛する愛である。

このような愛は自然の人間の感情に反するし、実現が不可能であるように思われる。

この愛の奨励と対になって、よく教会の説教において語られる言葉が「愛は感情ではない」というものである。

この言葉によって表現したいことは私にも理解できる。「愛は行為である」とか「愛は決断」であるとか、たとえ感情的に目の前の敵を愛することができないとしても、その敵を赦す決断をするとか、さらにはその敵が窮地に立っているとしたら、その窮地から脱するために積極的に力になるということを奨励しているのである。

このような奨励が実現されたとき、それはまさに敵をも愛する愛であると言えよう。

そして驚くべきことに(私は本当に驚いているし、この記事の読者にも心から驚嘆して欲しいのであるが)教会の歴史の中で、このような愛は度々実現されている。

しかし、敵をも愛する愛が、神の愛の完全さと等しい完全さとして奨励されるとき、その愛に感情が伴っていないとは私にはどうしても思われない。

感情という言葉が人間の罪性を連想させる言葉であるとすれば、別の言葉を用いる必要がある。

神の愛は、心からの愛、さらに相応しい言葉で言えば、全人格的な愛なのではないだろうか?

聖書の神、即ちキリスト教の神は人格的な神であると言われる。そしてその人格とは愛そのものである。そのような神が、その存在の一部においては敵を憎みながら、決断において、或いは行為においてのみ愛するということをなさるだろうか?

そうとは考えられない。そのような愛は完全な愛ではないからである。

私たちは神ではない、弱く罪深い人間である。それはイエス・キリストの福音に出会い、そのイエス・キリストへの愛と信仰を持ったキリスト者になっても完全には変わらない、或いは信仰を持ったことにより、それ以前よりもより深く自分の弱さと罪深さを発見する、そのような者である。

そんな私たちはあらゆる社会生活において敵と対峙したとき、選択を迫られるのである。

敵を敵として憎むか?それとも愛するか?

敵を憎むことを選ぶのも、簡単なことではない。敵を憎めば、その憎しみが私たちを縛る鎖になるからである。それはキリスト者でなくとも経験的に理解していることではないだろうか?

それでは敵を愛するのはどうか?

私は感情にはよらない、決断においてこの敵を赦そうと考えることは、ある意味では憎み続けることを選択するよりもたやすいことのように私には思われる。

もちろん私個人が全ての敵に対してそのように行うことが出来るという意味ではない。

人間はどちらがたやすいかによって自分の行動を選択するのではなく、そのときの気分によって選択するのだと私は考える。

そして気分は良く変わるものである。

そこで、大切な選択をするときには、気分を追いやる必要があると私は考える。

その気分を追いやる方法を聖書は提供していることを私は知っている。

それは沈黙、「神である主の前に静まれ。」という言葉である。

主の前に沈黙するためには、私は自分の全ての仕事を一切止めなければならない。

この神の前での沈黙によって、私たちは敵を愛することを決断することができるのだと私は信じている。

しかしそれはまだスタートであってゴールではない。

ここから「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というイエス・キリストの言葉が心に迫ってくる。私は完全な愛を追い求めなければならないのである。

そして祈りが生まれるのである。

祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ。  キェルケゴール

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 Ⅱコリント 3:18

祈りは御霊なる主の働きの中でも最大のものの一つであろう。

そして御霊なる主は、私たちが自分の仕事を止めて主の前に静まるときに最も力強く働かれる。

残念なことは、私は完全に困窮するまでは自分の仕事を止めないことである。

にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

|

« なぜ自分は書物を書くのか? | トップページ | 慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 »

独白ではなく、対話として・・・」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/415506/28568964

この記事へのトラックバック一覧です: 天の父が完全なように、完全でありなさい。:

« なぜ自分は書物を書くのか? | トップページ | 慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 »