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愛がなければ、何の役にも立ちません。

タイトルは有名な聖書の言葉であるが、今日はこの言葉についての黙想をここに記すことにしたい。

聖書の別の箇所には「愛は神から出ているのです。」「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉が書かれている。

そこでこの聖書に土台を置くキリスト教が、愛の宗教であると言われるのは至極当然のことであると思う。

しかしこのことはキリスト者である私にとっては非常に重い意味を持つことになる。

なぜならば、上述の前提に立てば、全てのキリスト者は愛の人であるか、或いは少なくとも愛の人たらんと努力しているのでなければならないのではないかと、私は考えるからである。

ある人々に言わせれば、それは自分で努力するのではなく、神様にして頂くのであるということになろう。

私もその意見に全面的に賛成であるし、私の理解では、聖書もそのように示唆している。

しかし、それを理解したうえでも、私には、この愛の問題は大きな問題なのである。

愛とはいったいなんなのであろうか?

「人類愛」という言葉がある。

「愛は世界を救う」という有名な標語がある。

だれもが愛とは、素晴らしいものであると認めているし、多くの文学者や芸術家たちが、愛が人間の本質的な感情のひとつであり、人間の行動、或いは人間存在そのものを、より高い次元に引き上げるものであると見做している。

上の意見にも私は賛成である。確かに愛は、人間の行動や人間存在を、より高い次元に引き上げるものであろう。

しかしそのような愛が、いったい私のような単なる一人のキリスト者の日常生活のどこに在るのだろうか?

そこで私はいつものように聖書に答えを求めるのである。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 Ⅰコリント13:4~7

聖書による愛の説明はこうである。

私にとっての信仰とは真剣さであるから、この愛の説明にも真剣に向かい合いたいと思う。

この中で語られている一部のものを、私は微少ながら持っていると言っていいかも知れない。

私は人々に寛容でありたいと、絶えず望んでいる。同じように、人々に親切でありたいと望み、礼儀に反することは極力ないように努めているつもりである。そして何よりも真理を喜ぶものでありたいと願っている。

そしてこのような自分を、キリスト者として誇りに思う自分が、私の中に確かにいるのである。

これは高慢と言えるのではないか?

また、怒らず、人のした悪を思わずということも、私に難しい。これは個人的な恨みや憎しみについてもそうであるが、公の正義についても言えることである。いったい公の正義が踏みにじられる時に、怒らずにおられるであろうか?

不正を喜ばずという言葉は、不正を憎むという言葉とは、全く別の意味であるように私には思われる。

真剣に考えれば考えるほど、私の中に聖書が示すような愛はないことが、ありありと理解されてくる。

しかし、聖書は神を愛し、互いに愛し合うように、それどころか敵をさえも愛すように命令しているのである。

そしてそれは、私にはとうてい不可能であると考えられることが時々ある。

愛がなければ、何の役にも立ちません。

この言葉に、私は心から賛同する。

そこで、私には愛がないと感じる時に、私は何の役にも立たない者であるとも感じているのである。

しかし、別の時の私は、愛の人でありたいと心から願い、神に祈り、努力しているのも事実である。そしてそれは、誰のためでもない、自分自身のためなのである。

それはこういうことだ。

私は、もし上述の聖書の言葉にあるような愛を持った人間がこの世にいるとしたら、その人がこの上も無く幸福な人間であることを確信しているのである。

そこで私は、今この瞬間も、私自身の幸福のために、愛の人でありたいと願っているのである。

私は正直に言えば、私と私の家族、そして私の愛する人々の幸福を願っているのであるが、私を含めた全ての愛する人々の幸福が、時として対立することがあることを知っている。

それは上の聖書の言葉で言えば、妬まず、自分の利益を求めず、ということと関係するであろう。

またここでは、幸福とはいったい何であるのかという問題が発生してくる。

またこの文脈において幸福について考えるとき、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶということについても考えさせられる。

聖書の説明する愛と、私の考える幸福は、深い関係にある。これは事実である。

しかし、どうやら私は言葉の迷宮に迷い込んでしまったらしい。

結局はこういうことではないか?

愛とはイエス・キリストの全存在を通して、私たちに教えられているのである。愛を知るためにはイエス・キリストを知るしかない。イエス・キリストを知るということは愛を知ることである。すなわちイエス・キリストを、真実に知った者は全て、イエス・キリストを愛するようになるのである。

イエス・キリストは、あなたは私を愛するか?と、今日も私に語りかけておられる。

私はいつものようにこう答えるのである。

主イエス・キリスト、私はあなたを愛します。そしてあなたはそのことを知っています。

そして主はいつものようにこう仰る。

それではそれで充分である。

そして私はただアーメン(それは真実です)と答えるのである。

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