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2010年1月

徹底的に包み給う神 ~望みなき者にこそ~

キリスト教会では「福音」という言葉が頻繁に用いられる。

また近年この言葉は、マンガやアニメ、TVドラマなどの中にも多く用いられている。

ところで読者は「福音」という言葉について、どのような理解を持っているだろうか?

私と同じキリスト教信仰を持つ読者は、「福音」がイエス・キリストのもたらした人間の救済に関わる「良き知らせ」を意味することを当然ご存知であろう。

しかし私としては、まず第一にこの「福音」という言葉が、意味も解らずに、或いはその意味を知識の上では知っていながら、その意味が捻じ曲げられたり、ファッションとして用いられたりするのが残念でならない。

またキリスト教信仰にとっては「福音」に関する理解、すなわち「福音理解」は、大変重要なものであり、これを深めることは一生涯を掛けた使命であるとも考えている。

そこで私はここで、私の「福音理解」に最も影響を与えている北森嘉蔵牧師の代表的著作『神の痛みの神学』から、次の記事を紹介したく思う。

我々が宣べ伝うべきことは、何よりもまず福音が文字通り喜ばしき音(おと)ずれであるということである。福音における神は、我々の痛みの解決者であり、我々の傷の癒し主であり給う。一言にしていえば彼は救主であり給う。救(すくい)とは何であるか。救とは、我々のこの破れたる現実を神があくまで包み給うという音ずれである。徹底的に包み給う神――これが救主なる神である。世にいかなる奇跡があろうとも、神が我々のこの破れたる現実を包み給うということ以上に驚くべき奇跡があろうか。我々の現実の破れは、望みなきまでに破れ果てたる破れである。しかし福音は、「望みなき者にも望みがある」という音ずれ、――否むしろ「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。

これこそ北森牧師の「福音理解」であったが、読んで解る通りこれはそのまま北森牧師の「神理解」である。

すなわち「福音理解」とは換言すれば、「救い主である神」とは、いったいどのようなお方であるのかということを知ることである。

そして私の信ずるところによれば「神を知る」ことは「神を畏れる」ことと一致する。

なぜならば、畏れるに足る神でなければ、その神に我々を救う力はそもそもなかったということになるからである。

天地万物を創造し、万軍の主と呼ばれる神は、まことに畏れるべきお方である。

この畏れるべき神が、我々人間を救うために、イエス・キリストという「ひとりの人」の姿となって我々を訪れた、それゆえに私は喜ぶのである。

ところで「福音」とは常に信仰者の足と声音を通して、我々もとの届くのである。

それゆえ「福音」は「良き訪れ」であるとともに「良き音ずれ」なのである。

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「学習」とは、、高度に人格的な営みである

近年「生涯学習」ということがしきりに叫ばれている。

私としても「学習」は人間存在にとって重要且つ必要不可欠な営みであると考えている。

そこでここでは、「学習」について、最も的確に解説をしていると私が考えている記事を紹介したいと思う。

「学習」とは人間と人間との交流の中で行われる、高度に人格的な営みである。そこでは、師と弟子、先生と学生、親と子どもという人格関係が存在する。そうした関係のもとで、精神は訓練され、想像力は鍛錬され、さまざまな理念が開花し、もろもろの概念が試験され、行動習慣が成熟していくのであって、そこではあらゆるものが重要であり、人格基盤を形成するための体系を成しているのである。真の「学習」においては精神と肉体の分裂は存在しない。「学習」は内なるものと外なるものとの統合を促し、外的世界と内的精神の統合を促す。古典的な「学習」の方法はすべて人格的なものであった。すなわち、対話であり、模倣であり、討論であった。弟子は師が学んでいるところを観察し、師は弟子が学んでいるところを観察した。「学習」は、身振り、声音、態度、リズム、感情、愛情、賞賛によって表現されるいろいろな関係を通して進んでいった。そうして、これらすべての出来事は話し言葉の海のなかで(声と沈黙の中で)起こったのである。
                                       E.H.ピーターソン・著(越川弘英・訳)『牧会者の神学』より

ピーターソンによれば「学習」という「人格的な営み」を通しては「精神は訓練され、想像力は鍛錬され、さまざまな理念が開花し、もろもろの概念が試験され、行動習慣が成熟していく」のであり、さらには「内なるものと外なるもの」また「外的世界と内的精神」の統合が促されるのである。

逆説的には、もしこのようなものでなければ「学習」と呼ぶことは出来ないと、ピーターソンは指摘しているのである。

またこの記事には私にとって素晴らしい知恵が示唆されている。

すなわち、人間が人格的な存在として他者と接していく限り、それらは全て「学習」となる可能性を秘めているのであると私には考えられるのである。

キーワードは「人格的な営み」である。

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『飛ぶ教室』(ドイツ 2003)

この映画は次のような原作者の言葉の引用から始まる。

 どうして大人は子ども時代のことを
 すっかり忘れてしまうのだろう―
 
 子供というものは時にひどく悲しく
 不幸になってしまうということを―
 決して忘れて欲しくない
           エーリッヒ・ケストナー

原作者であるエーリッヒ・ケストナーは20世紀前半にドイツで活躍した詩人、作家であり、戦後は初代西ドイツペンクラブ会長を務めたドイツ文壇の中心的人物である。

『飛ぶ教室』は彼の作品の中でも、世界で30か国語以上に翻訳されている代表作の一つである。

ケストナーの児童文学小説としては他に『エーミールと探偵たち』『ふたりのロッテ』などが有名で、どちらも映画化されている。

この映画は原作とは時代設定が異なるために、かなり大胆に設定の変更や脚色が行われているが、冒頭に引用した言葉もしめしている通り、作者のメッセージには忠実であるという評価を受けている。

私としても、子供たちには独自の世界があるのだという事が見事に描かれている秀作であると思う。

前半は悪ガキどもが隠れ家に集まったり、敵対グループとケンカをしたりとドイツ版『グーニーズ』といった雰囲気である。

そして後半は、物語の核心となるクリスマスに子ども達が演じる『飛ぶ教室』という劇にまつわる物語に移り、それとともに子供たちの友情や葛藤が繊細に描かれており、泣かせるシーンもいくつかある。

季節がクリスマスであり、子ども達が合唱団に所属している設定のため、美しく感動的な合唱のシーンがあったり、ドイツというお国柄のせいか全体に品が良く仕上がっている。

原作はまだ読んでないが、この映画を見てぜひ読んでみたいと思った。

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根が切られない限り~seriousな庭師の知恵~

根が切られない限り

常に庭では心配ありません

庭では、成長には季節があります

春が来て夏が

そして秋が来て冬が来ます

しかしまた春と夏が来ます

以上は昨日紹介した1979年のアメリカ映画『チャンス』の中の主人公チャンスの台詞の抜粋である。

チャンスは、数十年間の人生を「庭師」として、雇い人の家から一歩も出ずに過ごした男である。

その事情を知るものは彼を愚か者だと思っている。

しかし物語中、不思議な出会いと多くの誤解から、チャンスはこの言葉を経済対策に悩むアメリカ合衆国大統領に語ったのである。

大統領はこの言葉を経済についての隠喩であると理解し、感動と共感を示し、翌日の演説の中でチャンシー・ガーディナーという誤解されたチャンスの名前とともに引用する。

これがきっかけでチャンシー・ガーディナー(チャンス)の名はアメリカ中に知れ渡ることとなり人気トーク番組に副大統領の代役としてゲスト出演することとなる。

その場でもチャンスは「庭師」としての経験から、庭の管理の話をして司会者や視聴者の共感を呼ぶ。

司会者に「あなたはどんな庭師ですか?」と訪ねられたチャンスはこう答える。

「まじめな庭師です。」

このところで「まじめ」と訳された言葉は英語の「serious」であった。

この「serious」という言葉は単に「まじめ」であるということ以上の意味を持っていると私は考える。

私はここで、E.H.ピーターソンの『牧会者の神学』の序文の一節を紹介したい。

「ある定義によれば、「専門家 professional」とは、人々の好みに迎合することなく、また人々が支払う代償によっても態度を変えることなく、その専門領域の全体と実践に関わる存在のことである」

「庭師」としてのチャンスは、まさにこのような意味で「専門家 professional」であったと私は考える。

すなわち「serious」とはこのような意味での「専門家 professional」のその職に向かう態度であるといえよう。

このような意味での「serious」とは「真剣」ということであり、この「真剣」とは、キェルケゴールが『死に至る病』の序文で「キリスト教的な認識」とその「配慮」について示した「真剣」さと同質のものであると私は考える。

作品中はっきりとは語られないが、チャンスは恐らく知的障害を持っていた。

そのチャンスが物心ついた時から、自分に任されていた唯一の仕事に「真剣(serious)」に取り組んだ結果、彼はそこから「知恵」を得たのである。

そしてその「知恵」は、それを聞いた誰もが「希望」を見出すような種類の「知恵」であった。

そして作品中の人物たちはこの「知恵」の言葉に経済的な「希望」を見出した。

チャンスが語ったような種類の「知恵」とは真に普遍的なものであり、あらゆる問題に適応できるものである。

時としてこのような種類の「知恵」は「真理」と呼ばれる。

私は地上に存在する全ての職業人が本当の「専門家 professional」として「真剣(serious)」にその職に取り組むならば、このような「真理」を発見するのではないかと考える。

それゆえトマス・カーライルは「衣服哲学」において「汝の最も手近に横たわる義務を果たせ。」と我々に命じているのであろう。

なんとなれば、その職に「真剣(serious)」に取り組むことは「専門家 professional」にとって「最も手近に横たわる義務」であるから。

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『チャンス』(Being There)-1979年-アメリカ

この映画を見終えたとき、とても懐かしい、大好きな友人に再会したような気分になった。

また、こんな映画に今まで出会えていなかったことを残念にも思った。

矛盾しているが、そんな嬉しいような、勿体ないような気持ちになった。

どうやら私は、ひさしぶりに隠れた名作に出会ってしまったようだ。

以前からこの作品をよくご存知の方は、「隠れた」なんてとんでもないと仰るだろう。

主演は「ピンク・パンサーシリーズ」のピーター・セラーズ、競演には『愛と追憶の日々』でアカデミー主演女優賞を受賞したシャーリー・マクレーンと、往年の映画ファンにはそれだけで充分魅力的であろう。

しかしなにしろ、この作品が劇場公開されたとき私は2歳であるから、全く知らなかったことにもご理解頂きたい。

私はこの作品のDVDを何となく手に取り、ストーリーに魅惑を感じたというだけの理由で、何の予備情報もなくこの作品を見た。

パッケージの裏にはおおよそ次のような内容が書かれていた。

ワシントン郊外。主人が亡くなり、行き場のなくなった中年の庭師チャンスは町をさまようことに。彼は屋敷の外を知らず、草花をいじり続け、テレビだけを楽しみに生きてきた男だった。やがてチャンスは政治をも左右する財界の大物ベンジャミンと知り合う。

この作品の魅力は、作品全体に流れる雰囲気である。派手さは全く無い、そこがいい。

静かな時がゆっくりと流れている。

見ていて気持ちがいい、上品なユーモアが洒落た感じのするとても素敵な映画、そんな感じがする。

主人公のチャンスは超然としている無口な男で、尋ねられたことに言葉少なく答えるだけのことが多い。非常に丁寧なやさしい言葉遣いは知性を感じさせる。

しかし、作品中でははっきり語られないが、チャンスは知的にか精神的にか、明らかに障害を持っている男である。

チャンスは出生も明らかでない謎の男だ。

原題の「Being There」とは「ただそこにある(もの)」という意味で、主人公のチャンスを表わしている。

映画情報サイトの紹介文などには「傑作コミカル・ファンタジー」「社会風刺作」などの言葉が並んでいる。

確かにその通りの作品である。

この記事を読んでぜひこの作品を見てみようと思った方は、ストーリーについては私と同様に精々その程度の予備情報で見ることをお奨めする。

そうであるから、以下の情報も余計な先入観を与えてしまう可能性のあるものであるが、恐らくこのことを加えることで、この映画を見てみたいと思う方の層が広がると思われ、それこそ私の望むところであるのでほんの少しだけお節介な情報を加える。

私は後から調べて知ったのであるが、実はこの作品は、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りきを下敷きにした作品である。

そういえばBGMにアレンジされたリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはこう語った(1896年)』が流れていたのだ。

またこの映画のラストシーンは、私と同じキリスト教信仰を持つ者にとっては、非常に痛快で思わずニヤリとせずにはいられないであろう。

とは言っても決して宗教色の強い映画ではないのでそうでない方もご安心を。

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アニメ映画『銀河鉄道の夜』

宮沢賢治の同名の童話のアニメ化である。

『銀河鉄道の夜』は賢治の遺作でもあり、未定稿のまま遺されたことや、多くの造語が使われていることなどもあって、研究家の間でも様々な解釈が行われている。

幻想的かつ壮大なスケールと哲学的な疑問を投げかけていながらもそれと意識させない緻密なストーリーは、幻視者と呼ばれた詩人、賢治の真骨頂であろう。

今回紹介するアニメ映画は『あらしのよるに』などで知られる杉井ギサブロー監督による1985年の作品である。

この作品の最大の特徴は、漫画家ますむらひろしの原案とキャラクターデザインによって主要な登場人物が擬人化した猫として描かれていることである。

賢治の実弟である宮沢清六や多くの研究家は、当時この点に最後まで反発したというが、私としてはこの脚色こそが、この作品に幻想無比な雰囲気を与えているものであり、最大の魅力であると考える。

この作品の素晴らしさは、上述のような奇抜な脚色を加えていながら、原作の物語にのみ忠実であったのではなく、作品の持つ空気をこそ大切にしたことにあったのではないかと思う。

幻視者と呼ばれた宮沢賢治の詩的な言の葉と幻想的な映像とがみごとに絡み合い、この作品は二重の詩情を持っている。

映像詩という表現はこのような作品にこそふさわしい。

この映像詩に音楽をつけているのは、元YMOの細野晴臣である。

エンディングでは細野晴臣の音楽に合わせて賢治の詩集『春と修羅』の「序」の一節が朗読される。

わたくしといふ現象は
假定(かてい)された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

『銀河鉄道の夜』のエンディングに、この一節が朗読されることは非常にふさわしく、私にとって大変好ましいものであると思われた。

私は賢治の研究者ではないので、賢治がどのような意味や隠喩を込めてこの一節をしたためたのであるのか、はっきりとしたところは解らない。

しかし、かつて10代の頃、この一節に初めて出会ったとき、詩人の偉大さというものを感じたのである。

この一節によって私は、詩人という存在が人間の実存に対するひらめきと深い洞察を持った存在であることを知った。

また詩人は魂の不滅を信じているのであると知ったのである。

現在の私はキリスト者であり、魂の不滅とそれ以上のものを信じている。

賢治は『銀河鉄道の夜』の中でキリスト教の救済信仰を取り扱っている。

もしいつか私が賢治の魂が今いる場所に行くことがあったなら、魂の不滅について、またそれ以上のものについて、彼とぜひ語り明かしたものである。

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「人間福祉」という用語についての私論

 近年、社会福祉系、或いはその関連領域の学問領域において「人間福祉」という語が用いられている。

 また複数の大学の福祉系学部や学科名において「人間福祉学」という語が用いられるようにもなってきている。

 ここで「人間福祉」という語を問題とするまえに、まず、その背景となる社会科学の一領域である「社会福祉学」という学問について簡単な整理をしてみたい。

 一番ヶ瀬康子・真田是編の『社会福祉論(新版)』(有斐閣双書)においては、社会福祉という言葉を目的概念的規定と実体概念的規定との2側面から捉え説明している。

 目的概念的規定としては「行為あるいは制度・政策の目的概念として、また形而学上な意味あるいは当為概念として用いられる場合」であり、「それは『社会のしあわせ』『社会全体の幸福』というような漠然とした意味・内容でつかう場合」と研究者の中で「一連の諸政策や制度がめざす目的をさすものとして」捉えられる場合があることを指摘している。

 また、実体概念的規定については、「行為あるいは制度・政策それ自体すなわち現実に存在する実体概念として、形而下的な存在概念」であって、実体概念的規定にはさらに広義と狭義の2つがあるとしている。すなわち広義とは「いわば社会福祉というなのもとに呼ばれている行為・制度・政策を総称して呼ぶ用法」であり、狭義とは「社会福祉という用語を狭義に用い」る場合であり、この場合「従来いわれてきた社会事業ということばとほぼ同義語」であるとしている。

 さらに一番ヶ瀬氏はその後の著書の中で「社会福祉」と「福祉」について、福祉は、「広義には”幸福”や”幸せ”であり、狭義には、広義の福祉の前提となる”暮らしむき”あるいは”幸福追求のための暮らしの条件”であり、社会福祉は、その福祉をめぐるところの社会方策あるいは社会的努力である」としている。

ここで「福祉」という言葉をその成り立ちから考えてみたい。

 「福」と「祉」は、ともに「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する漢字で、元々は日本国憲法作成時におけるGHQ案の英語原稿翻訳を行う際Social Welfare(社会福祉)の「welfare」に対応する語が存在しないために充てられた言葉である。そして英語のwelfare には、fare には、「行く」という意味があり、well(うまく)fare(行く)という語源的な意味があるとされている。ここからwelfareとは、語源的には「よい状態、うまくいっている状態」を意味し、「広義の福祉」と一致する。

 用例としては「公共の福祉」などという場合がこれである。

 一方、福祉という言葉は慣用的には、「社会的に恵まれない人々のための」といった前提を含む、社会保障制度そのものを指して用いられることが多い。これが「狭義の福祉」である。ここから「福祉の世話になる」というマイナスイメージの強い言葉も生まれることとなる。

 また近年、welfareに替わる用語として、人の「行き方」や「生き方」を越えて、もっと根本的な人の「存在のあり方」に焦点を当てた、「存在のよさ」としてのwell-beingという語が広く用いられている。

 前置きが長くなったがここから以上の内容を踏まえて、本題である「人間福祉」という用語に関心を戻したい。

 ここまでの内容からは「福祉」という言葉が、大きく分けて目的概念と実体概念という2つの意味を持って用いられていることがはっきりとしたであろう。

 また「福祉」という言葉は、目的概念的に用いられる場合にしろ、実体概念的に用いられる場合にしろ、その主眼は社会の構成員である「人間」の「幸福」にあるということも明らかにされたものであると筆者は考える。

 それゆえ「福祉」という言葉を用いる限り、研究であれ実践であれ、その主題は「人間の幸福」であり、その最も現代的な表現はHuman well-being=「人間福祉」なのである。

 藤村正之氏は、その著書『福祉化と成熟社会』(ミネルヴァ書房)の中で、現代社会において、産業化と近代化がもたらした社会問題への解決を模索する社会現象としての「福祉化」が進行していること及びその「福祉化」には2つの段階があることを指摘している。

 藤村氏によれば、「福祉化」の第一段階とは「社会構造の安定化を基盤としつつ、社会福祉・社会保障や保健・医療など、私たちの生活や生命の保障に密着した社会的領域が制度的・政策的に進展してきたこと」であるとし、第二段階は「対象者に個別的に接近することを基本的目標とし、異質性と自立性を保っていく姿勢を確保しようとするところに主眼がある」と指摘している。

 このブログにおける筆者の最大の関心の一つは、「人間」が「ひとりの人」として貴ばれることであり、藤村氏の指摘する第二段階の「福祉化」に深く共感するものである。

 そこで筆者はHuman well-being=「人間福祉」を、藤村氏の第二段階の「福祉化」の過程で登場した「人間」が「ひとりの人」として貴ばれる「福祉」であると捉る。

以上は近年社会福祉系の学問分野において用いられるようになった「人間福祉」という用語についての筆者個人による私論である。

主な参考文献

『社会福祉論(新版)』(有斐閣双書)一番ヶ瀬康子・真田是編

『社会福祉とは何か -現代の社会福祉-』(ミネルヴァ書房)一番ヶ瀬康子著

『福祉化と成熟社会』(ミネルヴァ書房)藤村正之著

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アマルティア・センの「潜在能力アプローチ」

アジア初のノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センの最大の功績といわれる「潜在能力(capability ケイパビリティ)アプローチ」について紹介したい。

まずは「潜在能力アプローチ」について、センの著作『福祉の経済学──財と潜在能力』の中から引用することからはじめる。

このアプローチは、福祉を、ひとが享受する財貨(すなわち富裕)とも、快楽ないし欲望充足(すなわち効用)とも区別された意味において、ひとの存在のよさの指標と考えようと試みる。

ひとが実際に達成しうる価値ある活動や生活状況に即してひとの生き方の質を判定する

実のところ、評価することは福祉の判断の不可欠な一部なのであって、潜在能力アプローチは、この問題に明示的に焦点を合わせたものに他ならない。そのうえで本書は、福祉の判断に際する評価の適切な対象は、ひとが実現することができる存在や行為であることを主張している。いうまでもなく、評価は内省的な活動である

本書が提唱する福祉へのアプローチは、われわれの無批判的な(なんらかの形式の効用に反映される)感情や、われわれの(実質所得に反映される)富裕の市場評価よりも、われわれの思想や内省に優先度を与えるのである。

福祉の主観的指標として効用がもつ限界は、明瞭に区別されるべき二つの異なる理由から生じるものだということも、恐らくここで指摘しておくべきだろう。第一に、幸福であるとか欲望をもつということは主観的特性であって、われわれの客観的な有様(たとえば、どれほど長生きできるか、病気にかかっているか、コミュニティの生活にどの程度参加できるか)を無視したり、それとかけ離れたりすることが十分にありうる。第二の限界は、主観的概念としてみても、効用は主観的評価ではなく感情にかかわる概念だという事実から生じるものである。

「潜在能力アプローチ」は機能の客観的特徴に注目し、しかもこれらの機能を、感情にではなく評価に基づいて判断する。ひとびとの評価が、究極的にはかれら自身によってなされ、その意味において主観性の残滓をもつとしても、その要素はなお評価と内省に基づいている。この点は、特に強調に値する。なぜならば、効用に基礎をおく判断を擁護するひとびとは、効用の基礎を離れることは必然的にパターナリズムとなり、ひと自らの判断の否定を意味せざるをえないと、しばしば主張しているからである。実のところ、全く正反対の主張こそ正しい。効用に基礎をおく判断は、ひと自らの評価になんら直接的な重要性をも認めずただ感情のみを考慮するのに対して、「潜在能力アプローチ」は、ひとびとがその人生において達成したいものに関してひとが自ら下す(内省的・批判的な)評価に基礎をおいているからである。

ひとの潜在能力集合は、ひとがそこから選択を行いうる機能の組合わせの集合として形式的に表現されている。それは、ひとが福祉を実現する自由度(別の箇所で私が「福祉的自由」と名付けたもの)を表現するものに他ならない。もし仮に、自由が手段としてのみ評価されるのであれば、潜在能力アプローチによる福祉の評価は、その折々の潜在能力集合から選ばれた機能の組、すなわちひとが実現する機能の組の評価となんら異ならないものとなるだろう。しかし、ひとの福祉にとって自由がなんらかの内在的な価値をもつと考えられる場合には、潜在能力集合の評価はそこから選ばれた要素の評価とは必ずしも一致しない。問題の本質は、手段としての役割を越えて、すなわち自由がどのような実現形態をもつかを越えて、われわれが自由に価値を認めるか否かにある。

つまり、センによれば、「潜在能力アプローチ」とは人の機能の客観的特徴に注目し、しかもそれらの機能を、感情にではなく評価に基づいて判断するものであり、また、ひとびとがその人生において達成したいものに関してひとが自ら下す(内省的・批判的な)評価に基礎をおいているものなのである。

また「潜在能力」とは、諸財の有する特性を個々人の財(特性)利用能力・資源で変換することによって達成される諸機能の選択可能集合であり、個人の「福祉的自由」(well-being freedom)を表すものであると理解することができる。ここにおける福祉的自由とは、選択することを外的に妨げられないのみならず、「選択の積極的能力」(the positive ability to choose)を意味する概念である。

すなわち、潜在能力とは「人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつけることから生じる機能の集合」を意味する概念であり、より具体的には、「よい栄養状態にあること」「健康な状態を保つこと」から「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「教育を受けている」「早死しない」「社会生活に参加できること」などを扱う。そしてセンは、「人前で恥ずかしがらずに話しができること」「愛する人のそばにいられること」も潜在能力の機能に含めることができるとしている。

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居場所を探し求める子どもたち

 ここではまず日本における不登校の現状について述べたい。

文部科学省は不登校を、「何らかの心理的,情緒的,身体的,あるいは社会的要因・背景により,児童生徒が登校しない,あるいはしたくともできない状況にあること」と定義している。

 また、平成4年3月の「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告「登校拒否(不登校)問題について」(以下「平成4年報告」とする)においては、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでもおこりうる」ことであるという認識が示されている。

 そして、同じ「平成4年報告」においては、不登校に対する対応について、「登校への促しは状況を悪化させてしまう場合もある」などの指摘もなされている。

 上述の現状を踏まえ、筆者は不登校について、児童生徒は、心理的、情緒的、身体的に発展途上の存在であり、その健全な育成は全国民にとって果たすべき社会的な責任であり、すなわち社会は彼らに愛護と適切な導きを提供する義務を負っていると考える。

 その上で、現在不登校に対して様々な私的、公的な対策がなされているにも関わらず、未だに大きな成果が得られていない点、すなわち効果的な対策が見つかっていない点が問題であると筆者は考える。

 第一にこの問題は複雑な要素を持ち、現在不登校の状態にある児童生徒の状態、またその背景は様々であるにも関わらず、対応する社会の側が「不登校」という言葉で一括りにして、対応を検討していることが、この問題に対する効果的な対策が見つからない原因であろう。

 またこの問題を「不登校」と呼ぶ場合、その対応の目指す方向はどうしても、現状の学校に登校することに設定される傾向があることも問題である。たとえそうでない場合にも「不登校」という言葉自体が「登校しない」「登校できない」というネガティブな要素を含んでいる。

 それでは一体何がなされるべきであるか。

 筆者はここで構築主義的なアプローチを試みたい。

 単純には、この問題について「不登校」に代わる用語と考え方を社会全体が持つべきである。

 すなわち現在「不登校」の児童生徒として一括りに理解されている子どもたちを、一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると社会全体が理解できる価値観を作りあげ、社会全体が、そのように解釈し、認識するように促すのである。

 しかし、このように社会の価値観を変革することは、一朝一夕に行えることではないし、政府やある一定の専門職集団や社会集団、或いは個人が動けば必ずそうなるというものではない。

 具体的には、この問題に関わる政府、専門職、社会、個人に対する啓蒙活動やソーシャルアクションを行うべきであるが、実際これは気の遠くなるような作業になるであろう。

 そこでここにおいてはまず、筆者自身が、現在「不登校」とされている児童生徒たちを「一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると」解釈し、認識することを試みたい。

 『不登校・ひきこもりと居場所』(ミネルヴァ書房 忠井俊明・本間友巳 編著)の第1章〔Ⅰ-2〕において本間友巳氏は、「不登校」と「ひきこもり」について「居場所」を喪失した状態であるとしている。また、ここでいう「居場所」とは、「人の発達や成長を支える場」であると本間氏は説明している。

 また本間氏は〔Ⅱ-1〕においては「居場所」について、「当事者にとって、何らかの意味をもつ空間でなければならない」と主張し、「居場所」の「もっとも基本的な意味」として「その人がなすべき行為や活動ではなく、存在そのものがその場に無理なく定位できるという存在論的な次元に関わるものである」と論じている。

 ここから「発達や成長を支える場」としての「居場所」を提供することこそが「不登校」並びに「ひきこもり」に対する相応しい支援となるというのが本間氏の主張の大筋である。

 また〔Ⅰ-3〕において本間氏は「居場所」としての「現代の家庭」について、「大幅に縮小し、それに伴い家族機能」が「きわめて限られたもの」となっていることに加えて「現代の消費中心の家庭のあり方は、家族の協力や協働をそれほど必要と」しなくなったこと、「その結果、成員間の関係」が「希薄なものとなりやすい」こと、また「同様の理由から、近隣や地域に対しても家庭を開く必要性もなくなり、家庭は外部に対して閉じることが多くなっている」ことを指摘し、そのために現代の「私的世界を重視する意識のあり方、すなわち私事化(Privatization)」が促進されていることを論じている。

 さらに本間氏は、その上で「不登校者やひきこもり者(を抱える家庭)」は「外部からの彼らへの積極的な支援を必要としている」とも述べている。

 本間氏による、現在「不登校」とされている児童生徒たちが、自らの「発達や成長を支える場」としての「居場所」を持っていないという主張に筆者は同意する。

 そこで、このことを筆者の問題意識から、彼らは「居場所」を「喪失している」のではなく、現在彼らは自らの「居場所」を探し求めている途上にあるのだと捉えなおしたい。

 ここで問題であるのは、発展途上にあり、適切な導きを必要としている彼らに対して、社会が必要な「居場所」を提供できていないということである。

 そこにはもう一つの問題も関わっている。すなわち社会が彼らに適切な「居場所」を提供することができていない理由は、社会が子どもたちを「一人ひとりユニークな存在」であると捉えていないからではないかという問題である。

 もしそうであるならば、ここでは新しい、さらに深刻な問題が想起されてくる。

 その問題とは、現在「不登校」ではない児童生徒にとって、現状の学校が、果たして彼らに相応しい「居場所」であるのかどうかという問題である。

 加えて本間氏が指摘している通り、子どもたちにとって最も安全な「居場所」であるべき「家庭」が、現代においてはその役割を充分に果たすことができていないという現状がある。

 このように考えて行くと、問題はますます多く複雑になってくるように思われる。ここにおいては「不登校」とされる児童生徒たちの問題の枠を越えて、現代に生きる子どもたち全体に関わる、より大きく深刻な問題が顕にされたのである。

 しかし同時に、筆者の試みにとっては良い効果も現れてくる。

 つまり私たちが、或いは社会全体が、この問題を理解するならば、つまりこの問題は一部の子どもたちの問題ではなく、子供たちの社会全体、すなわちそれは私たち大人も含めた正に日本の社会全体の問題であると捉えるならば、「不登校」の状態にある児童生徒たちは一部の問題を抱えたある子どもたちであるという見方は無くなり、現在「不登校」とされている児童生徒たちも、またそうではない児童生徒たちも共に、現代の子どもたちは自ら「居場所」を探し求める旅の途上にある者たちであると捉えることができるのである。

 このような認識を社会一般の認識とするためには、日本の社会全体が、子供たちの健全な育成は全国民にとって果たすべき社会的な責任であるということをもう一度自覚し直す必要がある。

 そうすれば大人たちは、自分たちには子どもたち一人ひとりにとって相応しい最善の「居場所」を提供する義務があることを理解するはずである。

 この「居場所を探し求める子どもたち」というイメージによって、現在「不登校」とされている児童生徒たちを「一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると」解釈し、認識するという筆者の構築主義的アプローチは、一つの方向を得たと考える。

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