徹底的に包み給う神 ~望みなき者にこそ~
キリスト教会では「福音」という言葉が頻繁に用いられる。
また近年この言葉は、マンガやアニメ、TVドラマなどの中にも多く用いられている。
ところで読者は「福音」という言葉について、どのような理解を持っているだろうか?
私と同じキリスト教信仰を持つ読者は、「福音」がイエス・キリストのもたらした人間の救済に関わる「良き知らせ」を意味することを当然ご存知であろう。
しかし私としては、まず第一にこの「福音」という言葉が、意味も解らずに、或いはその意味を知識の上では知っていながら、その意味が捻じ曲げられたり、ファッションとして用いられたりするのが残念でならない。
またキリスト教信仰にとっては「福音」に関する理解、すなわち「福音理解」は、大変重要なものであり、これを深めることは一生涯を掛けた使命であるとも考えている。
そこで私はここで、私の「福音理解」に最も影響を与えている北森嘉蔵牧師の代表的著作『神の痛みの神学』から、次の記事を紹介したく思う。
我々が宣べ伝うべきことは、何よりもまず福音が文字通り喜ばしき音(おと)ずれであるということである。福音における神は、我々の痛みの解決者であり、我々の傷の癒し主であり給う。一言にしていえば彼は救主であり給う。救(すくい)とは何であるか。救とは、我々のこの破れたる現実を神があくまで包み給うという音ずれである。徹底的に包み給う神――これが救主なる神である。世にいかなる奇跡があろうとも、神が我々のこの破れたる現実を包み給うということ以上に驚くべき奇跡があろうか。我々の現実の破れは、望みなきまでに破れ果てたる破れである。しかし福音は、「望みなき者にも望みがある」という音ずれ、――否むしろ「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。
これこそ北森牧師の「福音理解」であったが、読んで解る通りこれはそのまま北森牧師の「神理解」である。
すなわち「福音理解」とは換言すれば、「救い主である神」とは、いったいどのようなお方であるのかということを知ることである。
そして私の信ずるところによれば「神を知る」ことは「神を畏れる」ことと一致する。
なぜならば、畏れるに足る神でなければ、その神に我々を救う力はそもそもなかったということになるからである。
天地万物を創造し、万軍の主と呼ばれる神は、まことに畏れるべきお方である。
この畏れるべき神が、我々人間を救うために、イエス・キリストという「ひとりの人」の姿となって我々を訪れた、それゆえに私は喜ぶのである。
ところで「福音」とは常に信仰者の足と声音を通して、我々もとの届くのである。
それゆえ「福音」は「良き訪れ」であるとともに「良き音ずれ」なのである。
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コメント
そうですよね。
福音の理解は信仰のすべてと言っても過言ではないですよね。
時に福音が「がんばり」になったり、また、「歌」になったり、レクリエーションになったりしますが、罪からの赦しと解放。
これが第一に伝えられなくてはいけないですね。
とても賛同します。
投稿: びすこ | 2010年2月15日 (月) 13時29分