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居場所を探し求める子どもたち

 ここではまず日本における不登校の現状について述べたい。

文部科学省は不登校を、「何らかの心理的,情緒的,身体的,あるいは社会的要因・背景により,児童生徒が登校しない,あるいはしたくともできない状況にあること」と定義している。

 また、平成4年3月の「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告「登校拒否(不登校)問題について」(以下「平成4年報告」とする)においては、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでもおこりうる」ことであるという認識が示されている。

 そして、同じ「平成4年報告」においては、不登校に対する対応について、「登校への促しは状況を悪化させてしまう場合もある」などの指摘もなされている。

 上述の現状を踏まえ、筆者は不登校について、児童生徒は、心理的、情緒的、身体的に発展途上の存在であり、その健全な育成は全国民にとって果たすべき社会的な責任であり、すなわち社会は彼らに愛護と適切な導きを提供する義務を負っていると考える。

 その上で、現在不登校に対して様々な私的、公的な対策がなされているにも関わらず、未だに大きな成果が得られていない点、すなわち効果的な対策が見つかっていない点が問題であると筆者は考える。

 第一にこの問題は複雑な要素を持ち、現在不登校の状態にある児童生徒の状態、またその背景は様々であるにも関わらず、対応する社会の側が「不登校」という言葉で一括りにして、対応を検討していることが、この問題に対する効果的な対策が見つからない原因であろう。

 またこの問題を「不登校」と呼ぶ場合、その対応の目指す方向はどうしても、現状の学校に登校することに設定される傾向があることも問題である。たとえそうでない場合にも「不登校」という言葉自体が「登校しない」「登校できない」というネガティブな要素を含んでいる。

 それでは一体何がなされるべきであるか。

 筆者はここで構築主義的なアプローチを試みたい。

 単純には、この問題について「不登校」に代わる用語と考え方を社会全体が持つべきである。

 すなわち現在「不登校」の児童生徒として一括りに理解されている子どもたちを、一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると社会全体が理解できる価値観を作りあげ、社会全体が、そのように解釈し、認識するように促すのである。

 しかし、このように社会の価値観を変革することは、一朝一夕に行えることではないし、政府やある一定の専門職集団や社会集団、或いは個人が動けば必ずそうなるというものではない。

 具体的には、この問題に関わる政府、専門職、社会、個人に対する啓蒙活動やソーシャルアクションを行うべきであるが、実際これは気の遠くなるような作業になるであろう。

 そこでここにおいてはまず、筆者自身が、現在「不登校」とされている児童生徒たちを「一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると」解釈し、認識することを試みたい。

 『不登校・ひきこもりと居場所』(ミネルヴァ書房 忠井俊明・本間友巳 編著)の第1章〔Ⅰ-2〕において本間友巳氏は、「不登校」と「ひきこもり」について「居場所」を喪失した状態であるとしている。また、ここでいう「居場所」とは、「人の発達や成長を支える場」であると本間氏は説明している。

 また本間氏は〔Ⅱ-1〕においては「居場所」について、「当事者にとって、何らかの意味をもつ空間でなければならない」と主張し、「居場所」の「もっとも基本的な意味」として「その人がなすべき行為や活動ではなく、存在そのものがその場に無理なく定位できるという存在論的な次元に関わるものである」と論じている。

 ここから「発達や成長を支える場」としての「居場所」を提供することこそが「不登校」並びに「ひきこもり」に対する相応しい支援となるというのが本間氏の主張の大筋である。

 また〔Ⅰ-3〕において本間氏は「居場所」としての「現代の家庭」について、「大幅に縮小し、それに伴い家族機能」が「きわめて限られたもの」となっていることに加えて「現代の消費中心の家庭のあり方は、家族の協力や協働をそれほど必要と」しなくなったこと、「その結果、成員間の関係」が「希薄なものとなりやすい」こと、また「同様の理由から、近隣や地域に対しても家庭を開く必要性もなくなり、家庭は外部に対して閉じることが多くなっている」ことを指摘し、そのために現代の「私的世界を重視する意識のあり方、すなわち私事化(Privatization)」が促進されていることを論じている。

 さらに本間氏は、その上で「不登校者やひきこもり者(を抱える家庭)」は「外部からの彼らへの積極的な支援を必要としている」とも述べている。

 本間氏による、現在「不登校」とされている児童生徒たちが、自らの「発達や成長を支える場」としての「居場所」を持っていないという主張に筆者は同意する。

 そこで、このことを筆者の問題意識から、彼らは「居場所」を「喪失している」のではなく、現在彼らは自らの「居場所」を探し求めている途上にあるのだと捉えなおしたい。

 ここで問題であるのは、発展途上にあり、適切な導きを必要としている彼らに対して、社会が必要な「居場所」を提供できていないということである。

 そこにはもう一つの問題も関わっている。すなわち社会が彼らに適切な「居場所」を提供することができていない理由は、社会が子どもたちを「一人ひとりユニークな存在」であると捉えていないからではないかという問題である。

 もしそうであるならば、ここでは新しい、さらに深刻な問題が想起されてくる。

 その問題とは、現在「不登校」ではない児童生徒にとって、現状の学校が、果たして彼らに相応しい「居場所」であるのかどうかという問題である。

 加えて本間氏が指摘している通り、子どもたちにとって最も安全な「居場所」であるべき「家庭」が、現代においてはその役割を充分に果たすことができていないという現状がある。

 このように考えて行くと、問題はますます多く複雑になってくるように思われる。ここにおいては「不登校」とされる児童生徒たちの問題の枠を越えて、現代に生きる子どもたち全体に関わる、より大きく深刻な問題が顕にされたのである。

 しかし同時に、筆者の試みにとっては良い効果も現れてくる。

 つまり私たちが、或いは社会全体が、この問題を理解するならば、つまりこの問題は一部の子どもたちの問題ではなく、子供たちの社会全体、すなわちそれは私たち大人も含めた正に日本の社会全体の問題であると捉えるならば、「不登校」の状態にある児童生徒たちは一部の問題を抱えたある子どもたちであるという見方は無くなり、現在「不登校」とされている児童生徒たちも、またそうではない児童生徒たちも共に、現代の子どもたちは自ら「居場所」を探し求める旅の途上にある者たちであると捉えることができるのである。

 このような認識を社会一般の認識とするためには、日本の社会全体が、子供たちの健全な育成は全国民にとって果たすべき社会的な責任であるということをもう一度自覚し直す必要がある。

 そうすれば大人たちは、自分たちには子どもたち一人ひとりにとって相応しい最善の「居場所」を提供する義務があることを理解するはずである。

 この「居場所を探し求める子どもたち」というイメージによって、現在「不登校」とされている児童生徒たちを「一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると」解釈し、認識するという筆者の構築主義的アプローチは、一つの方向を得たと考える。

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コメント

はじめまして。
またおじゃまします。

投稿: つばさ | 2010年1月22日 (金) 06時31分

はじめまして。
またお越しください。

投稿: トイフェルスドレック | 2010年1月22日 (金) 13時46分

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