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2010年5月

『ソーシャルワークの作業場 寿という街』 

非常に興味深い本があったので紹介したい。

ソーシャルワークの作業場―寿という街 Book ソーシャルワークの作業場―寿という街

著者:須藤 八千代
販売元:誠信書房
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はじめに

 本書は、現在愛知県立大学助教授(社会福祉学)である著者須藤氏が1995年から6年間の間、神奈川県横浜市中区に所在する一般に「ドヤ街」と呼ばれる簡易宿泊所の密集地、寿町を所管する中福祉事務所の保護課においてソーシャルワーカーとして活動した体験をもとに執筆されたものであり、著者はその体験から寿町を「ソーシャルワークを創出した貧困が、原型のまま存在する場所であり、生と死と病という人間の根源が剥き出しのままになっている場所」、「特別な福祉活動地区、ソーシャルワークの作業場である。」と表現している。

 因みに「ドヤ街」のドヤとは簡易宿泊所を意味し、「宿」を逆さに読んだ俗称であるといわれており、寿町は「ほぼ二五〇メートル四方の米軍の接収跡地に、九六軒ぐらいの簡易宿泊所が密集して」おり、「山谷、西成と並んで日本の三大簡易宿泊所(ドヤ)街」といわれている。

内容

 本書の序章は「新しい旅」と題されており、そこには著者が中福祉事務所に配属となった当時、「女性ワーカーの寿町訪問は、男性ワーカーの同行を原則とする」というルールの存在などから女性の職場としては危険視されていた状況と、それにまつわって「忘れられない事件」として著者の知人の女性ワーカーが殺人事件の被害者になった「一つの事件」についても語られている。

反面著者は寿町を「ソーシャルワークの実践感覚を刺激する格好の場所」と捉え、「ソーシャルワークの最前線」に立ち、「絶え間なく展開し続ける作業の渦の中に入っていった。」

 具体的な活動内容としては「テーマ研究・寿地区・ホームレス問題と横浜中福祉事務所」、「寿地区の地域ケアをめぐる情報交換ミーティング」などがあり、前者は「ニューヨーク市のホームレス問題プロジェクトがまとめた報告書」の翻訳とともに七人のケースワーカーによる「グループ討議」を行いその内容を小冊子にまとめた形になったようであるが、著者はその作業の中で、「さまざまな社会の仕事のなかの、辺境におかれた仕事の部署で、深い思索が重ねられていることがわかってきた。」という感想を持ったと書かれている。そこで著者が語りたかったのは著者が「ソーシャルワークの責任」と表現するソーシャルワークの価値であったと思う。

 また本書では、著者がある期間「寿労働センターの会議室で開かれる、AAのオープン・ミーティングに参加することを仕事の柱にした」経験についても1章が裂かれている。

 そして何よりも本書の大部分を占めるのは、ソーシャルワークの実践の中で出会った寿町に生き、そして死んで行った人々との経験である。ここでも突き詰めてしまえば著者の主題は、社会福祉専門職としての価値、つまりその人々の「怒りや憎しみや悲しみ。ときに喜びや美しさなど」と一人の人間としていかに向かい合って行くのかということであったと思う。そして著者は、「人間の命を慈しめ」という結論に至ったようである。

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「わがまま」で「可憐」なひとりの人間として

「知ることと考えることとの間には埋め得ない大きな溝がある。人はよくこの溝を無視して、考えることによって知ることに達しようとはしないだろうか。私はその幻覚にはもう迷うまいと思う。知ることはできない。が、知ろうとは欲する。人は生まれるとただちにこの「不可能」と「欲求」との間にさいなまれる。不可能であるという理由で私は欲求をなげうつことができない。それは私としてなんというわがままであろう。そうして自分ながらなんという可憐さであろう。」

有島武郎著『惜しみなく愛は奪う』より

この言葉は実存的な人間の内面をなんと見事に表現していることだろうか。

確かに私は「考えることによって知ることに達しようと」する存在である。そしてその挙句にこともあろうか、現実には知りもしないことをあたかも「知っているつもり」になってしまうのである。

それはまさに「幻覚」である。

それに対して「知ることはできない」と断言するというのは、なんという潔さであろうか。

この潔さを私は謙遜と呼ぶことはできない。なんとなればそれは事実であるのだから。

私はこれまで謙遜は、この上ない人間の美徳であると考えてきた。

しかし今は謙遜とは、キリスト者である私にとっては神の美徳であると「考えている」。

なんとなれば、本来高きにある者がへりくだることを謙遜というのであって、事実、今まさに低きにある者は、へりくだることはできないのであるから。

ここで私に必要なのは自分自身の低さを「知る」ことであろう。

しかし私は果たして自らが低き者であることを「知る」ことができるであろうか。

答えは否である。

私は私が低き者であると「考える」ことはできる。しかし「知ることはできない」のである。

事実私は、自分が低き者であると「考えている」まさにその瞬間にも、そのように「考える」自分に対して誇らしい感情を抱いている。

しかし、誇らしいとは自らを高い者として「考えている」ときに感じる感情である。

そこで私は今、自らが低き者であることを「知りたい」と欲する。

「不可能であるという理由で私は欲求をなげうつことができない」のである。

「それは私としてなんというわがままであろう。そうして自分ながらなんという可憐さであろう。」

そして私はこう「考え」ずにはいられない。

私は神の御前で「わがまま」で「可憐」なひとりの人間なのだ。

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