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「わがまま」で「可憐」なひとりの人間として

「知ることと考えることとの間には埋め得ない大きな溝がある。人はよくこの溝を無視して、考えることによって知ることに達しようとはしないだろうか。私はその幻覚にはもう迷うまいと思う。知ることはできない。が、知ろうとは欲する。人は生まれるとただちにこの「不可能」と「欲求」との間にさいなまれる。不可能であるという理由で私は欲求をなげうつことができない。それは私としてなんというわがままであろう。そうして自分ながらなんという可憐さであろう。」

有島武郎著『惜しみなく愛は奪う』より

この言葉は実存的な人間の内面をなんと見事に表現していることだろうか。

確かに私は「考えることによって知ることに達しようと」する存在である。そしてその挙句にこともあろうか、現実には知りもしないことをあたかも「知っているつもり」になってしまうのである。

それはまさに「幻覚」である。

それに対して「知ることはできない」と断言するというのは、なんという潔さであろうか。

この潔さを私は謙遜と呼ぶことはできない。なんとなればそれは事実であるのだから。

私はこれまで謙遜は、この上ない人間の美徳であると考えてきた。

しかし今は謙遜とは、キリスト者である私にとっては神の美徳であると「考えている」。

なんとなれば、本来高きにある者がへりくだることを謙遜というのであって、事実、今まさに低きにある者は、へりくだることはできないのであるから。

ここで私に必要なのは自分自身の低さを「知る」ことであろう。

しかし私は果たして自らが低き者であることを「知る」ことができるであろうか。

答えは否である。

私は私が低き者であると「考える」ことはできる。しかし「知ることはできない」のである。

事実私は、自分が低き者であると「考えている」まさにその瞬間にも、そのように「考える」自分に対して誇らしい感情を抱いている。

しかし、誇らしいとは自らを高い者として「考えている」ときに感じる感情である。

そこで私は今、自らが低き者であることを「知りたい」と欲する。

「不可能であるという理由で私は欲求をなげうつことができない」のである。

「それは私としてなんというわがままであろう。そうして自分ながらなんという可憐さであろう。」

そして私はこう「考え」ずにはいられない。

私は神の御前で「わがまま」で「可憐」なひとりの人間なのだ。

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