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2010年10月

『キリスト教信仰和讃 その二』

 振り返ると3年以上この詩についての記事を書き続けている。しかしこの詩は、私にとっていつまでも古くならず、新鮮な気づきと喜びをを与え続けている。

 『キリスト教信仰和讃 その二』を初めて記事にするに当って、ここで改めて、「その一」と並べて『キリスト教信仰和讃』の前文を収めたいと思う。

『キリスト教信仰和讃』

その一
一、天と心にすむ神の、み声を心でよく聞いて、
 働きましょう、学びましょう、
 善きことしましょう、どこにても。

二、人は神の内に住み、神は人のうちに住む、
 魚と水との如くにて、人と神とは一体だ。

三、人を大事にしているは、神を大事にするのです、
 人を粗末にしているは、神を粗末にするのです。

四、小さい小さい親切も、天と心に住む神は、
 一つ一つ喜びて、一つ一つむくいます。

五、神のむくいが来る時は、おそい早いはあるけれど、
 おそい時にはおそいほど、神のむくいは多くなる。

六、苦しい時には神さまに、ただちにお祈り致しましょう、
 楽しい時には神さまに、ただちにお礼を申しましょう。

七、もし間違いをした時は、ただちにおわびを致しましょう、
 天と心に住む神は、必ず聞いてくだされる。

その二
一、正しい賢い福(さいわ)いな、人になろうと思うたら、
 気のつくことは直(じき)になし、気が咎(とが)めたらせぬがよい。

二、気のつくことも咎むるも、親がその子を守るよう、
 夜でも昼でも神さまが、我らを守るみ声です。

三、釈迦も孔子もキリストも、ソクラテースも皆ともに、
 気のつくことは直になし、気が咎めたらせぬのです。

四、大事小事の区別なく、出来ない時にはお祈りし、
 気のつくことはせにゃならん、気が咎めたらしちゃならぬ。

五、マーとかシカシなど言うて、気のつくことを直にせず、
 咎むることをするならば、いつも後悔するばかり。

六、何でも何処でも何時にても、気のつくことは直になし、
 咎むることをせぬならば、決して後悔いたしません。

 このように改めて通して読むと、その内容の深さと解りやすさ、韻律の美しさ、また作者である吉田清太郎牧師の神と人、また子供たちに対する愛情の深さが実感させられる。

 また「その一」については、長々と時間を掛けて不遜にも「解説」などと称して色々なことを書いたが、今にして思えばそれらは「解説」などではなく、この素晴らしい詩に対する私の「応答」であり「黙想」のスケッチであったように思う。

 それも不完全で稚拙なスケッチであった。

 それでも一度始めたことなので、一先ずはスケッチを続けたいと思う。

 前回に見たように「その一」の主題はこの詩の第一節、第一の言葉である「天と心にすむ神」、すなわち「偏在するとともに信仰者一人ひとりのうちに内在される神」であり、この神と私たち信仰者の関係についてが詳しく語られていた。

 それでは「その二」の主題は何であるかと言えば、それはやはり「その二」の第一節、第一の言葉である「正しい賢い福(さいわ)いな、人になろうと思うたら」である。

 ここから、もし「その一」を非常に単純化して、「神と人との関係を示す」ものと考えるとすれば、「その二」はそれでは「人は如何にして生きるべきかを示す」ものと考えることができると思う。

 このように考えると、この『キリスト教信仰和讃』が益々素晴らしい構成をもった詩であるということが解る。

 なぜならば、最初に、「神と人との関係」を示し、その後に「人は如何にして生きるべきか」を示すという構成は、聖書に見られる「十戒」や「主の祈り」と共通するからである。

 「その二」の主題が「人は如何にして生きるべきか」だとすると、それを展開させる鍵句(キーワード)は「気のつくことは直(じき)になし、気が咎(とが)めたらせぬがよい。」である。

 はっきり言えば「その二」は、「その一」以上に単純で解りやすい内容であり「気のつくことは直になし、気が咎めたらせぬ」という鍵句の繰り返しで、この一事だけを奨励しているのである。

 「気のつくことは直になし、気が咎めたらせぬ」、これが、私たちの生涯を「正しい賢い福(さいわ)いな」ものにするために唯一心に留めるべきことなのであると吉田牧師は勧めているのである。

 しかしこの単純な行動の使信を実行することのなんと難しいことか。

 それで私たちの人生は「いつも後悔するばかり」である。

 だからこそ私たちは「その一」に示されている神との関係へ帰って往かざるを得ないのである。

 現時点では『キリスト教信仰和讃』 についての、私のスケッチは語り尽くされたように思う。

 以後機会があれば、禅者牧師、吉田清太郎師のその他の言葉なども記事にして行ければと考えている。

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見えぬけれどもあるんだよ

そういえば、大好きな金子 みすゞさんの詩を一度も記事にしていなかった。

星とタンポポ

青いお空のそこ深く
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでる
昼のお星は目に見えぬ

見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

散ってすがれたタンポポの
川原のすきにだぁまって
春のくるまで隠れてる
強いその根は目に見えぬ

見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ

目には見えなくても確かに存在するものがこの世にはある。

とても単純なことだけれど私たちはついついそのことを忘れてしまう。

だからこそこの詩に出会うとき、私たちは「本当にそうだ!」と納得し、微笑まずにはいられない。

「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」

なんて素敵なことだろう。

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Forget your perfect offering

 これは前回の記事で紹介したレナード・コーエンの『Anthem』の歌詞の一文である。

 Forget your perfect offering.

 There is crack in  everything.

 That’s how the light get in.

 この文章を私は次のように訳した。

 貴方のなんの瑕疵(かし)もない供物(くもつ)のことは忘れてしまおう

 あらゆるものには疵(きず)があり、

 そこから光が入ってくるのだから

 語学力も詩心もない私であるが、キリスト教信仰者として、敬虔なユダヤ教の背景を持つ稀代の詩人であるレナード・コーエンのこの詩の言の葉に心動かされた人間として、どうしてもこの言葉から私が受け取っているメッセージを一人でも多くの人に伝えたいと考えたのだが、身の丈を越えたことをしてしまったようにも思う。

 しかし、私の訳はともかくとして「Forget your perfect offering」という言葉と、それに続く「There is crack in  everything.」「That’s how the light get in.」という一連の言葉は、神の御前に生きる「ひとりの人間」としての私の心に深く刻み込まれている。

 「offering」とは文字通りには「提供されるもの」であるが、英語の聖書においては、神への「供え物」や「いけにえ」という意味で用いられている。

 「供え物」或いは「いけにえ」という言葉は、一般の日本人には全くなじみのない言葉であろうが、繰り返しになるが、敬虔なユダヤ教の背景を持つコーエンが『Anthem』と題して書いている詩においては、「offering」をその意味で用いていることについては疑いの余地もない。

 ここで問題となるのは、ここで忘れるように進められている「perfect offering」とは一体いかなる意味であるのかということである。

 私の理解では、聖書はある意味では、私たち信仰者に対して、私たちの全生涯を「きずのない完全ないけにえ」として神の御前におささげするようにと勧めている。

 その意味では信仰者こそ神にささげられるべき「perfect offering」なのである。

 しかし「いけにえ」とは「ささげられるもの」すなわち客体であって、「ささげる」主体あってこその存在である。

 旧約聖書の時代、「礼拝」において「いけにえ」を「ささげる」主体は祭司であった。

 では現代においてはどうか。

 マルティン・ルターによる宗教改革以降のプロテスタントの伝統によれば、「万人祭司」という言葉で表現される通り、すべての信仰者が祭司であるとされている。

 つまりここにおいては神にささげられる客体としての「いけにえ」である信仰者が、同時に「いけにえ」をささげる主体、すなわち「祭司」でもあるという矛盾が発生しているのである。

 しかし、このような矛盾を実現することこそが、実はキリスト教の最大の特徴の一つであり、他の宗教には見られないユニークさでもあると、私は確信している。

 これは、同じ旧約聖書を正典とするユダヤ教やイスラム教にも見られない特徴である。

 なぜならば、このような矛盾を克服するダイナミックさは、正当なキリスト教のみが持つ、三位一体の教理に由来するからである。

 込み入った専門の話は控えるが、ともかく三位一体の神秘とは、我々には完全には理解できないものであるが、しかし、信ずるに価する論理性とともに、長いキリスト教の歴史の中で、多くの試金石によって試されてきた真理である。

 まさに、これなくしてはキリスト教信仰はありえないというような代物である。

 ここで話を「祭司」と「いけにえ」に戻したい。

 私の理解では「きずのない完全ないけにえ(perfect offering)」として私の全生涯を神の御前にささげることを可能にするのは、私の内におられる「神の霊」すなわち三位一体の一位格である「聖霊」の働きである。

 しかし、私は時々このことを忘れて、私自身の力でそれを行おうとする。

 それはいわゆる「善行を積む」というやり方や、「熱心に祈る」という方法で行われる。

 しかし、そこには神に対する「見せびらかし」があるだけであり、聖書が「真の礼拝」の条件としてあげている「霊とまこと」は見られないのである。

 その時、私の心に響いてくる言葉こそ、コーエンの「Forget your perfect offering」である。

 すなわち「your perfect offering」とは、私にとっては「お前が完全だと考えている自分勝手ないけにえ」という意味なのだ。

 「そんなもののことは忘れてしまえ」という言葉が天から降ってくるのである。

 「この世はひび割れだらけで、お前のひび割れはその中でも一番ひどい、しかし、歓べ、そのひび割れから、お前の世界に光は満ち溢れるのだ。」

 「そしてその光とはイエス・キリストの救いの光だ」

 Ring the bells

 That still  can ring.

 Forget your perfect offering.

 There is crack in  everything.

 That’s how the light get in.

 「鐘を鳴らせ、それが鳴り響くかぎり」

 「お前の自分かってないけにえなど捨てて、忘れてしまえ」

 「そしてお前自身のひどいひび割れ、すべての傷口から溢れ出る光を受け入れろ」

 「鐘の音を響かせるのだ、歓びの鐘の音を」

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Leonard Cohen - Anthem

※「Anthem」=「アンセム(アンサム)」は、日本ではあまりなじみのない言葉ではあるが、一般的には「賛美歌」や「聖歌」と訳される言葉で、広義には特定の集団のシンボルとしての賛歌、応援歌という意味にも用いられている。

ここで紹介しているのは「Hallelujah」に引き続いてレナード・コーエンの「Anthem」である。

以下は私がとても気に入って、後半部分は座右の銘にもしているサビの歌詞である。

Ring the bells

That still  can ring.

Forget your perfect offering.

There is crack in  everything.

That’s how the light get in.

鐘を鳴らそう

それができるうちに

貴方のなんの瑕疵(かし)もない供物(くもつ)のことは忘れてしまおう

あらゆるものには疵(きず)があり、

そこから光が入ってくるのだから  ※私訳

私としては、レナード・コーエンは、この「Anthem」によって疵(きず)のある私たち人間一人ひとりの生(レーベン)を賛美しようとしているのではないだろうかと考えている。

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Hallelujah - Leonard Cohen

「Hallelujah」 - Leonard Cohen

Maybe I've been here before
I know this room, I've walked this floor
I used to live alone before I knew you
I've seen your flag on the marble arch
love is not a victory march
It's a cold and it's a broken hallelujah

Hallelujah, Hallelujah
Hallelujah, Hallelujah

There was a time you'd let me know
What's real and going on below
But now you never show it to me do you?
Remember when I moved in you?
The holy dark was moving too
And every breath we drew was hallelujah

Hallelujah, Hallelujah
Hallelujah, Hallelujah

Maybe there's a God above
And all I ever learned from love
Was how to shoot at someone who outdrew you
It's not a cry you can hear at night
It's not somebody who's seen the light
It's a cold and it's a broken hallelujah

Hallelujah, Hallelujah
Hallelujah, Hallelujah
Hallelujah, Hallelujah
Hallelujah, Hallelujah (映像では即興部分もありこちらにない部分もあります)

世に「Hallelujah」と題された曲は数多あるけれど、私が最も愛するのはこの「Hallelujah」だ。

私はプロテスタントの信仰者であり、毎週主日(日曜日)に教会へ行き賛美歌を謳っている。

クリスマスの時期にはできれば「メサイア」の公演に出かけたいと願っており、そのクライマックスである「ハレルヤ・コーラス」には心震える。

私は信仰を持つ以前からレナード・コーエン(Leonard Cohen) の熱心なリスナーであったと思う。

プロテスタント信仰を持ち、その信仰者の心で聞いた今、この「Hallelujah」こそ、天の御使い(天使)ならぬ身である、この世の現実の中に生きる「ひとりの人間」としての信仰者が心から捧げられる、真実の神への賛美(Hallelujah)であると確信している。

つまり、私たちが日々捧げる賛美は、「It's a cold and it's a broken hallelujah
(それは冷たく、途切れがちのハレルヤ)」なのである。

これは決して不信仰ではない。

真摯な信仰者の現実の姿であると思う。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。        詩篇 34:18

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。 詩篇 51:17

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真の贅沢ということ

 私の好きな言葉の一つに、「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係という贅沢だ。」というものがあります。

 これは『星の王子さま』の著者としても有名なサン=テグジュペリの言葉です。

 良い人間関係こそが、私たち人間にとって唯一の真の贅沢であるというこの言葉に心から同意できる人はなんと幸せだろうかと私は思います。

 回りくどい言い方ですが、これは私自身が、まさに「幸せ者」であると感じているということです。

 ところで、世の中には「人脈がある」「顔が広い」など、一般に人間関係に恵まれた人を指して用いられる言葉が幾つかあります。

 しかし、私自身は、そのような意味では、決して豊かな人間関係を持っているとは言えません。

 私は私の友人たちのことを「私の人脈」などとは、とても言い換えることはできませんし、また、私は一般的な意味での「顔が広い」というタイプではありません。

 実はかつての私は、いわゆる「良い人脈」を出来るだけ多く持つということや、誰からも好かれる「顔が広い」人に憧れていました。

 それはただ憧れていたというだけでなく、現実そうなるように、努力もしていました。

 私は、私の目に有力と思われるような人に出会うと、なるべく自分を良く見せようと自分を売り込むような態度を取りましたし、また誰からでも気に入られようと考えて、いわゆる「八方美人」として同僚や友人と接していました。

 事実友人たちは私を「八方美人」と呼び、私はそれを誉め言葉と考えていました。

 私は、24歳の時に洗礼を受けましたが、そのような傾向は信仰を持ってもしばらくは変わらなかったと思います。

 それがいつ頃からか、私のそういった傾向は段々無くなって来ました。

 そのような私の内面の変化は間違いなく私の信仰によって引き起こされていることですが、私がどこかのタイミングで、考え方を変えようと決心したということではありませんでした。

 ただ気が付くと、いつのまにか変化していたようです。

 このことについて考えてみた時、私は信仰によって「満ち足りる心」が与えられたのだということに気が付きました。

 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 

                                     Ⅰテモテ6:6

 そして、繰り返しになりますが、今の私は、最初に紹介したサン=テグジュペリの言葉に表現されているような意味での「真の贅沢」と呼べるような「人間関係」を持っていると確信しています。

 「贅沢」という言葉を辞書で調べると「限度や、ふさわしい程度をこえること」と書かれてありました。

 私は、今私に与えられている人間関係を、まさに私に「ふさわしい限度や程度をこえたもの」だと心から感じています。

 その人々は、私に無償の厚意を与えて下さり、私のために祈り、励まして下さる人々です。

 ごく近くにいる人もいますし、物理的には遠く離れている人もいます。

 その人々は、はじめに私の友となり、のちにはそれ以上の存在となりました。

 今では、その人々は私の兄弟であり姉妹です。

 また私には、まったくふさわしくない一人の特別に素晴らしい友が与えられています。

 その方は、イエス・キリストその人です。

 神との関係を「人間関係」と呼んでよいのか、私には解りませんが、聖書によれば、イエス・キリストは私たちのことを、確かに「友」と呼びました。 

 これこそ「真の贅沢」だと私は思います。

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人生の素敵なことは、だいたい最後のほうに起こる。

優れた物語には人生の謎を解き明かしたり、人に生きる希望を与える素晴らしい力があると思います。

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