« アンデルセン自伝~わが生涯の物語~より | トップページ | 大漁~金子 みすゞ »

「ひとりの人」の哲学

 NHKの番組『ハーバード白熱教室@東京大学』において講師であるハーバード大学の政治哲学の教授マイケル・サンデルは次のような言葉でその講義を閉じていた。

 「哲学は不可能である、しかしこれを避けることはできない。そして、哲学は世界を変えることができる。」

 講義の内容から考えて、ここでの「哲学」という言葉は、世界に存在する、いろいろな難しい問題について、いったい何が「公平」或いは「正義」であるのかを、自分とは違う考えを持つ人々と話し合う、すなわち「対話」をするということであると、私は理解している。

 このような意味での「哲学」が不可能であるというのは、この「対話」自体が不可能であるというのではなく、この「対話」によって絶対的な一つの結論を引き出すことが不可能であるという意味である。しかし同時に、このような「対話」をすることは避けることができない、むしろ大いに必要なことである。そしてこのような「対話」こそ、世界を変える力を持っているのであるとサンデル教授は言っていたのだと思う。

 私はこの言葉に大変感銘を受けた。

 なぜならば、このサンデル教授の言葉は、常日頃私の考えていることと一致していたからである。

 非常に大雑把に捉えて「哲学」が「対話」であるということに私は大筋で同意する。

 事実、歴史上もっとも代表的な哲学者の一人であるソクラテスの哲学の方法は「対話」であった。

 この哲学の方法としての「対話」は、一般に「弁証法」と呼ばれている。

 ここで一言述べておきたいことは無数に存在し、また今後無数に名付けて行くことが可能である細かい哲学の方法やその特性を解説することは私の意図ではないし、そのようなことは私には不可能であるし、またそれが私にとって、さしあたって重要な意味を持つことでもない。

 サンデル教授が講義を結ぶに当って、もう一つ感銘深い言葉を語っている。

 私の記憶からその言葉を正確に引用することはできないが、その内容はだいたい次のようなものである。

「このような「対話」が、今日私たちにできたのであるから、これは今ここにいる私たちにだけできることだとは考えられない。」

 これを私の言葉で言い換えれば「哲学は誰にでも可能である」ということである。

 さらに最初に引用した言葉との関連で言えば、本来、すべての人間にとって、すなわちこの世界に存在する一人ひとりにとって、哲学は避けることのできないものであると、サンデル教授は示唆しているのであると私は考えるし、また私はそれに同意する。

 そこで私も哲学するのであるが、その方法はやはり「対話」であり「弁証法」である。また私は「物語」を愛し、哲学する上でも「物語」におけるシンボルという意味でのモチーフを重視したい。

 そして私の哲学のモチーフは「聖と俗の狭間で生きるひとりの人」である。

 哲学が対話であることを意識しつつも、そのモチーフを「ひとりの人」とするのは、勿論理由あってのことである。

 その理由とは、私はひとりの人間が他者との「真の対話」をするためには、まずその人間が「他者と出会う」ことができる「ひとりの人」でなければならないと考えているからである。

 ユダヤ系宗教哲学者であるマルティン・ブーバーは、その主著『我と汝』において、世界は、人間が世界に対してとる態度によって二重の意味、或いは様態を持つことを論じている。

 以下は、正確な引用ではなく、私の解釈によるものであるが、第一の態度は「我と汝」というものであって、この態度によって人間にとって世界は「関係の世界」という様態を持つ。対して、人間が世界に対して「我とそれ」という態度をとる場合、人間にとって世界は「経験の世界」という様態を持つのである。

 このブーバーにおける「関係の世界」においてのみ人間は他者と真に「出会う」ことができ、且つそこで初めて「対話」が可能になるというのが私の考えである。

 そして他者を「汝」と呼ぶことことができるのは、自分自身が他者にとって「それ」ではなく「汝」であると知っている者だけである。

 つまり人間が他者を「汝」と呼ぶためには、その前にまず自分が「汝」と呼ばれなければならないのである。

 ところで私は「愛」だけが、他者を「汝」と呼ぶことを可能にすると考える。

 つまり「愛」だけが他者を、世界を「経験する」ための手段としての「それ」と呼ぶことを拒否するのであると。

 したがって「汝」と呼ぶものは「汝」と呼ばれるものを愛する者なのである。

 我々人間はこの地上に生まれるとすぐに他者との関係の中に立たされる。

 すべての人間にとって最初の他者とは母親であり、通常これは両親すなわち、父母となる。

 そして父母は我々を「名付け」てのち、愛情を込めて何百回、何千回とその「名」を呼ぶのである。

 父母が我々の名を呼ぶとき、我々は父母にとって「それ」ではなく「汝」である。

 しかし、これらのことは残念ながら、世の真理として常にそうであるとは限らない。

 私がこう言うのは、近年社会問題となっている児童虐待だけを背景に言っているのではなく、人類の歴史を見れば、「親」が「子」を自らの所有物として扱ってきた例は無数に存在するのである。

 「絶対的な愛の関係」のモチーフであるべき「親と子」の関係が、現実においてはそのようなものであるとしたら、我々はいったい「愛」をどこに求めればよいのだろうか。

 ここで話題を「哲学」と「対話」に戻したい。

 「哲学」すなわち「対話」は避けられないものであり、絶対的に必要なものなのであるというのが私の考えである。

 もしそうであるならば、「愛」もなければならないのである。

 そこでユダヤ人であるブーバーが『我と汝』に神を登場させているように、キリスト者である私もまた、神を登場させるのである。

 キリスト教の神(キリスト教の考えではブーバー(ユダヤ教)の神と同一である)は「愛の神」、すなわち「愛する神」である。またこれを別の見方から「呼び出す神」と読んでも良い。

 キリスト教における「教会」を意味するギリシャ語「エクレーシア」とは語源的には「呼び出された者たち」 という意味を持っている。

 ともかく私の神は「愛する神」「呼び出す神」である。

 ここに私が、私の哲学のモチーフを「ひとりの人」とする理由がある。

 なぜならば「愛」とは排他的なものであると私が考えるからである。

 神が私を愛するのは、神が漠然と全人類を愛しているからではなく、あらゆる他者から区別された私という「ひとりの人」を愛しているのである。

 またもしそうでないなら、私は神に愛されているとは考えられないし、それでは私が神を愛する理由にはならないからである。

 神は多くの人間の中から私という「ひとりの人」に目を留めて私の名を呼んで下さったのである。

 そしてこの呼び声を聞くために、私は「ひとりの人」でなければならなかったとも考えている。

 つまり私があらゆる他者の中に埋没してしまい、「自分という存在」に向き合わないならば神の呼び声は私の耳に届かないのである。

 ここにおける「ひとりの人」とは、他者から離れる者、すなわち「静まり(ソリチュード)の中にある者」という意味である。

 この「ひとりの人」という私の哲学のモチーフについて、恐らく私は限り無く論じることが出来るであろうし、或いは論じつくすことは不可能であろう。

 ここまでで示した「ひとりの人」というモチーフを、私は多くのキリスト教著作家たちの著作から得ている。

 その代表的な名前を挙げれるとすればジェームズ・フーストン、ヘンリ・ナウエン、キェルケゴールなどがそうである。

 中でもこの記事の内容にもっとも深く関連するのはナウエンである。

 ナウエンの『愛されている者の生活』という著作があるが、その中で語られている「愛されている者」のイメージは、この記事の後半における「ひとりの人」のイメージに非常に近いものである。

 ここから、私の「ひとりの人」の哲学は「愛されている者」の哲学であることを述べて一先ずの結びとしたい。

にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

|

« アンデルセン自伝~わが生涯の物語~より | トップページ | 大漁~金子 みすゞ »

独白ではなく、対話として・・・」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/415506/37633878

この記事へのトラックバック一覧です: 「ひとりの人」の哲学:

« アンデルセン自伝~わが生涯の物語~より | トップページ | 大漁~金子 みすゞ »