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「ひとりの人」について

 さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。  マルコ1:35

 独りきりになれる場所を持たなければ、自分の生活が危うくなることに、わたしたちはうすうす気づいています。沈黙なくして語られる言葉は、その意味を失うこと、聴くことなくして語られる言葉は、もはや癒す力がないこと、そして、隔たりを持たない近さは救済(キュア)をもたらさないことを、どこかで分かっているのです。独りきりになる場所を持たないと、何をしたとしてもたちまち内実の伴わない見せかけになってしまうことを、すでにわたしたちは知っています。沈黙することと語ること、離れ退くことと深く関わること、距離を取ることと近づくこと、独りになることと共同体に生きること、これらの間に注意深くバランスを保つことは、キリスト者生活の土台を築くものです。                          ヘンリ・ナウエン〔著〕『静まりから生まれるもの』より

 私の生涯のテーマは「ひとりの人」として生きるというものである。

 この「ひとり」とは「独り」であり「一人」でもある。

 英語では「independent」「individual」「personal」「private」などの概念を併せ持つ「ひとりの独立した人格」としての「ひとりの人(person)」である。

 そこで私は、上で引用した「独りきりになれる場所」についての言葉は、単にキリスト者の生活の土台であるに止まらず、私の志向する「ひとりの人」として生きるための土台であると考えている。

 また私は人間が真に「独りきり」になるためには、単に空間的に「離れ退いて」「独り」になるだけでは十分ではないと考える。

 むしろ、日常生活の只中において、人々に囲まれていたとしても、心の中に「独りきりになれる場所」を持っていなければならないと考えている。

 しかし、そのような「独りきりになれる場所」を心の中に持つためには、日々の生活の中で、空間的な「独りきりになれる場所」を、時間的に確保する必要があることをも認めている。

 キリスト者である私にとって、そのような生活のもっとも良い模範は冒頭に引用した聖書の中のイエス・キリストに関する記述である。

 イエス・キリストは、そのように時間的にも空間的にも「独りきりになれる場所」を確実に確保していたため、その内面に、誰にも壊すことも奪うこともできない、「独りきりになれる場所」を持っていたのであると私は考える。

 しかも、イエス・キリストは、その「独りきりになれる場所」において、父なる神と共におり、さらにキリストは、今この時も、彼の救済すべき全人類を「その場所」に招いているのである。

 私の考える「ひとりの人」とはそのような者のことである。

 すなわち「独りきりになれる者」であると共に「すべての者と共にいることができる者」である。

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