« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月

天には栄え~Hark! The Herald Angels Sing~

天(あめ)には栄え 御神(みかみ)にあれや
地(つち)には安き 人にあれやと
御使(みつか)い達の たたうる歌を
聞きて諸人(もろびと) 共に喜び
今ぞ生まれし 君をたたえよ

定め給いし 救いの時に
神のみくらを 離れて降(くだ)り
いやしき賎(しず)の 処女(おとめ)に宿り
世人(よびと)の中に 住むべきために
今ぞ生まれし 君をたたえよ

朝日のごとく 輝き昇り
御光(みひかり)をもて 暗きを照らし
土より出(い)でし 人を生かしめ
尽きぬ命を 与うるために
今ぞ生まれし 君をたたえよ

賛美歌98

この賛美歌の原曲である「Hark! The Herald Angels Sing」は、英国国教会の信仰覚醒運動であるメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーの弟であるチャールズ・ウェスレー作詞による、世界中で最も愛されているクリスマス・キャロルの一つである。

そして日本においても多くの訳詩が存在し、キリスト教会ではこの時期、必ずといっていいほど歌われている。

中でも、私が最も気に入っている訳詩が上に紹介したものである。

最近新たに訳しだされたものには、もっと原詩に忠実なものがある。

しかし、言葉の美しさと詩情、また詩としての言葉遣いの巧みさにおいて、この訳詩は最高のものであると、私は個人的に確信している。

なにより、先日私が『この聖き夜に~キリエ・エレイソン~』という記事において黙想した、「世に降りながらも、光として輝き昇った」というキリストにおけるクリスマスの「黄金の道」をはっきりと指し示しているのである。

いやむしろ、私は「黄金の道」について、先日は無自覚に黙想していたのであるが、改めて考えれば、その黙想は、私の心に沁み込んでいたこの賛美歌98の歌詞から浮かび上がってきたものであったのである。

クリスマスの夜、キリストは「神のみくらを 離れて降(くだ)り」ながら、しかし「朝日のごとく 輝き昇」ったのである。

この訳詩の訳者は、残念ながら不詳である。

しかし、歓ぶべきことは、この「降りつつ昇る道」は、昔から日本人キリスト者たちの霊性のうちに深く根を下ろしてきた真理であったということである。

このことの故に、私は日本人キリスト者として、日本語によって、日本的な霊性を築き上げられていることを、心から主に感謝している。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。   
使徒の働き17章26節、27節

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。
すべての民が、「アーメン」と言え。
ハレルヤ。   詩篇106編48節

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

この聖き夜に~キリエ・エレイソン~

この聖き夜に、
われらに代わりて
苦しみ負うため、
御子は生まれたもう。
キリエレイソン。

この夜 世界は
よろこび祝えど、
馬小屋の御子の
ゆくては十字架。
キリエレイソン。

こよい誰(たれ)か知る、
まぶねのかたえに
墓は備えられ
死の日を 待てるを。
キリエレイソン。

貧しき ふしどに
まどろむ みどり子、
その身に負いたもう
われらの審(さば)きを。
キリエレイソン。

よみがえりの朝、
はじめて われらも
み顔を仰ぎて
心より歌わん。
主にホサナ。

讃美歌21 273 「この聖き夜に」

※「キリエレイソン」は「キリエ・エレイソン(主よ、私たちを憐れんでください)」の短縮形。

キリスト教会では時折、「クリスマスには悲しむべきである」ということが語られる。

その理由は引用した歌詞を見れば明らかであろう。

救い主、御子イエス・キリストはその夜、十字架にて死するためにこの世に降ったのである。

しかしその夜、マリアもヨセフも、羊飼いたちも、そして御使い(みつかい)たちも皆、歓んだのである。

それは何故か。

それはキリストが暗闇に昇る光として世に来たからである。

キリストはその夜、世に降りながらも、光として輝き昇ったのである。

その夜以来、この降りつつ昇る道は眩しいほどに輝いている。

まさに黄金の道である。

この道を知ったので、今、私は歓んでいる。

どうか主よ、あなたの豊かな憐れみによって、私たちをあなたの黄金の道に導き入れ給え。

そして、私たちのよみがえりの朝に、み顔を仰ぎつつ、歓びの歌を歌えますように。

キリエ・エレイソン!(主よ、我らを憐れみ給え!)。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クリスマスの鐘

はやキリスト誕生の時は近づいて
 月影も見えず 夜のしじまはますます深く
 クリスマスの鐘の音は 丘から丘へ
さ霧のなかを 響き交わす

四つの村々に 四つの響き
 遠くからまた近くから 牧場こえ原野をこえて
 ぐあーんと太く ぽあーんと細く まるで
わたしと鐘のあいだに扉が立つかのように

風にのって 四つの音はそれぞれ調べを変え
 いまは膨らみ上り 次には低く窄まって
 平和と 善意 やすらぎと あわれみ
平和と善意 もろびとにあれと           

作=アルフレッド・テニスン 訳=小塩トシ子

『クリスマスの祈りと歌』 小塩 節・小塩トシ子 編
日本キリスト教団出版局 より

クリスマスの静けさと平和を美しい言葉で見事に表現している素晴らしい詩である。

クリスマスは静かな方がいい。

現代のクリスマスの騒がしい喧騒は、クリスマスの鐘の音をかき消してしまっている。

テニスンはクリスマスに鳴る教会の鐘の音を聴いて、この詩を詠ったのだろう。

ところで、教会の鐘は神に対する感謝と神に愛されている喜びを天にいる神に知らせるためにという意味を持っている。

そこで、クリスマス以外にも、礼拝や結婚式、葬儀の時などにも鳴らされる。

そのいずれの場合にも、鐘は神に対する感謝と神に愛されている喜びを意味しているのである。

この鐘の音をテニスンは「平和と 善意 やすらぎと あわれみ」の響きとして聴いた。

このような詩の世界では、この鐘を鳴らしているのは我々人間の側ではなく神である。

この神が鳴らす鐘の音は、心静に耳を澄ませる時、私たちの心にいつでも響いてくるものである。

どうか今年のクリスマスも、ひとりでも多くの人々の心に、この鐘の音が響きますように。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

 クリスマスの祈りと歌 クリスマスの祈りと歌
販売元:TSUTAYA online
TSUTAYA onlineで詳細を確認する

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『戦場のメリークリスマス』からファーザー・クリスマスについて

クリスマスの主であるイエス・キリストは、平和の主である。

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。                    イザヤ書 9章6節

それでクリスマスには、世界中で平和のための祈りがささげられるのである。

クリスマスには敵も味方もなく、ただ静けさと清らかさだけが残る。

ファーザー・クリスマスと言えばだれもがサンタクロースをイメージするであろし、私もサンタクロースは大好きである。

サンタクロースのモデルと言われる正教会の聖人ミラのニコラオスは貧しい人々や冤罪の人々を救った英雄であり、子どもの守護聖人である。

サンタクロースは現代において、世界中でクリスマスを代表する人格として、愛と平和、そして贈り物(これはすなわち、突き詰めれば奉仕、或いは自己犠牲の精神である)の象徴であり続けている。

そしてサンタクロースは世界中で愛されている。

ここで考えて欲しいことがある。

「愛」と「平和」と「贈り物」というサンタクロースのイメージは、すべてイエス・キリストに帰されるべき特性である。

上に引用した聖書の言葉の中で、みどりご=イエス・キリストには「平和の君」と並んで「永遠の父」という名が冠せられている。

すなわち、本当のファーザー・クリスマス(クリスマスの父)とはイエス・キリストなのである。

ここでまた、聖書から今度はイエス・キリストご自身のことばを引用したい。

平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
                                マタイの福音書5章9節

ファーザー・クリスマスであるイエス・キリストは、多くの子どもたちを持っている。

その子どもたちによって、クリスマスには毎年、世界中で平和が祈られ、愛が実践されている。

それで私たちは「クリスマスの平和と奇蹟」について、多くの言い伝えを聞いている。

それらのすべてをここで数え上げることはとても出来ない。

ただ私の願うことは、私もまた「平和をつくる者」であり続けたいということである。

終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。
多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
主は多くの国々の民の間をさばき、遠く離れた強い国々に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
彼らはみな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下にすわり、彼らを脅かす者はいない。まことに、万軍の主の御口が告げられる。
                                  ミカ書4章1節~4節

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヒロシマとチェルノブイリ~悲しみは数え切れないけど~

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

ところで、クリスマスの主であるイエス・キリストについては聖書に次のように言われている。

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
                                マタイの福音書1章23節

私にとって、このこと以上の慰めはない。

そしてこの慰めがこの記事を読むすべての人に届くように心から祈っている。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

現代の賢明な人たちに一言~オー・ヘンリー作『賢者の贈りもの』より

クリスマスの時期に繰り返し語られる物語のひとつに、二十世紀初期に活躍し、今なお世界中で愛されているアメリカの短編作家オー・ヘンリーの『賢者の贈りもの』がある。

 デラは三度数え直した。一ドル八十七セント。そして明日はもうクリスマスだった。
 みすぼらしい小さなソファに身を投げ出して、おいおい泣くよりほかに手はなかった。だからデラは泣いた。そうなると考えたくなる―人生は「むせび泣き」と「すすり泣き」と「微笑み」から成り立っているのだと。なかでは「すすり泣き」がいちばん多くを占めているのだが。 

 ところで、ジェイムズ・ディリンガム・ヤング夫妻には自慢の宝がふたつあった。ひとつは、ジムが父から、いや、祖父から、譲られた金時計だった。もうひとつはデラの髪だった。

 ひとしきり泣き終わると、デラはある決心をして家を出た。

 彼女が足をとめたところには、看板が出ていた。
 「かつら類一式 マダム・ソフロニイ」
 
 大柄で、色の白すぎる、冷ややかな感じのマダムは、「ソフロニイ」(「聡明」を意味するギリシャ語源の女性の名)らしくは見えなかった。
 「私の髪を買って下さる?」とデラは言った。

 「二十ドルね」と女主人はなれた手つきで髪の房を持ちあげながら言った。
 「ではすぐください」
 ああ、それからの二時間、時はばら色の翼にのって軽やかに飛んでいった。

 それはまさにジムにふさわしかった。地味さと価値―その形容がジムと鎖の両方に当てはまった。代金は二十一ドルだった。

 家に帰ると、興奮がさめて、分別と理性が少し戻ってきた。

 「どうか神様、あの人にいまでも私を美しいと思わせてください」

 ドアが開いて、ジムが入ってきて、ドアを閉めた。

 「髪を切ってしまったのか?」とジムはようやく、どんなにけんめいに考えても明白な事実を理解できないかのように、言った。
 
 「ぼくを誤解しないでくれ、デラ」と彼は言った。「髪を切ろうと、顔を剃ろうと、シャンプーしようと、そんなことで妻が好きでなくなるようなことはないさ。だがその包みを開けたら、ぼくがどうして最初呆然となったか、理由が分かるよ」
 白い指がすばやく紐と紙をひきちぎった。それから我を忘れた歓声。だが、ああ、それが次の瞬間女性特有のヒステリックな涙と号泣に早変わりし、その部屋の主人はあらゆる手をつくして妻を慰めねばならなかった。
 そこには櫛がはいっていたのだ―デラがかねがねあこがれていた、ブロードウェイのウィンドーに飾ってあった、横髪と後ろ髪用のセットの櫛が。

 「私の髪はとても早く伸びるわ、ジム」

 ジムはまだデラの美しいプレゼントを見ていなかった。デラはそれを手の平にのせて、いそいそと彼に差し出した。
 
 「しゃれてない?ジム。町中探して、見つけてきたのよ。これからは一日に百回も時計を見ないではいられなくなるわ。さあ、時計を出して!時計につけたら、どんなに美しいか見てみたいわ」

 ジムは言われた通りにはしないで、ソファに寝転がると頭の後ろに両手を廻して、微笑した。
 「デラ」と彼は言った。「ぼくたちのクリスマス・プレゼントはかたづけて、しばらくしまっておこう。いま使うには立派すぎるよ。櫛を買うお金を作ろうと思って、ぼくはあの時計を売ってしまったんだ。さあ、チョップを火にかけてくれないか」

 ところでここに私がつっかえつっかえ語ったのは、自分たちのいちばん大切な宝をお互いのためにいとも愚かしく犠牲にしてしまった、アパート住まいの愚かな二人の人の子のたいした波瀾もない物語なのだ。だが最後に現代の賢明な人たちに一言言っておくと、人にものを贈る人のなかで、彼らのような人間こそもっとも賢明なのだ。世界のどこに住んでいようと、彼らこそもっとも賢明なのだ。彼らこそ東方の賢者なのである。

 この物語を語った、オー・ヘンリーこそは賢者である。

 この賢者は、人間を深く愛し、また人間についてよく理解していた。

 そこで賢者はこう語ったのである。

 人生は「むせび泣き」と「すすり泣き」と「微笑み」から成り立っている

 そして、そのなかで「すすり泣き」がいちばん多くを占めているのであると。

 その同じ賢者が、この物語を通してもっとも語りたかった内容は、クリスマスの本当の意味についてであった。

 そしてそれは、デラとジムがそうしたように、自分のかけがいのない宝さえも「惜しまずに与える心」である。

 「現代の賢明な人たちに」、これは最大限の皮肉を込めた言葉であった。

 クリスマスの心は「惜しまずに与える心」である、「現代の賢明な人たち」は、果たしてそれを理解しているのだろうか?

 ところでオー・ヘンリーは、なにを根拠にクリスマスの心は「惜しまずに与える心」であると迷わずに言い切っているのだろうか?

 それはオー・ヘンリーが世界で最初のクリスマスに、何が起こったのかを知っていたからである。

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
                               ヨハネの福音書3章16節

 「惜しまずに与える心」とは愛である。

 神のひとり子であるイエス・キリストは十字架において、愛する人々のために、自らの命を捧げた。

 愛だけが、かけがいのない宝、いやそれ以上のもの、自らの命さえ「惜しまずに与える」ことを可能にしたのである。

 現代の賢明な人たちよ、どうかこのことを忘れないで欲しい。

 オー・ヘンリーのこの皮肉な言葉には、怒りさえも込められていると私には感じられる。

にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »