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2011年1月

「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれ

 痛みにおける神は、御自身の痛みをもって我々人間の痛みを解決し給う神である。イエス・キリストは、御自身の傷をもって我々人間の傷を癒し給う主である(ペテロ前書二・二四)。
 この命題には二つの契機が含まれている。第一、我々の神はあくまで解決者であり癒し主であり給うこと。第二、しかしこの神は彼御自身痛みをもちを負い給う主であること。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.25.(強調は原著者)

以下引用はすべて前掲pp.25-26

第一の命題からは、「福音が文字通り喜ばしき音ずれである」ということがいえる。

 福音における神は、我々の痛みの解決者であり、我々の傷の癒し主であり給う。一言にしていえば彼は救主であり給う。

このように、まさにイエス・キリストが救い主であるが故に、私たちは彼を愛し、彼を「わが主」と呼ぶのである。

それでは救いとは一体何であろうか。

 救いとは、我々のこの破れたる現実を神があくまで包み給うという音ずれである。徹底的に包み給う神――これが救主なる神である。世にいかなる奇蹟があろうとも、神が我々のこの破れたる現実を包み給うということ以上に驚くべき奇蹟があろうか。我々の現実の破れは、望みなきまでに破れ果てたる破れである。しかし、福音は、「望みなき者にも望みがある」という音ずれ、――否むしろ「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。

私たちは、福音を理解するためにはまず、私たちの現実が「望みなきまでに破れ果てたる」現実であることを覚える必要がある。

次に「この破れたる現実」を「徹底的に包み給う神」を見ることこそ「福音の厳密なる理解」にとって重要なことなのである。

この福音は「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。

それ故この福音を信じる者、すなわちキリスト者とは「望みに逆らって」(ロマ書前四・一八)信ずるのである。

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「痛みにおける神」の神学とは

 私にはこの福音の心は、神の痛みとして示された。この示しに従うことは預言者エレミヤの途を辿ることであった(エレミヤ記三一・二〇参照)。エレミヤは「最も深く神の心を見た」人である(キッテル)。私は彼と共に神の御心の深き所へまで入りゆくことを許されて感謝に満たされる。――エレミヤは旧約のパウロであり、パウロは新約のエレミヤである。パウロに示されたる「十字架における神」は、エレミヤにとっては「痛みにおける神」である。エレミヤの神はパウロの神への予言であり証である。「十字架における神」の御心が晦(くら)くされる時には、「痛みにおける神」の神学がその証として奉仕することを要求されるであろう。――神学とは福音の厳密なる理解にほかならぬ。この点よりすれば、ガラテヤ書を書いたパウロは、もっとも的確なる意味において神学者である。ガラテヤ書ほど福音を厳密に理解したものは他にないからである。エレミヤは「神の心をもっとも深く見た」かぎりにおいて、彼もまた福音のもっとも厳密なる理解者といわねばならぬ。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 pp.24-25.(強調は原著者)

※北森による参照聖書箇所エレミヤ記31章20節を文語訳聖書で見ると「我腸(わがはらわた)かれの為に痛む」とある。新改訳では「わたしのはらわたは彼のためにわななき、」。この聖書箇所こそ北森における「神の痛みの神学」の端緒である。

北森によれば「神学」とは「福音の厳密なる理解」であり、これはすなわち「神の心を深く見る」ことである。

私の理解ではすべてのキリスト者は神ご自身によって、「神の心を深く見る」ことに招かれている。

これは言い換えれば「福音の厳密なる理解者」であるようにと招かれているのである。

そして、福音が十字架の出来事と不可分であることを考えるとき、福音には不可避的に「痛み」が含まれるであろう。

この「痛み」とは、他でもない「神の痛み」である。

ところで、哲学者の中村雄二郎は『臨床の知とは何か』の中で「自然科学の知」に対して、それではとらえきれない「知」として「臨床の知」があり、この「臨床の知」は「受苦の知」「情念(パトス)の知」であるということを語っている。

『神の痛みの神学』が「痛み」に関する「学」であることを覚えるとき、これは中村における「受苦の知」「情念(パトス)の知」に関わる「学」であると考えることができる。

そして「受苦の知」「情念(パトス)の知」による「学」とは、「机上の学」ではなく「実践の学」である。

「実践の学」においては研究者は対象から遠く離れて冷たい眼で眺めることは許されない。

よって「福音の厳密なる理解者」でありたいと願う我々は、福音から遠く離れて冷たい眼で眺めるのではなくて、その只中に「自らを深く埋没させて」いくべきなのである。

福音の只中に「自らを深く埋没させる」というのは福音そのものであるイエス・キリストの内に「自らを深く埋没させる」ことに他ならない。

ここに「キリスト教は健全なる神秘主義以外の何ものでもない」というヒルティの言葉が想起される。

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臨床福祉学という「学」について

『スタートライン臨床福祉学』(丸山晋/松永宏子2006,弘文堂)を読んで

 『スタートライン臨床福祉学』第Ⅰ章によれば「臨床」と冠された「学」として従来から市民権を得ているものには「臨床医学」「臨床看護学」「臨床心理学」などがあり、「臨床福祉学」という概念は、古くからある社会福祉学の臨床的応用としての「古くて新しい」「今日なお発展中」の「学」である。

 そもそも医療や社会福祉(困窮者に対する相互扶助や援助)とは、人間が社会的存在として生活する上では必然的に必要となるもので、その起源は自然発生的なものであると考えられる。

 そのような自然発生的な人間の営みを科学的に洗練し、且つ効率的に行うための研究をするために事後的に生まれたものが、それぞれの「学」であるというのが私の考えである。

 そのような立場からは、医学(看護学、心理学も含む)や社会福祉学は、「実践」と切り離して考えることができない「学」であると言える。

 また、ここにおける「実践」とは、狭義の「実践」であって、具体的には病者に対する直接的医療の提供であり、困窮者に対する直接的援助を意味する。

 それが特に医学においては、自然科学の発展によって、直接的医療を強化あるいは効率化するための間接的医療分野の拡大によって、一見、上述の「実践」から離れた医学分野が肥大したところから、敢えて「臨床」を冠して、狭義の「実践」に特化した分野が改めて創出されて来たという流れがあるのではないかと予想される。

 そして、それと同じことが近年の社会福祉学の分野でも起こっているのではないかと思う。

 また前掲の文献によれば、「臨床学」とは「総合の学」であり、また「応用の学」である。

 つまり、「臨床学」とは、何某かの「実践」に関する「学」が真の意味での「実践の学」として成熟に伴って創出されるものであるとも考えられる。

 すなわち、「臨床福祉学」の創出は、社会福祉学が「実践の学」として成熟してきたことを示すものであると言える。

 また、それとは逆に「臨床学」の創出は、「実践の学」が原点に立ち返る、いわゆる「原点回帰」の姿であるとも言える。しかし、この「原点回帰」は単純に過去に遡るのではなくて、過去の研究成果を踏まえ、さらに今後の「実践」からも学び続けようとする「発展的原点回帰」であり、しかも「臨床学」とは、その「臨床」という性質上、正に今現在起こっている「現実」を重視する「学」でもある。よって、「臨床福祉学」とは「現実」に即した社会福祉学のあり方であると私は考える。

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『フィッシュストーリー』

伊坂幸太郎の『フィッシュストーリー』という小説の中に、以下のように同様の形式を持つ3つの文章がある。

『僕の孤独が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出すに違いない』

『僕の勇気が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと若さで、陽光の跳ね返った川面をさらに輝かせるだろう』

『僕の挫折が魚だとしたら、そのあまりの悲痛さと滑稽さに、川にも海にも棲み処がなくなるだろう』

この作品に限らず伊坂幸太郎の作品には機知に富んだ台詞や文章が多い。

そして伊坂幸太郎という作家は、しっかりとした世界観を持ち、さらに常識と良識も兼ね備えている。そしてこの世界は今よりも良いものになることができると信じているのではないかと私は考えている。

伊坂幸太郎という作家について、或いは伊坂作品について語りたいことは沢山ある。

しかし今回は、『フィッシュストーリー』について、特に上述の引用文から私が受けたインスパイアについてのみ記事にしたいと思う。

『フィッシュストーリー』というのは伊坂幸太郎の13作品目の著作である「動物園のエンジン、「サクリファイス」、「フィッシュストーリー」、「ポテチ」の4つの短編作品が収録されている短編集のタイトルであり、収録された一短編のタイトルであり、作中に登場するロックバンドの最後のアルバムに収録されている楽曲のタイトルでもある。

短編集のタイトルとしての『フィッシュストーリー』の意味は、釣り師が、自分の釣果を実際より誇張して言いがちなことに由来する英語の慣用句から、ほら話、大げさな話、作り話という意味を持っているようである。

そして収録された短編すべてに、そのような意味での「フィッシュストーリー」という雰囲気がよく表現されている。

私も「フィッシュストーリー(ほら話)」が大好きである。

「私も」というのは、恐らく伊坂幸太郎もそうであるに違いないからである。

「フィッシュストーリー」はけっして嘘という意味ではない。

ある場合には「フィッシュストーリー」は、物語を聞くものへの「愛」であり「配慮」でさえあると私は考えている。

私の大好きな映画監督ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』という映画は、その好例であろう。

そこで私も、キリスト者として「フィッシュストーリー」をひとつ考えてみた。

「僕の信仰が魚だとしたら、そのあまりの矮小さと軽薄さに、メダカもアメンボも声をあげて笑うだろう。そしてそれを見て、天の父はやさしく微笑むだろう。神の寛容は、限りもなく深く、そして温かい。」

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「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」

アメリカのフロリダ州、オークランド空港のほど近くに、その夢の国は存在している。

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」

余命が限られた難病の子どもとその家族を世界中から無料招待し、夢のような楽しい1週間を提供するための施設である。

ここに招待された家族は、往復の旅費や食事代、宿泊費、近隣のテーマパーク(ウォルト・ディズニー・ワールドやユニバーサル・スタジオ)の入場料も全て無料となる。

ここでは子どもたちは誰もが夢のように楽しい、最高のひと時を過ごす。

そして憧れのミッキー・マウスと会うことができるのである。

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」を訪れたある母親は「子どもはここにいるあいだ、自分が病気であることを忘れていた」と語った。

他のある家族は、これまでは自力で立つことができなかったわが子が、立ち上がって他の子どもたちと遊んでいる光景を目撃して、しばし立ち尽くしていたという。

後日、その子どもの父親はこう語っている。

「ここでは、なにか特別なことが起こっていると思う。」

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」では、滞在する家族がリラックスして過ごせるようにホテルの1室ではなくコテージが提供されるため、51エーカー(62万坪)もの広大な敷地内には遊園地のほかに100軒近いコテージが建てられている。

この「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」はアウシュビッツ収容所での収容生活を経験し、その後無一文でアメリカに渡り、ベル・ボーイから始めて5軒のホテルを経営するまでになったヘンリ・ランドワース氏が私財を擲ってつくり上げたものである。

ヘンリ氏は「この「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」を作るために私が交わした契約は、土地を購入したときのただ一度きりである。あとは握手だけでできあがった。」と語っている。

多くの企業や善意の人々が、彼の意志に共感して奇蹟を為し遂げたのである。

ところで、この「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」のことを知った私は、聖書に記された天国について思いを巡らせた。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
                                     ヨハネの福音書14章2節

ある意味では、私たちみんなが難病を抱えている。

その病(やまい)の名は罪である。

罪は私たち個人の人生を台無しにするだけでなく、人間の社会全体に争いと悲惨、不条理と悲劇をもたらす癒しがたい病である。

この罪という難病を抱える私たちのためには、イエス・キリストが天国を備えてくださったのである。

私たちは天国へ「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」と同じく無料で招待されている。

そこでは私たちはミッキー・マウスよりも素晴らしいお方にお会いすることができる。

天国への滞在期間は1週間という限られたひと時ではなく、永遠である。

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」を訪れた子どもたちも今は天国でもっと素晴らしい経験をしていると私は確信している。

聖書には、天の御国はそのような者たちのものであるとはっきり書かれてあるのだから。

そして私たちもやがてそこへ旅立つのである。

招待状は既に届いている。

もし読者の中に、この招待状をまだ受け取っていない方がいるのならば、一日も早く受け取ることをお勧めしたい。

方法は簡単である。

「イエス・キリストの御名によって、天国への招待状を下さい。」と心から祈ればいい。

詳しくはお近くのキリスト教会へお問い合わせください。

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「隈なく澄んだ眼」こそ

北森嘉蔵先生による『神の痛みの神学』を初めて読んで後、私はキリスト教神学こそがこの世で最も興味深く、また学ぶ価値の在る「学」であるという個人的な確信に至った。

それ以降、なるほど私はその他の幾つかのキリスト教神学に関わる素晴らしい著作に出会い、多くの気づきや確信を与えられているのであるが、今なお、私が「神学する」という、その根底にはこの著書の影響が大きい。

そこで、改めてこの著書から感銘深い文章を抜き出して、願わくばこの名著の読者を新たに加えることに一役買いたいというのがこのシリーズの狙いである。

今回は第1回ということで、『神の痛みの神学』の冒頭の文章をご紹介したい。

 我々は神の御心をつぶさに知り(コロサイ書一・九)、神の深き所まで究(きわ)め(コリント前書二・一〇)、福音の心を洞察せねばならぬ。この念願は次のごときキェルケゴールの祈りをばまた我々の祈りたらしめる。

主よ!無益なる事物に対しては
我々の眼を霞(かす)ましめ、汝のあらゆる
真理に関しては我々の眼を隈なく
澄ましめ給え。

 この「隈なく澄んだ眼」こそ福音の証人に対して要求されるものである。神学が福音への証(あかし)であるかぎり、この眼こそ神学的感覚にほかならぬ。この眼がないかぎり証人は単なる視幻者に過ぎず、この感覚がないかぎり神学者は単なる饒舌家(じょうぜつか)に過ぎない。
 ことは福音に関するのであるから、この眼この感覚があくまで神から与えられるものであることは、明白である。決して我々自身の持つ眼や感覚ではない。「功なくして」与えられる賜(たまもの)である。しかし我々は与えられたこの賜を地中にかくして置いてはならない。(マタイ伝二五・一八)。これを鋭くし、いよいよ隈なく澄まさねばならぬ。――確かにこれを澄ませ給うのも神である。しかし我々は「いよいよ隈なく澄ましめ給え」と祈り求めねばならぬ。(強調は原著者=北森)

このような神学或いは福音に対する真摯な態度は、たとえ神学的にはこの『神の痛みの神学』を批判する立場の者であったとしても、彼が自らをキリスト者であるとする者であったとすれば、必ず見習うべき態度である。

また、もし批判者がキリスト者でなはない場合には、端(はな)から「相手にもならない」者として斥けられてしまう真剣さと力強さが、この文章にはあると私は考える。

このような態度こそ、キリスト教神学に対する、正しいキリスト教的な態度である。

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