「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれ
痛みにおける神は、御自身の痛みをもって我々人間の痛みを解決し給う神である。イエス・キリストは、御自身の傷をもって我々人間の傷を癒し給う主である(ペテロ前書二・二四)。
この命題には二つの契機が含まれている。第一、我々の神はあくまで解決者であり癒し主であり給うこと。第二、しかしこの神は彼御自身痛みをもち傷を負い給う主であること。
北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4 第14刷発行 p.25.(強調は原著者)
以下引用はすべて前掲pp.25-26
第一の命題からは、「福音が文字通り喜ばしき音ずれである」ということがいえる。
福音における神は、我々の痛みの解決者であり、我々の傷の癒し主であり給う。一言にしていえば彼は救主であり給う。
このように、まさにイエス・キリストが救い主であるが故に、私たちは彼を愛し、彼を「わが主」と呼ぶのである。
それでは救いとは一体何であろうか。
救いとは、我々のこの破れたる現実を神があくまで包み給うという音ずれである。徹底的に包み給う神――これが救主なる神である。世にいかなる奇蹟があろうとも、神が我々のこの破れたる現実を包み給うということ以上に驚くべき奇蹟があろうか。我々の現実の破れは、望みなきまでに破れ果てたる破れである。しかし、福音は、「望みなき者にも望みがある」という音ずれ、――否むしろ「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。
私たちは、福音を理解するためにはまず、私たちの現実が「望みなきまでに破れ果てたる」現実であることを覚える必要がある。
次に「この破れたる現実」を「徹底的に包み給う神」を見ることこそ「福音の厳密なる理解」にとって重要なことなのである。
この福音は「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。
それ故この福音を信じる者、すなわちキリスト者とは「望みに逆らって」(ロマ書前四・一八)信ずるのである。
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