「痛みにおける神」の神学とは
私にはこの福音の心は、神の痛みとして示された。この示しに従うことは預言者エレミヤの途を辿ることであった(エレミヤ記三一・二〇参照)。エレミヤは「最も深く神の心を見た」人である(キッテル)。私は彼と共に神の御心の深き所へまで入りゆくことを許されて感謝に満たされる。――エレミヤは旧約のパウロであり、パウロは新約のエレミヤである。パウロに示されたる「十字架における神」は、エレミヤにとっては「痛みにおける神」である。エレミヤの神はパウロの神への予言であり証である。「十字架における神」の御心が晦(くら)くされる時には、「痛みにおける神」の神学がその証として奉仕することを要求されるであろう。――神学とは福音の厳密なる理解にほかならぬ。この点よりすれば、ガラテヤ書を書いたパウロは、もっとも的確なる意味において神学者である。ガラテヤ書ほど福音を厳密に理解したものは他にないからである。エレミヤは「神の心をもっとも深く見た」かぎりにおいて、彼もまた福音のもっとも厳密なる理解者といわねばならぬ。
北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4 第14刷発行 pp.24-25.(強調は原著者)
※北森による参照聖書箇所エレミヤ記31章20節を文語訳聖書で見ると「我腸(わがはらわた)かれの為に痛む」とある。新改訳では「わたしのはらわたは彼のためにわななき、」。この聖書箇所こそ北森における「神の痛みの神学」の端緒である。
北森によれば「神学」とは「福音の厳密なる理解」であり、これはすなわち「神の心を深く見る」ことである。
私の理解ではすべてのキリスト者は神ご自身によって、「神の心を深く見る」ことに招かれている。
これは言い換えれば「福音の厳密なる理解者」であるようにと招かれているのである。
そして、福音が十字架の出来事と不可分であることを考えるとき、福音には不可避的に「痛み」が含まれるであろう。
この「痛み」とは、他でもない「神の痛み」である。
ところで、哲学者の中村雄二郎は『臨床の知とは何か』の中で「自然科学の知」に対して、それではとらえきれない「知」として「臨床の知」があり、この「臨床の知」は「受苦の知」「情念(パトス)の知」であるということを語っている。
『神の痛みの神学』が「痛み」に関する「学」であることを覚えるとき、これは中村における「受苦の知」「情念(パトス)の知」に関わる「学」であると考えることができる。
そして「受苦の知」「情念(パトス)の知」による「学」とは、「机上の学」ではなく「実践の学」である。
「実践の学」においては研究者は対象から遠く離れて冷たい眼で眺めることは許されない。
よって「福音の厳密なる理解者」でありたいと願う我々は、福音から遠く離れて冷たい眼で眺めるのではなくて、その只中に「自らを深く埋没させて」いくべきなのである。
福音の只中に「自らを深く埋没させる」というのは福音そのものであるイエス・キリストの内に「自らを深く埋没させる」ことに他ならない。
ここに「キリスト教は健全なる神秘主義以外の何ものでもない」というヒルティの言葉が想起される。
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