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「隈なく澄んだ眼」こそ

北森嘉蔵先生による『神の痛みの神学』を初めて読んで後、私はキリスト教神学こそがこの世で最も興味深く、また学ぶ価値の在る「学」であるという個人的な確信に至った。

それ以降、なるほど私はその他の幾つかのキリスト教神学に関わる素晴らしい著作に出会い、多くの気づきや確信を与えられているのであるが、今なお、私が「神学する」という、その根底にはこの著書の影響が大きい。

そこで、改めてこの著書から感銘深い文章を抜き出して、願わくばこの名著の読者を新たに加えることに一役買いたいというのがこのシリーズの狙いである。

今回は第1回ということで、『神の痛みの神学』の冒頭の文章をご紹介したい。

 我々は神の御心をつぶさに知り(コロサイ書一・九)、神の深き所まで究(きわ)め(コリント前書二・一〇)、福音の心を洞察せねばならぬ。この念願は次のごときキェルケゴールの祈りをばまた我々の祈りたらしめる。

主よ!無益なる事物に対しては
我々の眼を霞(かす)ましめ、汝のあらゆる
真理に関しては我々の眼を隈なく
澄ましめ給え。

 この「隈なく澄んだ眼」こそ福音の証人に対して要求されるものである。神学が福音への証(あかし)であるかぎり、この眼こそ神学的感覚にほかならぬ。この眼がないかぎり証人は単なる視幻者に過ぎず、この感覚がないかぎり神学者は単なる饒舌家(じょうぜつか)に過ぎない。
 ことは福音に関するのであるから、この眼この感覚があくまで神から与えられるものであることは、明白である。決して我々自身の持つ眼や感覚ではない。「功なくして」与えられる賜(たまもの)である。しかし我々は与えられたこの賜を地中にかくして置いてはならない。(マタイ伝二五・一八)。これを鋭くし、いよいよ隈なく澄まさねばならぬ。――確かにこれを澄ませ給うのも神である。しかし我々は「いよいよ隈なく澄ましめ給え」と祈り求めねばならぬ。(強調は原著者=北森)

このような神学或いは福音に対する真摯な態度は、たとえ神学的にはこの『神の痛みの神学』を批判する立場の者であったとしても、彼が自らをキリスト者であるとする者であったとすれば、必ず見習うべき態度である。

また、もし批判者がキリスト者でなはない場合には、端(はな)から「相手にもならない」者として斥けられてしまう真剣さと力強さが、この文章にはあると私は考える。

このような態度こそ、キリスト教神学に対する、正しいキリスト教的な態度である。

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