« 2011年1月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

父なる神への請求書

日本救世軍の創始者である山室軍平の若き日の恩人としても知られる、禅者牧師と呼ばれた吉田清太郎牧師について次のような逸話が残されている。

吉田牧師は、金がなくなると、神様に「請求書」を出されたようである。

吉田牧師の『日記』には次のような記事がある。

    請求書
一 金五円〇四銭 牛乳
一 金三円三十六銭 電燈
一 金二円四十八銭 魚
一 金三円 卵
一 金三十銭 洗濯
一 金六円二十四銭 八百屋
一 金十五円三十八銭 米ヤ
一 金九円八銭 チタノヤ
〆金四十四円八十八銭
外ニ 三十円
総計 七十四円八十八銭
右 四、五日の間に御送付下さい。
  神と主の栄光を現わすために。
 昭和九年五月二日 清太郎
                父上様

「チタノヤ」が何を意味するのか不明であったが、その他のものと同じ生活用品に関わる商店の名前であろうか。

ともかく、思わずニヤついてしまうほど率直な請求書であるが、請求先に「父上様」とあることに心を振るわせられる想いがする。

吉田牧師の父なる神に対する信頼は、まさしく幼い子どもが親に信頼するが如き全き信頼である。

私の恩師の一人である石田和男牧師(2008年9月召天)の著書『津山の虹 石田牧師の教会だより』の中に、「独立の信仰」ということが書かれていた。

それは石田先生が『内村鑑三遺墨集』の中の『独立五十年』という記事を読んだときに確信したことであったという。

 信仰とは、神への全き依存です。これ以外の何者でもありません。そして、その依存は、不純なものの介入を微塵も許さない、厳粛な、絶対の依存です。

吉田清太郎牧師の幼子の如き神への信頼の姿は、内村鑑三や石田和男牧師の『独立の信仰』に通ずるものがあると感じる。

表現の仕方は人それぞれであるが、全きキリスト者の信仰とは類似した本質を持っているものであると改めて考えさせられる。

願わくば、私自身の信仰も、そのような先達たちに並ぶもので在らんことを。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。      マタイの福音書6章33節

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ゴルゴタにおいては「神が神と闘った」のである

 ルターによれば、ゴルゴタにおいては「神が神と闘った」のである。いかにしても罪人に死を命じ給うべき神とこの罪人を愛せんとし給う神とが闘ったのである。この神が別の神ではなくして同一の神であり給うという事実こそ、神の痛みである。ここでは神の中において心と心が対立したのである。「神は言うべからざる苦痛を嘗め、傷(いた)ましき手続を経、身を犠牲に供して、人の為めに赦罪(しゃざい)の道を開きたり」(植村全集第四巻三三二頁)。この「傷ましき手続」の解明こそ贖罪論に他ならぬ。―神の怒に撃たれて受けた我々の傷を癒さんとしたもう主は、彼御自身この怒に撃たれて傷を負い給うのである。「その撃たれし傷によりてわれらは癒されたり」(イザヤ書五三・五)。キリストの死は「死の死」 mors mortis (Luther,Rm.Ⅱ,153-154) である。主は彼御自身死に給うことなくしては、我々の死を解決し給うことができなかった。神はいかにしても包むべからざるものを包み給うが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給うのである。神が我々の現実を包み給うということは、我々に絶対の平安を保証し給うということである。しかし、我々に絶対の平安を保証し給う主は、彼御自身から全く平安を奪われ給いし御方である。―「わが神わが神、なんぞ我を見棄て給いし」。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.28.(強調は原著者)

ここでは神の中において心と心が対立したのである。

このところから、私は我々人間の心についての黙想に導かれた。

すなわち、我々人間の心においても、ときとして「心と心が対立する」という自体が起こるという事実についてである。

この「対立」が耐え難いまでに高まったとき、我々は「心が病む」ということが起こるのではないかと私は思う。

しかし、この「心と心が対立する」という、人間にとって「悲惨な経験を通してさえ」、否むしろ、このような「悲惨な経験を通してこそ」、我々は、あらゆる悲惨の解決者なる「」の心に届くことができるのである。

」の心とは、「言うべからざる苦痛を嘗め、傷(いた)ましき手続を経、身を犠牲に供して、人の為めに赦罪(しゃざい)の道を開きたり」との心である。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。―」と仰せられた。    創世記1:26

私たち人間の心と神の心には、もちろん「大きな隔たり」もあろうが、似ている部分もあると考えることは許されるであろう。

引用した創世記の箇所で、神の一人称は「われわれ」である。

この箇所の原語が複数形であることについては幾つかの説があるが、私はここで、この意味について、神は御自身のうちに「他者として対話しうる自己」を持っているのであると解釈したい。

この命題を、三位一体についての考察の一端として深めることは大変興味深い試みではあると考えるが、現時点での私には手に余るものである。

ともかく、、神は御自身のうちに「他者として対話しうる自己」を持っており、我々人間の心は、それと良く似た性質を持っているというのが私の考えである。

それゆえ我々人間にも、「神の痛み」を慮ることができると考える。

「神の痛み」を知る者は、我らのために痛み給うまでの「神の愛」を知り「絶対の平安」に満たされるであろう。

しかも、この「絶対の平安」には、確固たる「保証」が伴っている。

保証」とはすなわち、イエス・キリストの十字架の犠牲である。

「わが神わが神、なんぞ我を見棄て給いし」。この歴史上もっとも傷ましき叫びこそが、「我々に絶対の平安を保証し給う」のである。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

主の前に静まるということ

 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

                                         詩篇77:11,12

「思い起こす」ことと「静まる」ことは、キリスト者の信仰生活にとって大変重要な行為であると思う。

「思い起こす」ことと「静まる」ことを「行為」であると表現したが、これらはどちらも外面からは知ることのできない行為である。

なるほど「静まる」という行為については、或いは沈黙しているという状態で、外面的に知ることができると考える方もおられるであろうが、私たちは、外面的には沈黙していても心の中には雑音が溢れているということがあることを経験的に知っているはずである。

本当に心が「静まっている」のかということを知ることができるのは、「静まっている」本人だけなのではないかと思う。

ところで現代の社会は、効率性と生産性を求め、思い悩むことや立ち止まること嫌うという特徴を持っている。

言い換えれば現代社会は機械化を望んでいると言えるかも知れない。

機械は当然思い悩むことはなく、機械が立ち止まるとき、そこには一切の生産性はない。

現代の社会は、人間がそのような存在であることを求め、またそのような存在であると考えているのである。

しかし本来の人間とは、本質的に「思い悩む」という性質を持っている存在であり、また人間の「立ち止まり」は、機械の立ち止まりとは全く異なり、そこには反省や自己吟味、休息など多くの生産的な意味が含まれている。

もっと言えば、人間には、「立ち止まり」や「静まり」を通してでなくては得ることのできない多くの要素があるのである。

またその中でも、信仰者に特有のものとしては「静まりの中で神の声を聴く」ということがある。

私たち、キリスト教の文化の中には「微かな」或いは「かぼそい神の声」という考え方がある。

これは、神の声が小さく、弱々しく、はっきりとしないものであるという意味ではなく、むしろ神のことばが、聖書を通して、或いは多くの信仰者たちを通して、人類の全歴史に渡って、これほどはっきりと力強く語られているにも関わらず、人間の心の雑音は、それを容易に掻き消してしまうほど激しいものであるという現実に対する反省からきているものである。

そして、この「微かな神の声」に耳を傾ける行為を、キリスト者たちは歴史的に「祈り」の中に位置づけてきたのである。

これはある人々の間で「聴く祈り」呼ばれるものである。

今日の詩篇の引用箇所に限らず、注意深く詩篇を読み黙想するとき、詩篇の作者である詩人たちの多くのものが(私としては殆んどすべての詩篇が)、この「聴く祈り」を通して、神の声を聴き、新たな洞察や力を、神から受けているようように感じられる。

詩篇は「祈りの大学」すなわち、「実践的な学びの場」であると言われるが、まさにその通りであると私は思う。

すなわち、すべての祈りの内には「神に聴く」という要素が含まれるべきであると、私は考えるのである。

そうでないとしたら、私たちの祈りは、「神との対話」ではなく、単なる「独り言」になってしまうからである。

キリスト者が「祈る」のは、その行為を通して、私たちの現実が、主の前に「良いもの」に変えられることを期待しているからであると、私は考える。

そして「独り言」には、私たちの現実を「良いもの」に変える力が全くないということは、わざわざ指摘するまでもないことである。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

苦難をともにしているなら

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

                                   ローマ人への手紙8章17節

長らく私はこのみことばを誤解していたように思う。

このところでは、私たちがキリストと同じ栄光に与るためには、キリストがかつて地上において、特に十字架の御苦しみを頂点として、苦しまれたのと同じように、現在地上に生きる私たちも苦しみを耐え忍ばなければ成らないということであろうと考えていたのである。

あるいは、かつてキリストが苦難の道を通して栄光を受けたのと同じように、私たちの栄光への道も、キリストが歩んだのと同じ苦難の道であるという示唆であるとも考えていた。

そしておそらくこれは、この聖書箇所についての一般的な理解と一致しているであろう。

しかし、改めてこの箇所を読み黙想していたところ、私はこれまで、この箇所から考えても見なかったキリストの姿を見たのである。

それは、「かつて」十字架において苦しまれたキリストではなく、今まさに、私たちと共に苦しんでおられるキリストの姿であった。

今、私たちの住む日本は3月11日に発生した、東日本大震災の影響による大きな痛みと苦しみの中に在る。

それだけでなく、私たちの世界は、戦争や飢餓や不慮の事故や虐待や差別や傷病のために、目に見える形でも、あるいは目に見えない形でも、常に大きな痛みと苦しみを経験しているのである。

私たちの信仰によれば、救い主であるイエス・キリストは、かつておられた方でなく、今も、そしてとこしえまでも「生きておられる神」である。

そして今も、私たちの苦しみの只中におられる。

そこで私たちも、このお方と、今、「苦しみをともにする」のである。

そしてそれは単に将来の「栄光」のためではなく、「今まさに、キリストとともに苦しんでいる」という「栄光」を受けるためなのである。

そして、このことによって、私たちが事実「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」であることが世界に証されるのであると私は信じている。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年1月 | トップページ | 2011年6月 »