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主の前に静まるということ

 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

                                         詩篇77:11,12

「思い起こす」ことと「静まる」ことは、キリスト者の信仰生活にとって大変重要な行為であると思う。

「思い起こす」ことと「静まる」ことを「行為」であると表現したが、これらはどちらも外面からは知ることのできない行為である。

なるほど「静まる」という行為については、或いは沈黙しているという状態で、外面的に知ることができると考える方もおられるであろうが、私たちは、外面的には沈黙していても心の中には雑音が溢れているということがあることを経験的に知っているはずである。

本当に心が「静まっている」のかということを知ることができるのは、「静まっている」本人だけなのではないかと思う。

ところで現代の社会は、効率性と生産性を求め、思い悩むことや立ち止まること嫌うという特徴を持っている。

言い換えれば現代社会は機械化を望んでいると言えるかも知れない。

機械は当然思い悩むことはなく、機械が立ち止まるとき、そこには一切の生産性はない。

現代の社会は、人間がそのような存在であることを求め、またそのような存在であると考えているのである。

しかし本来の人間とは、本質的に「思い悩む」という性質を持っている存在であり、また人間の「立ち止まり」は、機械の立ち止まりとは全く異なり、そこには反省や自己吟味、休息など多くの生産的な意味が含まれている。

もっと言えば、人間には、「立ち止まり」や「静まり」を通してでなくては得ることのできない多くの要素があるのである。

またその中でも、信仰者に特有のものとしては「静まりの中で神の声を聴く」ということがある。

私たち、キリスト教の文化の中には「微かな」或いは「かぼそい神の声」という考え方がある。

これは、神の声が小さく、弱々しく、はっきりとしないものであるという意味ではなく、むしろ神のことばが、聖書を通して、或いは多くの信仰者たちを通して、人類の全歴史に渡って、これほどはっきりと力強く語られているにも関わらず、人間の心の雑音は、それを容易に掻き消してしまうほど激しいものであるという現実に対する反省からきているものである。

そして、この「微かな神の声」に耳を傾ける行為を、キリスト者たちは歴史的に「祈り」の中に位置づけてきたのである。

これはある人々の間で「聴く祈り」呼ばれるものである。

今日の詩篇の引用箇所に限らず、注意深く詩篇を読み黙想するとき、詩篇の作者である詩人たちの多くのものが(私としては殆んどすべての詩篇が)、この「聴く祈り」を通して、神の声を聴き、新たな洞察や力を、神から受けているようように感じられる。

詩篇は「祈りの大学」すなわち、「実践的な学びの場」であると言われるが、まさにその通りであると私は思う。

すなわち、すべての祈りの内には「神に聴く」という要素が含まれるべきであると、私は考えるのである。

そうでないとしたら、私たちの祈りは、「神との対話」ではなく、単なる「独り言」になってしまうからである。

キリスト者が「祈る」のは、その行為を通して、私たちの現実が、主の前に「良いもの」に変えられることを期待しているからであると、私は考える。

そして「独り言」には、私たちの現実を「良いもの」に変える力が全くないということは、わざわざ指摘するまでもないことである。

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