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ゴルゴタにおいては「神が神と闘った」のである

 ルターによれば、ゴルゴタにおいては「神が神と闘った」のである。いかにしても罪人に死を命じ給うべき神とこの罪人を愛せんとし給う神とが闘ったのである。この神が別の神ではなくして同一の神であり給うという事実こそ、神の痛みである。ここでは神の中において心と心が対立したのである。「神は言うべからざる苦痛を嘗め、傷(いた)ましき手続を経、身を犠牲に供して、人の為めに赦罪(しゃざい)の道を開きたり」(植村全集第四巻三三二頁)。この「傷ましき手続」の解明こそ贖罪論に他ならぬ。―神の怒に撃たれて受けた我々の傷を癒さんとしたもう主は、彼御自身この怒に撃たれて傷を負い給うのである。「その撃たれし傷によりてわれらは癒されたり」(イザヤ書五三・五)。キリストの死は「死の死」 mors mortis (Luther,Rm.Ⅱ,153-154) である。主は彼御自身死に給うことなくしては、我々の死を解決し給うことができなかった。神はいかにしても包むべからざるものを包み給うが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給うのである。神が我々の現実を包み給うということは、我々に絶対の平安を保証し給うということである。しかし、我々に絶対の平安を保証し給う主は、彼御自身から全く平安を奪われ給いし御方である。―「わが神わが神、なんぞ我を見棄て給いし」。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.28.(強調は原著者)

ここでは神の中において心と心が対立したのである。

このところから、私は我々人間の心についての黙想に導かれた。

すなわち、我々人間の心においても、ときとして「心と心が対立する」という自体が起こるという事実についてである。

この「対立」が耐え難いまでに高まったとき、我々は「心が病む」ということが起こるのではないかと私は思う。

しかし、この「心と心が対立する」という、人間にとって「悲惨な経験を通してさえ」、否むしろ、このような「悲惨な経験を通してこそ」、我々は、あらゆる悲惨の解決者なる「」の心に届くことができるのである。

」の心とは、「言うべからざる苦痛を嘗め、傷(いた)ましき手続を経、身を犠牲に供して、人の為めに赦罪(しゃざい)の道を開きたり」との心である。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。―」と仰せられた。    創世記1:26

私たち人間の心と神の心には、もちろん「大きな隔たり」もあろうが、似ている部分もあると考えることは許されるであろう。

引用した創世記の箇所で、神の一人称は「われわれ」である。

この箇所の原語が複数形であることについては幾つかの説があるが、私はここで、この意味について、神は御自身のうちに「他者として対話しうる自己」を持っているのであると解釈したい。

この命題を、三位一体についての考察の一端として深めることは大変興味深い試みではあると考えるが、現時点での私には手に余るものである。

ともかく、、神は御自身のうちに「他者として対話しうる自己」を持っており、我々人間の心は、それと良く似た性質を持っているというのが私の考えである。

それゆえ我々人間にも、「神の痛み」を慮ることができると考える。

「神の痛み」を知る者は、我らのために痛み給うまでの「神の愛」を知り「絶対の平安」に満たされるであろう。

しかも、この「絶対の平安」には、確固たる「保証」が伴っている。

保証」とはすなわち、イエス・キリストの十字架の犠牲である。

「わが神わが神、なんぞ我を見棄て給いし」。この歴史上もっとも傷ましき叫びこそが、「我々に絶対の平安を保証し給う」のである。

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