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2011年6月

Kiss From A Rose - Seal 薔薇の接吻(くちづけ)-シール

Kiss From A Rose  薔薇の接吻(くちづけ)

There used to be a greying tower alone on the sea.
You became the light on the dark side of me.
Love remained a drug that's the high and not the pill.

かつて海のそばに古ぼけて灰色の塔があった。
君はぼくの心の闇を照らす光となった。
愛はハイなドラッグではあったが、錠剤ではなかった。

But did you know,
That when it snows,
My eyes become large and,
The light that you shine can be seen.

だけど知っていたかい
雪が降るとき、
ぼくの眼は大きくなり、
君が放つ光が見えるようになることを。

Baby,

I compare you to a kiss from a rose on the grey.
...kiss from a rose on the grey.
Ooh,
The more I get of you,
Ooh...................
Stranger it feels, yeah.
And now that your rose is in bloom.
A light hits the gloom on the grey.

ベイビー、
ぼくは君を薔薇の接吻(くちづけ)にたとえよう。
この灰色の世界で。
この灰色の世界での薔薇の接吻(くちづけ)に。
ああ、
君のことを深く知るほどに、
ああ、
その口づけは未知のものに感じられる。
そして今、君の薔薇は開き、
光が、灰色の暗がりを叩く。

There is so much a man can tell you,
..there....................woa...
So much he can say.
there's so much inside.
You remain,
you.......
My power, my pleasure, my pain, baby
To me you're like a growing addiction that I can't deny.. yeah.
Won't you tell me is that healthy, baby?

男は君に伝えたいことが多くあり、
彼が言いたいことが多くあり、
心の中に多くあり、
君はそのままでいる
君は・・・
ぼくの力、ぼくの歓び、ぼくの痛みを、ベイビー。
ぼくにとっての君は、
まるで逃れることのできないアディクションであり、
ぼくはそれを拒めない。
教えてくれないか、これは当然のことなのか、ベイビー?

I’ve been kissed by a rose on the grey
I’ve been kissed by a rose (on the grey)

ぼくは薔薇の接吻(くちづけ)を知っている。
この灰色の世界で。
ぼくは薔薇の接吻(くちづけ)を知っている。
この灰色の世界で。

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村上春樹のエルサレム賞受賞式のスピーチについて

2009年2月に作家、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、その受賞式でのスピーチの内容が当時かなり話題となった。

そのスピーチの内容を最近読み直してみたところ、それは(肯定的な意味において)あたかも宗教家の言葉のようであり、キリスト者である私にとっても、深い感銘を受ける言葉に溢れていた。

私個人にとっての覚書としての意味でも、このスピーチの内容から私が考え、感じたことをここにまとめてみようと思う。

参考にしたのは下記URLの和訳された文章である。

http://anond.hatelabo.jp/20090218005155

スピーチの冒頭で、村上は、小説家を「プロの嘘つき(spinner of lies)」であると述べ、続けて、小説家の嘘、即ち「創作」が、不道徳であると咎められるのでなく、むしろ「巧みな嘘」は「評論家たちに賞賛される」理由について、次のような言葉で説明している。

「創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。」(強調は筆者)

引用文で強調した「ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。」という言葉は、真理を語っていると思う。

また引用した文章全体は、聖書の中で、イエス・キリストが真理について、多くの場合「たとえばなし」を用いて話した理由の説明であるかのように私には思われる。

すなわち、ここからキリスト教会で、牧師や司祭が語る「説教」における例話についても、深く学ぶべき洞察があるように考えられるのである。

また村上はスピーチの中で次のようにも述べている。

正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

この言葉について、私は次のように言い換えたいと思う。

正しい事、誤っている事の判断はもちろん、『人間』の一番大切な任務のひとつです。

そして村上は、次のような前置きをして、話題となった「常に卵の側に」という言葉を語っている。

「これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ

それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。」村上が、どの程度「聖書」に親しんでるのであるか定かではないが、私にしてみれば、これは非常に聖書的な表現である。

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。申命記6章6節

あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 申命記11章18節

また、「そんな時に私は常に卵の側に立つ」というのは、聖書全体を通して示されたイエス・キリストの姿と、驚くほど一致している。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
                                                        マルコの福音書2章16節17節

上記の言葉に続けて村上が述べている「いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?」という言葉は、もはや一作家としての言葉ではなく、説教者(或いは聖書における預言者)の言葉であると私には感ぜられる。

なぜならば、この言葉は、「世の常なる流れ」=「壁」に逆らって立つ者の言葉であるからだ。

私がここで、「世の常なる流れ」という言葉で表現しているものを、村上はスピーチの中で「壁」また「システム(The System)」という言葉で表現している。

また村上は、次のように続けている。

「私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。」(強調は筆者)

この文章の中の「小説」「物語」を「説教」或いは「聖書からのメッセージ」に、「小説家」を「説教者」、「書く事」を「語る事」に読み替えれば、それはそのまま私がキリスト教の説教者たちについて希望する内容をそのままに表現しているように思われる。ただ一点だけ、決定的に異なるの点は、説教者は「創作をでっちあげ続ける」のではなく、「聖書から聴き続ける」者であるということである。

ここに、説教者が小説家に勝る点があると、私は敢えて宣言したい。

なぜならば、「聖書から聴き続ける」者は、自ら「創作をでっちあげ続ける」と言い張る者よりも謙遜であるからである。

そして、「そんな時に私は常に卵の側に立つ」という村上の言葉は、真の謙遜を表現している言葉であると私が考えるからである。

このような「真の謙遜」は、キリスト教の文化においては「謙卑(けんぴ)」という言葉で、主にキリストについてのみ用いられる。キリスト者にとっての「謙遜」とは、このキリストの「謙卑」に倣うことを意味するのである。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
                                     ピリピ人への手紙2章3節から8節

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映画『セントアンナの奇跡』 監督スパイク・リー

セントアンナの奇跡

『セントアンナの奇跡』(原題:Miracle at St. Anna)は、『マルコムX』など人種差別を題材とした作風で知られる社会派の映画監督スパイク・リーによる2008年のアメリカ映画であり、ジェームズ・マクブライドによる史実を元にした同名の小説を映画化した戦争ドラマである。

この映画は、2011年現在スパイク・リーの最新作であり、各メディアによって最高傑作とも評価されている。

物語は、物語上の「現在」である1983年のアメリカ、NYの(黒人)郵便局員ヘクターが切符を買いに来た(白人)客をドイツ製の拳銃で射殺した所から始まる。

その後、物語の主な舞台はヘクターが経験した第二次世界大戦下のイタリア、トスカーナ地方での回想に移る。

最初に書いている通り、この物語はフィクションであるが、背景に幾つかの史実を含んでいる。

第一の史実とは、1944年8月12日、イタリア、トスカーナのサンタンナ・ディ・スタッツェーマ市で起きた、反パルチザンの掃討作戦を行っていたナチス・ドイツ軍による大量虐殺である。その犠牲となった者の多くは、女性や老人、子どもであった。

第二に、第二次大戦下のイタリア戦線でドイツ軍と戦った実在の第92歩兵師団、通称“バッファロー・ソルジャー”である。1万5千人のアフリカ系アメリカ人兵士で構成された部隊であり、「バッファロー・ソルジャー」の名は、もともと南北戦争時代、アメリカ合衆国陸軍第10騎馬連隊の会員に適用されたニックネームで、その後アメリカの黒人部隊は伝統的にこの名前で呼ばれている。

そして第三の史実はフィレンツェのサンタ・トリニータ橋の消えた彫像の頭部である。サンタ・トリニータ橋には1608年にメディチ家の結婚を祝って四季の彫像が作られた。しかし、1944年8月8日、ドイツ軍によって橋は爆破され、四季の彫像の一つ、プリマヴェーラ(春)の頭部が行方不明となった。

劇中では、これらの史実を背景に、複雑な人間ドラマが展開する。

登場人物たちの置かれている立場は、アメリカの兵士、イタリア人パルチザンのメンバー、戦争に翻弄されるイタリアの一般市民、失望した元ファシスト党員、ナチス・ドイツの兵士などであり、劇中その運命が複雑に絡み合うのであるが、それらの人々の殆んどが同じキリスト教信仰を持ち、全く違うそれぞれの立場でありながらも、同じ神に祈り、救いを求めていることが意図的に強調されて描かれている。

全くの主観であるが、この映画の一つのテーマは、人間一人ひとりの価値観の違いと現実の複雑性であると感じた。

つまり、同じアメリカの黒人兵士であるから、或いはパルチザンのメンバー、ナチス・ドイツの兵士であるからといって、類似した価値観を持っているということは現実にはないのであって、むしろ、同じ背景、同じ環境に置かれたとしても、人間というのは一人ひとり、全く違った価値観や考え方を持つということである。

すべての物語がこのような現実的な人間描写をするものであったら良いと思う。

以上は私の主観的感想であったが、もう一つ、誰が観ても確かなこの映画のテーマは、タイトルにもある“奇跡”である。

私の信仰によれば、「奇跡は神が起す」ものであり、それは事実であると思う。

この作品中では、奇跡にはもう一つ、「人間の信仰が引き寄せるものである」という側面が語られている。

ここで、私にとって、作品中最も印象深かった台詞を紹介したい。

この台詞を口にしたのは、物語のキーパーソンの一人であるトレインという大柄の黒人兵士であり、彼は純朴な性格であり、非常に単純なキリスト教信仰と正義感を持っている人物である。

「財産なんかいらない 偉くなくてもいい 信じさえすればいい」

彼はプリマヴェーラ(春)の彫像の頭部を大切そうに抱きながら次のように続ける。

「神様は人間の手でこれを作った でも形と目的を与えたのは神様だ そして、これを通して 別のものもくださる」

「何だと思う?」

「“奇跡”だよ」

この映画の多くの場面は、戦争の悲惨さと残酷さを描いている。

しかし、そのような闇の光景の中に、トレインの純粋さは穏やかな光となって、見るものの心に緩やかに差し込んでくる。

この作品の中で起こった奇跡は、物語のクライマックスに起こった「一つの奇跡」だけではなかったと私は考えている。

私にとってこの映画は、「“奇跡”とは一体何であるのか?」ということを考えさせられた、生涯忘れることのできない作品の一つとなった。

そこで私は、改めてこの作品はスパイク・リー監督の最高傑作であると宣言したい。

この作品で、彼は間違いなく“巨匠”と呼ばれる存在になったと。

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スローバラード

悪い予感の欠片もない。なのに切ない。

最高にロマンティックで切ないラブソング。

何100回と聴いても、決して古くならない大好きな一曲。

スローバラード。

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LOVE ME TENDER

今更ですが、みんなで「愛し合って」行きたいなぁって思って、新しいカテゴリーを作ってみました。

やっぱり彼はサイコーだから。

とりあえず「LOVE ME TENDER」を聴いてみました。

悲しい理由で、最近はいろんな人がブログとかにUPしていますね。

これからは大好きな「スローバラード」とか「トランジスタラジオ」とか聴いて行きたいと思ってます。

「ベイビー!愛し合ってるか~い?」

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