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村上春樹のエルサレム賞受賞式のスピーチについて

2009年2月に作家、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、その受賞式でのスピーチの内容が当時かなり話題となった。

そのスピーチの内容を最近読み直してみたところ、それは(肯定的な意味において)あたかも宗教家の言葉のようであり、キリスト者である私にとっても、深い感銘を受ける言葉に溢れていた。

私個人にとっての覚書としての意味でも、このスピーチの内容から私が考え、感じたことをここにまとめてみようと思う。

参考にしたのは下記URLの和訳された文章である。

http://anond.hatelabo.jp/20090218005155

スピーチの冒頭で、村上は、小説家を「プロの嘘つき(spinner of lies)」であると述べ、続けて、小説家の嘘、即ち「創作」が、不道徳であると咎められるのでなく、むしろ「巧みな嘘」は「評論家たちに賞賛される」理由について、次のような言葉で説明している。

「創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。」(強調は筆者)

引用文で強調した「ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。」という言葉は、真理を語っていると思う。

また引用した文章全体は、聖書の中で、イエス・キリストが真理について、多くの場合「たとえばなし」を用いて話した理由の説明であるかのように私には思われる。

すなわち、ここからキリスト教会で、牧師や司祭が語る「説教」における例話についても、深く学ぶべき洞察があるように考えられるのである。

また村上はスピーチの中で次のようにも述べている。

正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

この言葉について、私は次のように言い換えたいと思う。

正しい事、誤っている事の判断はもちろん、『人間』の一番大切な任務のひとつです。

そして村上は、次のような前置きをして、話題となった「常に卵の側に」という言葉を語っている。

「これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ

それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。」村上が、どの程度「聖書」に親しんでるのであるか定かではないが、私にしてみれば、これは非常に聖書的な表現である。

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。申命記6章6節

あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 申命記11章18節

また、「そんな時に私は常に卵の側に立つ」というのは、聖書全体を通して示されたイエス・キリストの姿と、驚くほど一致している。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
                                                        マルコの福音書2章16節17節

上記の言葉に続けて村上が述べている「いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?」という言葉は、もはや一作家としての言葉ではなく、説教者(或いは聖書における預言者)の言葉であると私には感ぜられる。

なぜならば、この言葉は、「世の常なる流れ」=「壁」に逆らって立つ者の言葉であるからだ。

私がここで、「世の常なる流れ」という言葉で表現しているものを、村上はスピーチの中で「壁」また「システム(The System)」という言葉で表現している。

また村上は、次のように続けている。

「私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。」(強調は筆者)

この文章の中の「小説」「物語」を「説教」或いは「聖書からのメッセージ」に、「小説家」を「説教者」、「書く事」を「語る事」に読み替えれば、それはそのまま私がキリスト教の説教者たちについて希望する内容をそのままに表現しているように思われる。ただ一点だけ、決定的に異なるの点は、説教者は「創作をでっちあげ続ける」のではなく、「聖書から聴き続ける」者であるということである。

ここに、説教者が小説家に勝る点があると、私は敢えて宣言したい。

なぜならば、「聖書から聴き続ける」者は、自ら「創作をでっちあげ続ける」と言い張る者よりも謙遜であるからである。

そして、「そんな時に私は常に卵の側に立つ」という村上の言葉は、真の謙遜を表現している言葉であると私が考えるからである。

このような「真の謙遜」は、キリスト教の文化においては「謙卑(けんぴ)」という言葉で、主にキリストについてのみ用いられる。キリスト者にとっての「謙遜」とは、このキリストの「謙卑」に倣うことを意味するのである。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
                                     ピリピ人への手紙2章3節から8節

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