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「関係性の中で生きる存在」としての「人間」と「宗教」について

「人間」は「関係性の中で生きる存在」であるということがよく言われる。

そしてそれは、恐らく事実であろう。

それゆえ私たちは、常に他者を意識して生きざるを得ない。

この「他者に対する意識」は、私たちを「道徳的な存在」にもするであろうし、また場合によっては「非道徳的な存在」にもするのである。

このように考えるとき、そもそも「道徳」とは、他者との「関係性」に於いてのみ意味を持ち得る概念であるというような気がしてくる。

現在の私としては、それもまた事実であろうと思われる。

否、むしろ私には、あらゆる「関係性」から切り離された「人間」という存在を全く想像することができないが故に、「人間」に関するあらゆる概念は「関係性」を排除しては成り立たないと結論する以外に無いのである。

一見、「一個の人間」のみに帰結するであろうと思われる「生命」や「健康」、「死」という概念にしてみたところで、突き詰めれば「一個の人間」においては完結しないのではないか。

「生命」ほど、「他者との有機的な繋がり」を連想させ、また事実「関係」している概念は稀ではなかろうか。

「健康」もまた、比較する対象、即ち「完全に健全である人間」の像が、概念としてでも存在しない場合には成り立たない概念ではなかろうか。

もし、概念としてでも「他者」を想定しているとするなら、それは「関係概念」であると言うことができるであろう。

もしだれかが、人間は他者との比較無しに「健康である」とか「健康でない」とかいう場合、その基準はどこからくるのであろうか。

言い換えれば、人間はそれを「誰から教えられる」のであろうか。

飛躍して「痛み」や「不自由さ」が「健康でない」という基準になり得るであろうか。

また「病(やまい)」とは、一体なんであるのか。

人が「病」を持ちつつ「健全(健康)」であるということは在り得ないのであろうか。

また一跳びに飛躍して「病」について考えるとき、「病」もまた「関係概念」であると考えることはできないであろうか。

「病」とは、とりもなおさず私たちから「奪うもの(者)」である。

即ち、「奪う」ということが「関係概念」である以上、「病」もまた「関係概念」である。

では「死」はどうか。

「死」が単なる「生命」の消滅であると考える場合に於いてさえ、「生命」が「他者との有機的な繋がり」の上に成り立ってる以上、「死」は「関係性」の中で起こる現象であると考えることができるであろう。

また、私たちは「死」という言葉を、慣用的には「関係性」の中に当て嵌めて用いる。

「孤独死」或いは「犬死(いぬじ)に」などがそれに当り、「孤独死」については特別な説明は必要ないであろうが、「犬死に」とは一般に、「意味のない死」のことであり、この「意味のない」とは、即ち、遺された生きている人間にとって「意味のない」という意味であるから、この場合、「他者にとって意味のない」という意味で「関係概念」である。

このように人間は、その存在の「初め」から「終わり」まで、文字通り、始終「関係性」の中に在ることを、私たちの経験は証明しているのである。

「人間」は「関係性の中で生きる存在」である。

ここで私は、この事実はすべての人間に共通する2つの側面を意味していると考える。

第一に、すべての人間は「社会的な存在」であるという側面。

第二に、すべての人間は「宗教的な存在」であるという側面。

第一の側面については、私はここで、敢えて言葉を重ねようとは思わない。

第二の側面については、恐らく説明が必要であろうから少し述べようと思う。

私が、「関係性の中で生きる存在」であるすべての「人間」が「宗教的な存在」であるという理由は、私が「宗教」とは一体なんであるのかと考えているのかということに懸かっている。

「宗教」とは元来、神や仏など「超越的な存在」に関わるもの、或いは、人間の霊魂、即ち「現世的経験の外側」に関わるものである。

どれほど「現世的経験」に重きを置く宗教であったとしても、必ず、上に挙げた「超越的な存在」あるいは「現世的経験の外側」に関する「教条」或いは「命題」を持っているであろうし、もしそのようなものを一切持っていないとすれば、それはもはや「宗教」とは呼べず、それは人間のもう一つの側面に属する「社会的な思想」或いは「運動」である。

ともかく、「宗教」が「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」に関するものであり、且つ「人間」は「関係性の中で生きる存在」であると言うとき、すべての人間は「宗教的な存在」であるという私の指摘は、恐らく正しい。

なんとなれば、「関係性」とは、とりもなおさず「人間」の「外側」に存在するものとの間に初めて存在する概念であるが故に、「人間」は「外側」を必要としているからである。

ところで、「ひとりの人間」は「もうひとりの人間」を、完全に「外側の存在」として経験することが、果たしてできるであろうか。

というのは、私たちは「自分以外の人間」を自分自身の「経験を通して知る」のであり、また、それが可能であるのは「他者」である「もうひとりの人間」が、私たちと同じ「人間性(という経験)」を持っているという事実に根ざしているからである。

つまり「ひとりの人間」が「もうひとりの人間」を「知る(出会う)」とき、「ひとりの人間」は「もうひとりの人間」を自分の「経験の中で知る(出会う)」のであって、言い換えれば、「もうひとりの人間」を、自分の「経験の中に取り込んでいる」のである。

そして「ふたり(或いはそれ以上の複数)」の人間が「関係性」を持つというとき、「人間」は、「お互い」を自分の「経験の中に取り込んでいる」のである。

そのような「経験」の只中に於いては、「ふたり(或いはそれ以上の複数)の人間」が「お互いの内側に存在する」のであるから、そこに「外側の存在」としての真の意味での「他者」は存在しないのである。

ここに、私が「すべての人間は宗教的な存在である」と言う理由がある。

つまり「人間」は、根源的に「外側の存在」としての「他者」を必要としているにも関わらず、同じ「人間」の中に、それを見出すことができないのである。

そこで「すべての人間」は、たとえそえれが「抽象的な概念」であったとしても「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」の経験を必要としているのである。

ここで「すべての宗教」は「救済論」となると、私は考える。

「救済」とは即ち「人間」の「根源的な必要が満たされること」である。

もしそうであれば、「真の宗教」は「抽象的な概念」では在り得ない。

なんとなれば「抽象的な概念」には、「現実の必要」を満たすことができないからである。

即ち、「真の宗教」は「具体的な事実」としての「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」の経験を持っていなければならないのである。

ここで、キリスト者である私は、多くの「この道」の先達が、聖書の証する「神」こそが「唯一の実在(或いは現実)」であると告白していることに注目する。

「神」こそが「実在(現実)」であり、その方に比べれば、「人間」の「実在性(現実性)」は影のように頼りなく不確かなものである。

それにも関わらず「人間」は「存在(実在)」しようと欲するが故に、「唯一の(絶対的な)実在」である「神」との「関係性」を必要としているのである。

20世紀最大のキリスト教神学者の一人であるカール・バルトは初期に於いて、「人間」が如何にしても到達し得ない「全く異なる存在」としての「神」を「絶対的他者」という言葉で表現したが、後期には、「神の人間性」について言及している。

バルトにとっての「神の人間性」とは即ち「神の人間への関係と顧み」であった。

私もまた、キリスト教の「神」は「絶対的他者」であると共に「人間に関係する者」であると確信している。

そしてこのことは重要である。

なぜならば、「神」がもし「絶対的他者」でなければ、その「神」には「人間」の根源的な必要を満たすことはできず、即ち「救済者」で在り得ないのであり、またもし「神」が「人間に関係する者」即ち「人間」を憐れみ「積極的に人間と関係性を築こうとする神」でなければ、「人間」は「絶対的他者」である「神」を永遠に知ることができないからである。

またこの「救済論」が実現するためにはもう一つ大切な条件が存在する。

それは「神」が「人間」の「上位の存在」であり、「人間的な経験にとって不可能なこと」を実現する力を持っていなければならないということである。

このことについては、聖書は「創造主」としての「神」を指し示すことによって保証を与えている。

即ち「創造主」である「神」は「被造物(世界)」に対して「完全に自由な介入」を行うことができるのである。

この「完全に自由な介入」を、聖書は「奇跡」と呼んでいるのである。

私としては、「奇跡」について、聖書の「神」は「完全に自由」ではあるが「秩序を重んじる」神でもあることをも強調する必要があると考えているが、「奇跡」については、ここでの主題を離れるので、これ以上は言葉を控えたいと思う。

ここで私が述べたかったことは、「人間」が「神」を知り、「神」との「関係性」を持つことができるというのは、「創造主である神」の「主権」に根ざした「奇跡」であるということである。

ここで私としての結論を述べたいと思う。

「すべての人間」は根源的に「関係性」を必要としている存在である。即ち「すべての人間」は「救済」を必要としている存在である。そして、「救済」とは、とりもなおさず「絶対的他者」としての「神」との「関係性」であり、それは聖書に証された「憐れみ深い創造主としての神」の「主権」によらなければ、永遠に不可能なものである。

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コメント

トイフェルスドレックさん、お久しぶりです。

久しぶりにmixiを覗いて、ブログに到達しました。

ところで、私はせっかく社福の資格まで有しながら、様々な理由から、福祉の仕事をやめ、以前従事していた知的財産権のフィールドにおける仕事を目指して勉強中です。

この5月に正式に教会員の名簿から削除していただき、組織から自由になった気持ちでさばさばしていたのですが、返って、心の中で神と対話する機会が多く、逆に信仰を深めているような気がします。

まぁ、信仰の仕方もそれぞれでいいのかな、なんて思ったりもしますが…。

ところで、今回の記事、いつもブログの内容が哲学的でとても難しいなという印象を持っていましたが、とても深く感銘しました。

ありがとうございます。

投稿: や~し~ | 2011年9月27日 (火) 21時14分

クリスマスと新年おめでとうございます。トイフェルスドレックさんと同じ旅の仲間に入れていただいて嬉しいです。ありがとう。
僕は昨年夏に母をなくし、父は既に他界していますので、兄妹だけの寂しい家族になってしまいました。将来が不安です。しかし、母の死によって神への思いが強くされたように感じています。
僕が結婚すればいいよ。といってくださる人もいます。確かにそうかもしれません。
 今年もよろしく。旅を続けてゆきましょう。

投稿: のり君 | 2012年1月 4日 (水) 22時47分

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