JUMP
『JUMP』
この曲は私を「祈り」についての黙想に導く。
E.H.ピーターソンは著書『牧会者の神学』において、「祈りと遊び」が深く関連していることを論じる中で、詩篇92編を引用しながら次のように書いている。
祈ることと遊ぶことは、野生の雄牛のありさまに似ている。すなわち、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ」るのである(11節)。それは野生の動物が自由を謳歌しているありさまである。跳躍する様子、空を飛ぶ様子、踊りはねるように進む様子など、動物たちがその自然の環境の中で生きている姿を目にするのは私たちにとって喜びである。中略、祈ること遊ぶことは、そうした様子に似ている。つまり、それは「飼いならされていない」のである。祈ること遊ぶことにおいて、私たちはさまざまな見せかけや覆面を放り捨てる。そこでは、私たちは強固な自意識からも解放される。そこでは私たちがあるがままの存在となるのである。中略、プラトンは、人間であれ動物であれ、あらゆる被造物の子どもたちが跳びはねることの中に、真の『遊びの本質』のモデルを発見した。ほんとうに『跳びはねる』ためには、人は地面を跳躍板のように利用する方法を知るとともに、弾力のある安全な着地のしかたを学ばなければならない。中略、それは引力に打ち勝とうとする試みであって、そこから逃げ出すことではない。
ここに言われている「飼いならされていない」という言葉は清志郎さんのイメージにぴったりだと思う。そして清志郎さんは「遊び」がとても上手な人だった。
C.S.ルイスは『ナルニア国ものがたり』の中で、アスランを「飼いならされていない」ライオンとして描いている。
私は「飼いならされていないもの(人)」が大好きである。
「聖なるもの」は、すべからくそうであるからだ。
私もそのようで在りたいと願っている。
清志郎さんの歌を聴いているとき、私は清志郎さんの聖(きよ)さに触れているように感じる。
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