« 2011年9月 | トップページ

2012年1月

十字架の苦しみはキリスト者の家紋である

 ある考え方によると、キリスト者の群れは「家族」として持つ多くの類似性によって他と区別される。そして、19世紀のスコットランドにおいて指導的な牧師であり、賛美歌作者としても知られているホレイシャス・ボナーは、「十字架の苦しみ」こそキリスト者の「家紋」であるという特徴的な考えを持っていた。

 ボナーの宣教活動は成功していたが、彼自身の個人の生活は、苦しみと無縁ではなかった。五人の子どもを短い期間に次々と喪い、そのことは彼の思想に深い影響を与えた。キリスト者の生活における苦しみの位置という問題は、彼の思想から離れず、それは刊行された彼の作品の中でたびたび述べられている。

 彼ら(キリスト者)はこのどれよりも独特な一つのしるしを持っている。それはまさに家紋である。すなわち、彼らは皆、十字架を負う者たちなのである。これは各人がそれによって認知される、確実なしるしである。彼らは皆、十字架を負う。それを恥であるかのように隠すこともしない。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この方によって、世界は私たちに対して十字架につけられ、私たちも世界に対して十字架につけられたのです。」十字架は時には軽く、時には重い。時には恥と苦しみを多く、時には少なくもたらすが、しかしいつも彼らの上にある。 

 悲しみの小道は人跡まれな道ではない。すべての聖徒が足を踏み入れた。彼らの足跡をそこにたどることができる。それは慰めとなるのだ。このことを記憶することは、慰め、いや、励ましとなる。もし私たちが土牢に捕らえられるなら、私たちの前に多くの殉教者がそこにいたと知ることは慰めにならないであろうか。古代の壁一面に彼ら自身の手によって書かれた名前を読むことは励ましとはならないだろうか。私たちがすべての苦しみから抜き出す慰めは絶大なものである。私たちが投げ込まれるかまどは、すでに多くの聖徒によってきよめられているのだから。

 「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」(Ⅱテモテ2:12)。このことを私たちは確信している。ここで苦しみにおいて一つであることは、この後、栄光において一つであることの保証である。この二つは切り離せない。彼の恥は地上で私たちのものであり、彼の栄光は天で私たちのものとなるであろう。それゆえ、「キリストの苦しみに与れるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(Ⅰペテロ4:13)。

 私たちは孤独の夜をさすらう旅人にすぎない。遠方にある山の頂上に、ここでは決して昇ることのない太陽の反射をかすかに見るが、太陽はその後にある「新しい天」では決して沈まない。そして、それで十分である。それは暗いでこぼこ道で私たちを慰め、励ます。

        アリスター・マクグラス著『信仰の旅路 たましいの故郷への道』より引用

 地上においては「苦しみ」は常に私たちとともにある。もし私たちの現状がそのようなものでないとしたら、それは逆に私たちが「家紋」を失っていることを意味しているのだとボナーは述べている。

 すべてのことには時があり、「苦しみ」の生活の中に「慰め」と「励まし」の時があり、さらにそこには「恵み」と「喜び」も添えられている。そしてそれは私たちに対する主の深い憐れみによる。

 しかしこの世はキリスト者にとっては「終の棲家」とはならない。すなわち安息はこの世にはないのである。

 このことを忘れて、この世に全き安息を求めようとするとき、私たちは「家紋」を失っているのである。

 「家族」であることの一つの重要な意味は、財産を共有していることである。

 それは、聖書の中の表現を用いれば「共同相続人」であることを意味している。

 そして「家紋」を失うということは、家族の証を失うことであり、財産の相続権を失うということでもある。

 キリスト者の持つ「家族」としての財産とは、イエス・キリストに在る無限の富、すなわち「永遠のいのち」と「天の御国」における国籍である。

 地上におけるつかの間の安逸のために、これを失うことは愚かである。

 だから兄弟姉妹たちよ、この「家紋」を絶対に手放さないように守ろうではないか。

 主が共にいて、これを守って下さる。そして、すべての苦しみから、必ず私たちを救い出して下さる。

 聖書に証されている約束の中で、これほど確かな約束はないと私は確信している。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「折伏」即「摂受」である

「神の痛みの神学」は痛みなき神を説く神学に対して「折伏」の役目を果たさねばならぬ。―中略―神の痛みの神学は二つの側面の真理を含むが故に、「折伏」もまた二つの側面に対してなされねばならぬ。第一には、神が徹底的に包み給う神たることをば否定する立場に対して。第二には、包み給う神の愛から神の痛みを押し出す立場に対して。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.29.(強調は原著者)

しかし、この「折伏」は神の痛みの神学によってなされるが故に、それは同時にまた「摂受」でもなければならぬ。痛みにおける神は徹底的に包み給う神であった。もしこの神がなんらか他の立場に対立し、これらを単に「折伏」するのみであるならば、それはすでに自己の本質から逸脱したことを意味するであろう。神の痛みは一応自己と対立する立場をも究極においては包み生かすのでなければならぬ。これすなわち「摂受」である。しかもその際単に包むのでなく、相手をしてその抽象性を自覚せしめ、これより脱却せしめて、具体的真理に化するごとくに包むのでなければならぬ。「折伏」即「摂受」である。

前掲書 pp.33-34.(強調は原著者)

※折伏(しゃくぶく)は、仏教用語であり破折屈伏(はしゃくくっぷく)の略であり、相手の間違った思想に迎合することなく、正しいものは正しいと言い切り、相手と対話を通じて仏法を伝えること。摂受(しょうじゅ)は、折伏(しゃくぶく)に対する反対語であり、正しくは摂引容受(しょういんようじゅ)といい、心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ、穏やかに説得することをいう。

ここに「折伏」即「摂受」であると表現されている議論、或いは対話の方法は、まさにヘーゲルの弁証法におけるアウフヘーベン(止揚)、すなわち「否定の否定」である。

また北森は、同じ文脈においてキェルケゴールの次のような言葉の引用している。

「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり!』と歌っている。しかしこれらのソプラノの下にあたかも潜められたバスのごとく、犠牲(いけにえ)とせられ給いし人の『深き淵より』De Profundisの声が響く、いわく、『神は愛なり!』」

前掲書 p.32.

そして北森は、この「楽しげなる人間」のソプラノのみを歌い、「深き淵より」響く神の痛みのバスを聴く耳をもたない近代主義神学の論者たちに対して「友よ、この調べにはあらず!」と繰り返し述べている。

ここで注目すべきことは、この『神の痛みの神学』において北森は「折伏」されるべき近代主義神学の論者たちを「友」と呼んでいることである。

これこそが、真にキリスト教的な議論、対話のスタンスであると私は確信する。

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

箴言17:17

また、恐らく理想的な弁証法は真にキリスト教的な人格においてはじめて成立するものであろうとも思う。

北森の「友よ、この調べにはあらず!」という言葉には、以下のような含みがあると私は考える。

友よ、この調べにはあらず!然るに我らの神は我らを友と呼び給う。故に汝は神の友であり我が友である。それ故我らは共に、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、我らの神の御心の深みまでを探り求めようではないか。

北森はこう述べている。

およそ神学の性格を決定するものは、そのモティーフすなわち本音としての意図である。

前掲書 p.30-31.(強調は原著者)

そしてこの神学の「モティーフ」とは「神の痛み」であり、人間の「破れたる現実」を「徹底的に包み給う神」である。

にほんブログ村
 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

人気blogランキングへ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年9月 | トップページ