独白ではなく、対話として・・・

春爛漫に神を知る

このところ急に暖かくなり、一気に春めいてきた。

ちょっと散歩に出かければ、正に春爛漫、百花が咲き乱れており、陳腐な言葉ではあるが、今更ながらに自然の美しさに驚嘆する。

特に私の目を惹くのが白い花々と黄色い花々である。

白い花と言えば、雪柳(ユキヤナギ)や小手毬(コデマリ)、白木蓮(ハクモクレン)など。

黄色い花では連翹(レンギョウ)やミモザ、そして何と言っても私の故郷の菜の花畑を思い出させるアブラナが私の心を捉えて止まない。

花々は、明るく優しい春の光の中で、自らの命の輝きを鮮烈に放っている。

次のようなイエス・キリストの言葉が真実であることを、改めて気づかせられる思いである。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 マタイ 6:29~30

また花々を見ていて、気がついたことがある。

花々は日の光に照らされ、風に揺られている瞬間に最も活き活きと、その命を輝かせているように私には感じられたのである。

ヨハネはイエス・キリストを「すべての人を照らすそのまことの光」であると証言している。

また主イエス・キリストご自身が、自ら「わたしは、世の光です。」と証言しておられる。

光とは命を輝かせるものであると私は考えている。

命を輝かせるとは、その命が持っている性質を最大限に引き出すということではないだろうか?

光の中で、雪柳はより雪柳らしく、連翹はより連翹らしく、人間はより人間らしく、その命を輝かせることができるのではないだろうか?

もっと言えば、イエス・キリストという光に照らされて、私という人格は、他の誰とも違う、より自分らしい自分になれるのであると私は考える。

自ら「わたしは、世の光です。」と証言しておられるその同じお方が「あなたがたは、世界の光です。」と、私たちキリスト者について証言しておられる。

ここから私は、私たちキリスト者は世界中の人々が、自分らしい自分になれる世界を実現するために世に生きているのだと考える。

ここで、同じように風についての聖書の言葉にも思いを巡らせてみる。

旧約聖書の多くの箇所において、風は、神の命、神の力、神の働きの象徴とされている。

神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。 創世記 8:1

あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。 出エジプト 15:10

数え上げれば切りがない。

そしてイエス・キリストは風を、神の霊すなわち聖霊の象徴として用いた。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。 ヨハネ 3:8

ここから、風もまた命を輝かせるものであると私は考える。

春爛漫を愛でつつ、聖書の言葉に思いを巡らせたとき、神がご自身を自然の中にあらわされるお方であることを改めて知った。

今日私にあらわされたのは、春爛漫の力強くも優しい自然であった。

しかし、私たちが経験として知っている通り、自然は優しいだけではない。

自然は人間に支配されるものではなく、殺し、壊し、奪うという恐るべき力をも持っているものである。私たちは、この自然を創られた神は、それ以上に恐るべきお方であることも忘れてはならない。

私たちにとって幸いなことは、神は自然とは違い、人格あるお方であり、そのご人格は、「情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる」ということである。

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二つながら神から与えられているもの

以下は3月16日(月)の岐阜新聞に掲載されたコラム『分水嶺』の記事である。

梅から桜への間にも、いろんな花が春の訪れを伝えている。わが家の小さな庭でも沈丁花(じんちょうげ)が満開を迎えた。華やかさよりは香りで知られるが、花もなかなか面白い。つぼみのころは少し紫がかった赤色で、開花とともに白が広がる。花弁の外側は赤でも内側は白。外側を隠すように開花は進むので、全体の色も赤から白へと変化する。そんな紅白の対照が楽しい沈丁花だが、目を射るばかりに鮮やかなのは連翹(れんぎょう)の黄色だ。春がすみの中にあっても、つるのように長い枝を揺らしつつ、春の眠りをむち打つような原色の黄色を放っている。「日本大歳時記」にこの二つの花にちなんだ句があった。《部屋空(うつ)ろ沈丁の香のとほり抜け 池内友次郎》《連翹のまぶしき春のうれひかな 久保田万太郎》。俳人たちは「部屋空ろ」や「うれひかな」と、喜びあふれるはずの春の風物を前に憂愁の思いも感じている。だが、そんな春の愁いをいち早く見いだしたのが万葉歌人だったことに驚かされる。《うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば 大伴家持》。歌人でもあった国文学者折口信夫は《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》と、家持の鋭敏な感性と時代を超えた普遍性を指摘している。明と暗、歓喜と憂愁。古今の詩人たちは日々の生活だけではなく、自然の営みにもそれをくみ取っていたようだ。

この記事を読んで、私も、大伴家持のような《独りで物を考へる事のしづかなやすらひを知った人》でありたいと改めて考えさせられた。

明と暗、歓喜と憂愁、これらは確かにはっきりとした境界線を持たずに、私たちの生活に混在する。

明と暗、歓喜と憂愁。或いは、私たちはその間に生きているということもできよう。

私は私という人格について、聖と俗の狭間に生きる「ひとりの人」であると考えている。

同じように私は明と暗の狭間、歓喜と憂愁の狭間に生きる「ひとりの人」でもある。

明と暗、歓喜と憂愁。これらは私にとって、いずれも、二つながら神から与えられているものである。

わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。 イザヤ45:7

神から与えられるものは全て感謝して受けるべき恵みであると考えるべきである。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。 Ⅰテモテ 4:4

今、我が家の庭では、水仙(すいせん)が花盛りであるが、雑草も伸び盛りである。

水仙は春の訪れという歓喜を私にもたらし、雑草は労苦して草むしりに励まなければならないという憂愁を私にもたらしたわけである。

主の御名をほめたたえつつ、二つながら感謝して受けよう。

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慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。 Ⅱコリント1:3

今この瞬間も、世界中の多くの人々が慰めを必要としている。

ほんの少し想像力を働かせれば、人類の歴史は常に大いなる慰めを必要としていたことが、誰にでも分かるに違いない。

世界は苦難と悲しみが溢れていて、私たちはいつでも大いなる慰め主を必要としている。

そして聖書は神こそが偉大な慰め主であると証言している。

神は完全なお方であるから神が慰め主であるというとき、それは完全な慰め主を意味する。

私たちには他者の苦しみに対する想像力と、理解によって慰めの言葉を語ることが、確かに可能である。

苦しむ人々も、その慰めの言葉から、確かにある程度の慰めを受けるであろう。

しかし、慰められる者は、自分の苦しみは完全には理解されていないであろうことを知っている。そしてそれは自己憐憫による誤解などではなく、事実である。

私たち人間に、他者の苦しみや痛み、辛さを完全に理解することなど不可能である。

しかし完全な慰め主である神は、禅者牧師と呼ばれた吉田清太郎の言葉を借りれば、「天と心に住む神」であるであるから、私たちの心の隅々までを理解することが可能である。

そればかりか神は私たちの心と身体を創られた方なので、全てのことを知っておられる。

完全な慰め主は、自らがその慰める対象と同等の苦しみ、悲しみを経験していなければならない。

必要なのは経験であって、想像力や理解ではないと私は考える。

なぜなら私たちは、たとえそれがどれほど慈愛に満ちた言葉であろうとも、苦しみの経験を持たない者の慰めを受け入れないからである。

涙とともにパンを食べたものでなければ、人生の味は分からないというゲーテの言葉を、私たちは真実として受け入れる。

私たちの神は、人類の歴史の只中に、ナザレのイエスという一人の人間として入り込み、まさに「涙とともにパンを食べた」お方であり、さらには信頼していた友に裏切られ、誰からも見放され、その十字架の苦しみの極みの中で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」とまで叫ばれたお方である。

このように人間の苦しみを極みまで経験されたお方であるから、私たちはこの方の慰めを受け入れることができる。

私たちはそのような完全な慰め主を絶えず必要としているはずである。

慰められる者が神によって慰められるために、どうしても必要なことがただひとつある。それは、神が人間の苦しみを極みまで経験された、まさに完全な慰め主であることを知ることである。

この事実を心から理解し、その神が今も生きて私たちを愛しておられることを知ったとき、私たちはすでに完全な慰めを受けているのである。

また世界が現実に慰められるためには、慰め主には力がなければならない。

世界は病み、呻いている。

しかしここでも私は世界を構成する一人ひとりの人格的な人々、個人に目を向けたい。

一人ひとりの人格を完全に救済する力こそ、世界を慰める力であると私は確信する。

そして「ひとりの人」を完全に救済する神の力は、聖書においては「死者をよみがえらせる」という言葉で完全に表現されている。

そして聖書は、神がイエス・キリストを死者の中からよみがえらせたのと同じように、私たちをよみがえらせてくださると約束している。

私たちの希望は、この主イエス・キリストの復活にこそあるのである。

また私はこれまでの人生においてひとつのよみがえりを経験している。

それは私がイエス・キリストを神として受け入れキリスト者となったという経験である。

これは今のわたしにとっては、「死んでいたのが生き返った」のと全く同じ意味を持っている。

イエス・キリストが語った有名な放蕩息子のたとえ話は、私にそのことを確信させるのに役立つ。

「絶望は死に至る病である」と書いたとき、キェルケゴールは唯一の救いであり、慰めである神を見上げていたのだと私は確信している。

慰められるとは、人が絶望の中で希望を見出すことであると私は考える。

聖書が語る「慈愛の父、すべての慰めの神」を知るとき、私たちには永遠にまで続く希望がある。

このことを覚えるとき、最初に引用した聖書の言葉は、私たちの心からの祈りになる。

私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

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天の父が完全なように、完全でありなさい。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 マタイ5:48

この言葉は「心の貧しい者は幸いです。」という驚くべき言葉から始まるイエス・キリストの有名な説教である山上の説教のなかで語られたものである。

天の父とは父なる神である。イエス・キリストはその神が完全であるように、私たちも完全でありなさいと仰った。果たしてイエス・キリストは私たちに不可能な重荷を無理矢理に負わせるようなお方であろうか?

それとも、ある憐れみ深い牧師がかつて私に語ったように、このような聖書の中の達成不可能と思われるような命令は、私たちの不完全さを示し、謙虚と謙遜を与えるために、達成不可能であることを前提に語られているのであろうか?

以前は私はそのような理屈にも納得していた。そしてそのように考えることは確かに私の信仰生活に少なからず良い影響をもたらしてもいる。

私は自分の限界を知り、主イエス・キリストのようにはなれない罪深く弱いものであるからこそ、主の前にへりくだり、赦された罪人としてだけではなく、今も赦され続けている罪人として、それでも「わたしについて来なさい。」と仰ってくださる主の憐みによって、主と共に歩むことができる今を喜んでいる。

しかし、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というこの言葉が、主イエス・キリストの言葉である以上、私はこの言葉に真剣に取り組まないわけには行かない。

ここでイエス・キリストの仰られた父の完全さとは一体何を意味しているのであろうか?

当然考えられることは、神が全知全能であるように全知全能であれという意味ではないということである。

文脈から考えれば、ここでの完全さとは、愛における完全さである。

ここでもやはり愛である。

神は、そして主イエス・キリストは、徹底して人間に愛を求めている。

愛についてこの文脈で強調されていることのひとつは、自分の敵を愛することである。

「汝の敵を愛せ」

キリスト教の愛の奨励において最も有名なものが、この敵をも愛する愛である。

このような愛は自然の人間の感情に反するし、実現が不可能であるように思われる。

この愛の奨励と対になって、よく教会の説教において語られる言葉が「愛は感情ではない」というものである。

この言葉によって表現したいことは私にも理解できる。「愛は行為である」とか「愛は決断」であるとか、たとえ感情的に目の前の敵を愛することができないとしても、その敵を赦す決断をするとか、さらにはその敵が窮地に立っているとしたら、その窮地から脱するために積極的に力になるということを奨励しているのである。

このような奨励が実現されたとき、それはまさに敵をも愛する愛であると言えよう。

そして驚くべきことに(私は本当に驚いているし、この記事の読者にも心から驚嘆して欲しいのであるが)教会の歴史の中で、このような愛は度々実現されている。

しかし、敵をも愛する愛が、神の愛の完全さと等しい完全さとして奨励されるとき、その愛に感情が伴っていないとは私にはどうしても思われない。

感情という言葉が人間の罪性を連想させる言葉であるとすれば、別の言葉を用いる必要がある。

神の愛は、心からの愛、さらに相応しい言葉で言えば、全人格的な愛なのではないだろうか?

聖書の神、即ちキリスト教の神は人格的な神であると言われる。そしてその人格とは愛そのものである。そのような神が、その存在の一部においては敵を憎みながら、決断において、或いは行為においてのみ愛するということをなさるだろうか?

そうとは考えられない。そのような愛は完全な愛ではないからである。

私たちは神ではない、弱く罪深い人間である。それはイエス・キリストの福音に出会い、そのイエス・キリストへの愛と信仰を持ったキリスト者になっても完全には変わらない、或いは信仰を持ったことにより、それ以前よりもより深く自分の弱さと罪深さを発見する、そのような者である。

そんな私たちはあらゆる社会生活において敵と対峙したとき、選択を迫られるのである。

敵を敵として憎むか?それとも愛するか?

敵を憎むことを選ぶのも、簡単なことではない。敵を憎めば、その憎しみが私たちを縛る鎖になるからである。それはキリスト者でなくとも経験的に理解していることではないだろうか?

それでは敵を愛するのはどうか?

私は感情にはよらない、決断においてこの敵を赦そうと考えることは、ある意味では憎み続けることを選択するよりもたやすいことのように私には思われる。

もちろん私個人が全ての敵に対してそのように行うことが出来るという意味ではない。

人間はどちらがたやすいかによって自分の行動を選択するのではなく、そのときの気分によって選択するのだと私は考える。

そして気分は良く変わるものである。

そこで、大切な選択をするときには、気分を追いやる必要があると私は考える。

その気分を追いやる方法を聖書は提供していることを私は知っている。

それは沈黙、「神である主の前に静まれ。」という言葉である。

主の前に沈黙するためには、私は自分の全ての仕事を一切止めなければならない。

この神の前での沈黙によって、私たちは敵を愛することを決断することができるのだと私は信じている。

しかしそれはまだスタートであってゴールではない。

ここから「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」というイエス・キリストの言葉が心に迫ってくる。私は完全な愛を追い求めなければならないのである。

そして祈りが生まれるのである。

祈りは神を変えない。祈る人を変えるのだ。  キェルケゴール

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 Ⅱコリント 3:18

祈りは御霊なる主の働きの中でも最大のものの一つであろう。

そして御霊なる主は、私たちが自分の仕事を止めて主の前に静まるときに最も力強く働かれる。

残念なことは、私は完全に困窮するまでは自分の仕事を止めないことである。

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なぜ自分は書物を書くのか?

スイスの精神科医ポール・トゥルニエがその著書『人生を変えるもの』の序文で、この問いについて書いている。

そこにはこの同じ設問についてのパリ生まれのアメリカ人女性アナイス・ニンの言葉が引用されている。

「人が書物を書くのは、自分が住みやすい世界を作るためである」

そして、トゥルニエにとっての住みやすい世界とは、「人間同士の間に誠の触れ合いが存在する世界すなわち、互いに心を開くことができ、互いにこうして真実の自分自身になるために助け合うことができる世界」であると書かれている。

私がこの場で記事を書く動機も、恐らくこの二人の先達と同じである。

自分が住みやすい世界、そしてそれは誰にとっても住みやすい世界でなければならない。

トゥルニエが語る住みやすい世界とは、今の私の言葉で表現すれば、全ての人々が人格的な「ひとりの人」すなわちパーソナルな存在として自覚を持ち、しかも尊重される世界である。

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愛がなければ、何の役にも立ちません。

タイトルは有名な聖書の言葉であるが、今日はこの言葉についての黙想をここに記すことにしたい。

聖書の別の箇所には「愛は神から出ているのです。」「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」という言葉が書かれている。

そこでこの聖書に土台を置くキリスト教が、愛の宗教であると言われるのは至極当然のことであると思う。

しかしこのことはキリスト者である私にとっては非常に重い意味を持つことになる。

なぜならば、上述の前提に立てば、全てのキリスト者は愛の人であるか、或いは少なくとも愛の人たらんと努力しているのでなければならないのではないかと、私は考えるからである。

ある人々に言わせれば、それは自分で努力するのではなく、神様にして頂くのであるということになろう。

私もその意見に全面的に賛成であるし、私の理解では、聖書もそのように示唆している。

しかし、それを理解したうえでも、私には、この愛の問題は大きな問題なのである。

愛とはいったいなんなのであろうか?

「人類愛」という言葉がある。

「愛は世界を救う」という有名な標語がある。

だれもが愛とは、素晴らしいものであると認めているし、多くの文学者や芸術家たちが、愛が人間の本質的な感情のひとつであり、人間の行動、或いは人間存在そのものを、より高い次元に引き上げるものであると見做している。

上の意見にも私は賛成である。確かに愛は、人間の行動や人間存在を、より高い次元に引き上げるものであろう。

しかしそのような愛が、いったい私のような単なる一人のキリスト者の日常生活のどこに在るのだろうか?

そこで私はいつものように聖書に答えを求めるのである。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 Ⅰコリント13:4~7

聖書による愛の説明はこうである。

私にとっての信仰とは真剣さであるから、この愛の説明にも真剣に向かい合いたいと思う。

この中で語られている一部のものを、私は微少ながら持っていると言っていいかも知れない。

私は人々に寛容でありたいと、絶えず望んでいる。同じように、人々に親切でありたいと望み、礼儀に反することは極力ないように努めているつもりである。そして何よりも真理を喜ぶものでありたいと願っている。

そしてこのような自分を、キリスト者として誇りに思う自分が、私の中に確かにいるのである。

これは高慢と言えるのではないか?

また、怒らず、人のした悪を思わずということも、私に難しい。これは個人的な恨みや憎しみについてもそうであるが、公の正義についても言えることである。いったい公の正義が踏みにじられる時に、怒らずにおられるであろうか?

不正を喜ばずという言葉は、不正を憎むという言葉とは、全く別の意味であるように私には思われる。

真剣に考えれば考えるほど、私の中に聖書が示すような愛はないことが、ありありと理解されてくる。

しかし、聖書は神を愛し、互いに愛し合うように、それどころか敵をさえも愛すように命令しているのである。

そしてそれは、私にはとうてい不可能であると考えられることが時々ある。

愛がなければ、何の役にも立ちません。

この言葉に、私は心から賛同する。

そこで、私には愛がないと感じる時に、私は何の役にも立たない者であるとも感じているのである。

しかし、別の時の私は、愛の人でありたいと心から願い、神に祈り、努力しているのも事実である。そしてそれは、誰のためでもない、自分自身のためなのである。

それはこういうことだ。

私は、もし上述の聖書の言葉にあるような愛を持った人間がこの世にいるとしたら、その人がこの上も無く幸福な人間であることを確信しているのである。

そこで私は、今この瞬間も、私自身の幸福のために、愛の人でありたいと願っているのである。

私は正直に言えば、私と私の家族、そして私の愛する人々の幸福を願っているのであるが、私を含めた全ての愛する人々の幸福が、時として対立することがあることを知っている。

それは上の聖書の言葉で言えば、妬まず、自分の利益を求めず、ということと関係するであろう。

またここでは、幸福とはいったい何であるのかという問題が発生してくる。

またこの文脈において幸福について考えるとき、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶということについても考えさせられる。

聖書の説明する愛と、私の考える幸福は、深い関係にある。これは事実である。

しかし、どうやら私は言葉の迷宮に迷い込んでしまったらしい。

結局はこういうことではないか?

愛とはイエス・キリストの全存在を通して、私たちに教えられているのである。愛を知るためにはイエス・キリストを知るしかない。イエス・キリストを知るということは愛を知ることである。すなわちイエス・キリストを、真実に知った者は全て、イエス・キリストを愛するようになるのである。

イエス・キリストは、あなたは私を愛するか?と、今日も私に語りかけておられる。

私はいつものようにこう答えるのである。

主イエス・キリスト、私はあなたを愛します。そしてあなたはそのことを知っています。

そして主はいつものようにこう仰る。

それではそれで充分である。

そして私はただアーメン(それは真実です)と答えるのである。

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偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?

偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか? という興味深い問いに出会った。 (プラシーボ効果についてはhttp://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.htmlなどを参照)

以下は上記の興味深い問いに対して試みた、現時点での私の試論である。

聖書が偶像礼拝について批判している理由の一つは、偶像礼拝によって、礼拝者である人間も、また礼拝の対象である神も矮小化されてしまうからである。

口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。 
                               詩篇115:5-8

偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。 
                                      イザヤ44:9

次に聖書の主張する、まことの「神」である「主」以外に、絶対的な権威者として仰ぐべき存在はないということについて。

主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。
                                     詩篇95:3

つまり聖書は「主」であるヤハウェのほかに「神々」と呼ばれるものが存在することは認めている。しかし、この「神々」をどのような存在として理解するのかについては多くの議論があるが、ここでの関心は、この点についての詳しい議論ではない。

上記の点を踏まえた上で、果たして偶像崇拝の「ご利益」はプラシーボ効果なのか?という問いについての私の考えを述べる。

『人は神に向けて造られており、人の心は神に憩うまでは安らぎがない』
                            アウグスティヌス著「告白」より

『人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何者をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる。』 
                                パスカル「パンセ」より                                          
これらの先達の言葉から、人間は真実の神を見出して心が満たされるまでは、普遍的に偶像を必要とする存在であると私は考える。

あるジェームズ・フーストンは、その著書『心の渇望』の中で、偶像礼拝は「誤った願望により生じる結果」であると言っている。ここでいう「誤った願望」とは、真実の神によって満たされるべき空洞を、別のもので満たそうとする「願望」であると私は解釈している。フーストンは同じ著書の中で、有名な心理学者のユングの「その神々は死なない」という言葉と、預言者エゼキエルが「神々」を「糞」と呼んだことを引用して、偶像の持つ「汚す力」の危険性を指摘している。

つまり、聖書は「偶像礼拝の無意味さ」だけでなく「危険性」も語っているのである。

さらにフーストンは「神々」が「礼拝を受ける時に現実の力に」なることを指摘している。

その「力」とは「人はマモン(金銭欲の象徴である偶像)のように固く金属的になったり、エロースのように柔らかく官能的になったり、サタンのように残忍で邪悪になったりしうる」というものである。

これを私なりに解釈すると、人はその信じる偶像に似たものとなるということである。そしてその法則は、偶像の「神々」が実在するかどうかに関わらないのだと私は考える。

それは例えば、アイドル(まさに偶像を意味する言葉である)やロックバンド、或いは歴史上の偉人や身近な尊敬する人物に熱狂的になる人々は、その外見や性格、嗜好など、その全人格に渡って、その熱狂する対象に影響を受ける。そしてそれは、その熱狂の対象が空想上の人物(例えばマンガや物語、映画の登場人物)であってもなんら変わりはない。そしてその結果は、ある時には、その人々に、生活上の成功経験(例えば、友人に尊敬されたり、仕事上の成功をもたらしたり、地位や名声を与えたり)をもたらす。この成功経験は、ある意味では熱狂から来る「御利益」であると考えて良いと思う。勿論熱狂は、逆に破壊的な影響をもたらすこともある。

以上の「熱狂による成功経験」の現象が、キリスト教以外の宗教において観察できる場合、これをある意味においては「偶像礼拝におけるプラシーボ効果」であると言って良いのではないかと私は考える。

これに加えて、「逆説的なプラシーボ効果」として、祈願に応じて子宝を授かることや、病の癒しなどの、実は原因は他の所にある現実の現象を、偶像礼拝者本人が、それを本人の信仰の結果だと思い込む場合があるのではないか、また、この「逆説的なプラシーボ効果」には異教的な文化における「たたり」や「呪い」、「神罰」などが含まれるのではないかとも私は考える。

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任命責任

以下は2月19日の中日新聞、朝刊コラム中日春秋の記事である。

「経済財政担当相兼財務相兼金融担当相」。与謝野馨さんの新たな肩書だ。何となく「三菱東京UFJ銀行」を思い出した。従前からの肩書に加えて、後ろ二つの大臣を兼ねることになったのは、その役にあった中川昭一さんがローマでの記者会見で演じた失態の責任を取り辞任したため。カネの問題や失言などによる引責辞任ならともかく、「風邪薬」のせいでというのは、何というか新機軸である。ただでさえ、支持率低迷で苦境にある麻生首相だ。まさに弱り目に祟(たた)り目としか言いようがないが、自民党内でも麻生批判が一層強まり、当然のように野党からは「任命責任」を問う声が上がっている。それはもっともだろうが、ふと考える。では、その麻生さんを首相に選んだのは誰か。自民党総裁に選んだのは自民党員だが、首相になったのは国会での投票の結果。だから「任命責任」は国会議員にあると言ってもいい。しかし、もう一段遡(さかのぼ)り、では、その国会議員を選挙で選び、そういう状況を国会につくり出したのは誰か。認めざるを得ない。それは、われわれ有権者。「任命責任」は最終的にはそこに行き着くとも言える。政権迷走は極限に近づき、今度の一件で早まったのか遠のいたのかさえ判然としない総選挙だが、遅くも今秋にはある。「任命責任」を思って、今度使う一票には今から磨きをかけておきたい。

この記事を読んで、全くその通りだと頷く反面、なにかトラブルや意に沿わないことが起こると、とかく他者に責任を押し付けがちな自分に反省させられた。

私たちは他者の無責任を責める前に、自分自身を省み、自分自身、与えられた社会的責任を果たしているか吟味してみる必要があるのではないだろうか?

勿論、為政者たちには大きな権威が委ねられているのであるから、それに見合う責任を負う義務がある。

キリスト者である私は、政治に無関心であってはならないと私は考えている。同時に、メディアと同調して彼等を責めるだけではなく、為政者たちのために真剣に祈る必要もあることを改めて反省させられた。

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真理は寒梅の似(ごと)し

今年も梅の咲く季節となった。

今回のテーマは私の座右の銘の一つともいえるもので、同志社大学(前身は同志社英学校)の創立者新島襄の言葉である。

真理は寒梅の似し
敢えて風雪を侵して開く

(しんりはかんばいのごとし
あえてふうせつをおかしてひらく)

この句はもともとは「真理似寒梅 敢侵風雪開」という漢詩であり、現在の同志社大学のキャンパスの礼拝堂近くの「寒梅碑(かんばいひ)」と呼ばれる碑に刻まれている。これは、卒業生で、後に日銀総裁にもなった深井英吾に書き贈った詩であるとされている。

実は新島襄の「寒梅の詩」と呼ばれるもう一つの漢詩がある。

庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争又不力 自占百花魁

庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)
笑って風雪を侵(おか)して開く
不争(あらそ)わず又力(つと)めず
自(おのずか)ら百花の魁(さきがけ)を占(し)む

庭先の一本の梅の木、寒梅とでも呼ぼうか
風に耐え、雪を忍び
笑っているかの様に、平然と咲いている。
別に、争って、無理に一番咲きを競って
努力したのでもなく、
自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。

これは新島襄の晩年の作と言われているが、私はこちらの「寒梅の詩」を先に知った。

この詩には後に曲がつけられ、同志社学生混声合唱団設立の端緒となっている。またこの詩は、詩吟として吟じられることもあり、多くの人々に愛されている。

私がこの詩に最初に出会ったのは、神学校の卒業式であり、ある先生が祝辞の中でこの詩を吟じて下さった際、非常に感動したことを今も覚えている。

ところで、上の二つの詩句を比較するとすぐに分かることであるが、二つの詩は「侵風雪開」という共通する詩句を持っているいわば、お互いに深い関わりを持った、兄弟或いは姉妹のような詩であり、少なくとも私はそのように理解している。

詩として私が特に好むのは最初に出会った「寒梅の詩」であり、どこかでそう聞いたからそうなのか、私の思い込みかは定かではないが、「庭上一寒梅 笑侵風雪開」を「庭上の一寒梅 風雪に笑う」という訳で諳(そら)んじており、この「風雪に笑う」という雰囲気が非常に気に入っている。

また、「寒梅碑」の詩では「敢えて」風雪を侵すのであるが、「寒梅の詩」では「笑って」それをするのである。

これは私の想像であるが、「寒梅の詩」が晩年の作であるということから、この変化に、新島襄の「真理」についての理解の深まりがあるのではないかと考えている。

ところで、新島襄は熱心なキリスト者であり、またキリスト教の布教者でもあったことは周知のことがらであるから、ここでの「真理」とは、究極的には聖書の真理、キリスト教の真理であると私は考えている。

そこで上述の「真理」についての理解の深まりということについてであるが、私の考えでは、「寒梅碑」の詩を読んだ時点での新島襄にとっての「真理」とは、どんな事情が在ろうとも変転させずに堅く守るべきものであり、それを曲げようとする「風雪」のごとき外圧に対しては、敢えてそれを侵して断固として守るべきものであったのだと思う。また、私の考えるキリスト教的真理とは、いつの世の時代の精神や常識に対しても、常に全く対抗するラジカルな価値観を主張するものであるから、当然世の厳しい風雪に晒されることとなる。したがって、私は、この「寒梅碑」の詩の真理についての教説に賛同するものである。

同時に、新島襄の晩年の作と言われる「寒梅の詩」には、さらに深い共感を覚える。

「寒梅の詩」を、「寒梅碑」の詩における「真理」との関連で解釈するならば、次のようなものであろうと私は考える。

寒梅が風に耐え、雪を忍び、笑っているかのように、平然と咲いている。しかもそれは、争って、無理に一番咲きを競って努力したのでもなく、自然にあらゆる花のさきがけとなったのである。真理とはまさにそのようなものであり、真理は真理である故にあらゆる非難や誤った考えに晒されようとも、定まったときには自然に明らかにされるのである。しかもそれは論争や努力によるのではなく、真理そのものの性質の故にである。

新島襄にとっての真理、即ちキリスト教の真理とは、そのまま神そのものとも、イエス・キリストご自身と読み替えて良いものであると私は考える。

キリスト教の真理を知るというのは、神を知ることであり、即ちそれはイエス・キリストを知ることである。

また真理である寒梅が百花の魁となるイメージから、私は聖書の次の言葉を思い浮かべる。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。 箴言9:10

主、即ち神を恐れ、聖なる方を知ることこそ、キリスト教的には真理を知ることである。この真理を知ることは、百花と譬えられるような、この世のあらゆる知恵と悟りにさきがけてどうしても必要なことであると、この箇所から教えられる。

また最近の私の関心である「仏教とキリスト教の対話について」という観点から、沢庵和尚が柳生但馬守宗矩に書いて与えた「剣禅一致」極意書と言われる『不動智神妙録』から次の一文を紹介したい。

「如何なるか是れ仏法の極意」と問わば、その声未だ絶えざるに、「一枝の梅花」なりとも、「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりとも言ふべし。

新島襄は上州安中藩の藩士の子、つまりは武士の子であるから、あるいは上述のような沢庵和尚の書にも接していたのではないかと思う。もしそうであれば、「寒梅の詩」は、またさらに意味深いものとして響いてくる。また、たといそうでなくとも、真理を寒梅に譬えた新島襄と、仏法の極意を「一枝の梅花」或いは「庭前の白樹子(はくじゅし)」なりと著した沢庵和尚の書の驚くばかりの一致に、まさに真理は「寒梅の詩」に表現されているとおりに、自ずから明らかになるものであると、改めて思わされる。

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仏教とキリスト教の対話について

あらゆる意味での「対話」こそが、このブログのテーマであるため、今回はこのような記事を書いてみた。

昨日『キリスト教信仰和賛』解説の記事を書くに当って、久し振りにその出典である秋月龍珉 著/編 『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』を開いた。

その「まえがき」は次のような文章で始まっている。

「今世紀最大の歴史家と言われるイギリスのトインビー博士は、ある有名な講演を結ぶに当って、次のようなことを言っている。「千年後に人類の歴史を書こうとする学者が、我われの二十世紀という世紀をどのような時代として位置づけるであろうか。ある国で共産主義者と自由主義者とが争っていた、というようなことは、あまり問題にならないに違いない。そのとき問題になるのは、二十世紀の後半になって、人類は、西洋と東洋と、キリスト教と仏教とが、初めて対話ができるようになって、そこに互いに相浸透しあう何ものかを発見した、と言うことであろう」。東洋と西洋と、仏教徒とキリスト教徒とが対話して、お互いに通じあう、今までより深い人間性(=真人)を発見した、そしてそれが、その後の千年間の人類を導く基本思想になる、という予感が、あるいは期待が、トインビー博士の心の中にあったのに違いない、と私は思う。」

著者である秋月龍珉氏が一体どのようなものを思い描いて「今までより深い人間性(=真人)」という言葉を用いたのかまでは、私には知る由もないことであるが、私は「仏教徒とキリスト教徒とが対話」することについては、トインビー博士と秋月氏の両氏と同様に期待と希望を持つ者である。

そして対話については、秋月氏の「対話を可能にするのには、少なくとも、同じ神が、違った文化伝統の中で異なった仕方で、みずからを全人類に啓示しているという可能性を認めなければ、いくら善意の対話に努めても、真の対話にはならない。」という意見に全面的に賛同をする。

ここで私の考えとして、はっきりと述べておきたい点は、他の宗教に関心を持ち、真剣に研究することは、自分の信仰が二つ、或いはそれ以上の複数の宗教の折衷した、これまでとは別の「異なる信仰」になることでも、またはどちらか一方だけが「絶対的な真理」であり、一方は必ず退けられなければならないようなものでもないということである。

同時に、非常に残念なことではあるが、上述のような混乱に陥る人々が、世の中には非常に多く見られるようにも私には思える。

ここで『禅者牧師 吉田清太郎~禅とキリスト教の接点に生きる~』に引用された吉田清太郎牧師自身の言葉を引用したい。

「魚木君(著者である秋月氏が吉田師を訪ねるきっかけとなった『日本キリスト教の精神的伝統』(教文社刊)の著者である魚木忠一(同志社)教授)は私をまったく禅宗坊さんにしてしまったが、私はどこまでもクリスチャンです。中略、、また、私が蛾山和尚に参禅したことは大いに私の信仰のために力になった。和尚に参禅しなかったら、今日の私のこの境涯はなかったろう」

吉田師のこの言葉に現れている、自身のキリスト教信仰に確信を持ちつつ、謙遜に禅(仏教)を学んだ先達としての姿に、倣いたいものであると私は願っている。

仏教とキリスト教の対話については、もう一人、日本を代表する神学者であり、私が敬愛してやまない信仰の先達、北森嘉蔵師の代表的な著書『神の痛みの神学』(講談社学術文庫)の中にも見られるのであるが、ここでその内容を取り上げることは、現在の私の手に余るため断念するが、この『神の痛みの神学』は「わが国の仏教学界」の側からも好意的に受け入れられたことは最後に付しておきたい。

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キリスト者の霊性と詩篇と祈りについて

E・H・ピーターソンはその著書『牧会者の神学』の第1章を「祈り」に当てている。

以前「プロメテウスは祈らない 」という記事で紹介した物語は、その章から引用したものである。

今回は、その同じ第1章から「詩篇」についての記事を紹介したい。

その記事において、ピーターソンは、啓蒙主義の影響からユリウス・ヴェルハウゼンによって行われた「聖書の歴史的研究」の結果、「ヘブライ人の祈りの集大成である詩篇」が「聖書における中心的な重要性を失い、歴史の片隅に追いやられることとなった」ことを批判している。

そして「ヴェルハウゼンの時代に至るまで、詩篇は祈りにおけるヘブライ人の大胆かつ厳格な姿を示すものとして、救いを与えたもう神へ応答するための中心的な部分とみなされて」おり、「人々は非常な真剣さと大きな喜びをもって詩篇を取りあげたものであり、それは最高の聖書注解者たちを魅了してきた」こと、また「詩篇は礼拝全体と信仰に生きる人々の経験するあらゆる次元の出来事を表現する言葉を提供するもの」であり、「あらゆる聖書の物語の中でも、詩篇ほど、微に入り細をうがって人間のさまざまな側面を描きだしているものはない」ことを指摘している。

ここでの私の関心は啓蒙主義がキリスト教神学に対してもたらした影響を批判することではなく、キリスト者の霊性に対して詩篇と祈りの持つ重要性を明らかにすることであるため、『牧会者の神学』からヴェルハウゼンについて引用するのは、次の一文で終えることとする。

「だが、やがてヴェルハウゼンの解釈が決定的なものではないことが明らかにされる時がやってきた。」

それはノルウェーの研究者であるシグムント・モーヴィンケルによる「比較宗教学の分野で」行われた「古代チュートン民族の礼拝研究」によって明らかになったことをピーターソンは指摘している。

そしてピーターソンは次のように続ける。

「チュートン民族の祈りを研究していく中で、モーヴィンケルはヨーロッパの原始社会では共同体における祈りが、そこで行われる他のすべてのことがらに対する規範的な役割を果たすものであったことを理解した。」すなわち、「人々が礼拝に集まって祈りに加わる時、その行為はいいかげんなものでも末梢的なものでもな」く、「それは彼らにとって根源的な行為であり、劇的な行為だったのである。」

以下はモーヴィンケルの言葉である。

「それ(祈り)は社会の全体を力強く包容する行為であって、さまざまな理念を形成し、もろもろの価値観を教えるとともに、その共同体を一つにまとめあげるきずなとして働いたのであった。」

ピーターソンはさらに続ける。

「祈りは人格に密着したものであるとともに、歴史と文化における共同体の生活をかたちづくるものであった。」

モーヴィンケルによれば「詩篇こそが水の湧き出る井戸そのものだったのであり、預言者たちの言葉はこの祈りと礼拝から現れたものなのである。」

「つまり、イスラエルの共同体が集って祈りをささげる時に、その言葉、その声、その原動力を与えたのは詩篇そのものだったのであり、詩篇こそが預言者たち、「知恵文学」の人々、歴史書の著者たちを生み出し、それらを形づくったのである。」

結論は次の通りである。

「まず詩篇が最初に存在したのであって、預言者たちはそのあとに続いたのである。祈りという内面的な行為が宣教という外的行為に先行するのである。」

私の関心であるキリスト教の霊性とは単にキリスト者の内面の在り方ではなく、宣教に限らず、キリスト者の生活全面に渡ることがらである。

そのような前提に立った上で、内面が外面に優先するというピーターソンの示唆は注目に値する。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 伝道者の書12:13

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プロメテウスは祈らない

E・H・ピーターソン著『牧会者の神学』から、祈りについての私のお気に入りのたとえを紹介したい。

アイスキュロスによる「プロメテウスの物語」によれば、原初における人間存在の本質的特徴とは、一人一人が自分の死ぬ日を知っていたことにあったという。換言すれば、人間は自らの限界を知っていたのである。

そしてギリシャの神々は気まぐれで残酷だった。彼らは多くの知識や手段を持っていたが、それを人間に与えようとはしなかった。この物語における人間の根本的な経験とは「死と暴虐の経験」にほかならない。

神々のひとりであったプロメテウスは、どういうわけかこのような人間の惨状に同情を寄せるようになり、同時に神々のかしらであったゼウスに対して怒りを覚えるようになった。そして彼は人間の状態を改善するために3つのことを行った。

第一に、プロメテウスは「死の日」についての知識、限界という感覚、死についての意識を、人間から取り去った。死という気のめいる意識から解放された人間は、今やあらゆることを企てることができるようになった。

第二に、プロメテウスは「人間を無目的な希望の中においた」のである。彼は男も女もこれまで以上の存在となるように、努力し、背伸びをし、野心家であれと励ました。

第三にプロメテウスがしたことは、神々から火を盗み、それを人間に与えたということである。この贈り物によって、人間は料理をしたり、武器を作ったり、陶器を焼くことが出来るようになった。「テクノロジーの世界」が始まったのである。

人間は神々のもつ知恵や先見性をもたぬまま、神々のもつ技術だけを手にしたのである。

当然ながらゼウスは激怒し、プロメテウスを遠く離れた山の岩に鎖で縛りつけて罰し、焼けつく太陽と冷たい月のもとにさらした。

プロメテウスは自分のしたことを後悔しなかった。彼は挑戦的だった。

この物語は悲劇である。人間はプロメテウスによって、文明的な生活と共に苦しみの原因を与えられたのである。

プロメテウスは勇敢で、大胆で、思いやり深く、知的な存在であり、人間にとって生きるということの水準を向上させた。しかし、将来への洞察と自己認識の訓練を伴うことなく、ただ野心と道具だけを人間に与えたことの結末を、プロメテウスは岩に縛りつけられたまま見せつけられることになったのである。

これは西洋文明というものを表象する物語である。ヴェルナー・イェーガーは、この神話を、人間的本性の悲劇を描いたもっとも偉大な表現であると述べている。

しかし、人間は悲劇を好まない。

現代はまさにプロメテウス的な時代である。現代の神話を作りだす人々は、それを悲劇としてではなく勝利の物語として語る。プロメテウスが神々から火を奪う場面だけが、すなわち技術、エネルギー、そして道具の始まりの部分だけが抜き出されており、死についての記憶喪失、目的の定まらぬ野心、日ごとに繰り返される苦しみといったことがらは、そこから削除されてしまっている。

神に対抗するような野心に満ちた傲慢なプロメテウス的な精神に対抗する手段は祈りである。

旧約の詩人はうたっている。「自分の日を正しく数えることを教えてください。」詩篇90:12

これに呼応してルターは次のように叫んだ。「主よ!(生涯の日を数えることにおいて)私たちすべてが熟練した算術家であることができますように!」

当然のことながら、プロメテウスは祈らない。「なすべきこと」はあまりにも多く、それらを行う時間はあまりにもわずかなのだから・・・・・。

※E・H・ピーターソン著『牧会者の神学』からなるべく忠実に引用しましたが、途中表現を変えたり、詳細な解説を省いています。

この物語から私たちが学ぶのは、私たちはこのプロメテウス的な(テクノロジーと無目的な野心の支配する)世界から来る悲劇から実を守るために、人間としての限界(それは究極的には必ず死すべきものとしての人間存在)を意識して生きるべきであるということ。そして、それは、立ち止まって神に祈ることを通してしか与えられないということである。

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キリスト教の霊性の定義と象徴(symbole)について

ユージン・H・ピーターソンは、「深みへの成長(グローイング・ディーパー)」シリーズ 序文の中で次のように述べている。

『私たちの多くは「霊性」の定義を十分にできないかもしれない。にもかかわらず、ほとんどの人がその「霊性」の存在や不在を認めている。そして多くの人たちが「霊性」の存在によって自らが高められ、その欠如によって自らが落ちていくのを感じている。』

「霊性」とは一体何であり、そして何でないのか?

「霊」とは目に見えない、しかも実態の捉えにくいものである。そして目に見えない、実態の捉えにくいものを表現する場合、我々は一般に象徴(symbole)を用いる。例えば、聖書にいて「霊」は、「風」や「息(神の息)」として表現される。

そしてキリスト教の霊性とは、この「霊(神の霊/聖霊)」に由来するものであるから、これを適切に表現するためには象徴(symbole)が必要であると私は考える。

事実、多くの先達はキリスト教の「霊性」を、ある象徴(symbole)によって表現してきた。

その象徴(symbole)とは「旅」である。

その理由についてはオックスフォード大学ウィクリフホール学長のA.・E・マクグラスは、適切にも「霊性」をテーマにした著書『信仰の旅路』において「聖書には旅のイメージが多く用いられてい」ることを指摘している。

その理由からか、同じくイギリスの代表的な福音主義神学者であるジョン・ストットは、直接に「霊性」という言葉を用いないながらも、信仰者の生涯について「旅」という表現を頻繁に用いている。

前述の『信仰の旅路』の中でマクグラスは、「旅とは人格的な成長の過程であり、単にAからBに進む行程ではありません。」と述べており、またその文脈において「中世の霊的な著作家」が「信仰者を表現するのにヴィアートルというラテン語を用い」ていること、そして、この「ヴィアートル」という単語が「文字通りには「旅行者」、「旅人」、すなわち世界を通り過ぎる人」を意味していることを指摘している。

また『信仰の旅路』におけるマクグラスによる「霊性」の定義とその意味は次のようなものである。

「霊性とは、神と出会ったり神を経験したりする方法、その出会いや経験の結果として意識や生活が変化することに関することです。霊性は私たちの“信仰の内面化”に関わるものです。それは、信仰が生活の全側面に関わり、考えることや感じることや活動することに影響するという意味です。」

これらのことから私が考えるのは「霊性」は牧師や神学者にだけ関わりのある特別なものではなく、すべての信仰者の日常生活に深い関わりのあるものであり、また、そのことはこれまで以上に強調されるべきであるということである。

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わが国の学校教育の問題について

昨日、「進化論と創造論について」の中で「日本の学校教育の問題」が大きいと書いたことについて幾人かの方々に誤解を与えたようなので今日はこの点についての私の考えを述べたい。

前段の「誤解」の内容とは、私が「日本の学校教育において、キリスト教教育、特に創造論や創造科学についての授業を持つべきであると考えている」という内容であったように思う。恐らくはそのために、「キリスト教だけ特別扱いするのはおかしい」という内容の指摘もあった。

上記は大きな誤解であって、そのような趣旨は記事の中に全く書かなかったつもりであったが、そのような印象を与えたのであれば私の文章の未熟であったと反省するところである。

そこでまず、私が昨日の記事の中で、「日本の学校教育の問題」と表現した内容についてであるが、それは記事にも書いたとおり「進化論」が「あたかも実証されている、ある種の法則」のように教育されている点である。

この問題は、なにも進化論に限ったことではなく、いわゆる「歴史教科書問題」と呼ばれる歴史の認識や解釈をめぐる問題についても同じことが言えると私は考える。

解りやすく言えば「議論を無視して、一方の考え方だけを無批判的に受け入れさせる教育」なのであり、しかも、教科書問題については「一方」に都合の悪い意見を、かなり強引な方法で、しかもあからさまに排除している。

上記のような問題も、現在まさに論争が行われている最中であるので、進化論と創造論の問題と同じく、どちらが正しく、どちらが間違っているということを単純にいうことが出来ない問題である。

私が考える、「日本の学校教育の問題」とは、まさにこの「単純に決めつけることの出来ない、そして決めつけるべきでない内容を、単純化して知識として一方的に教育している」点である。

ここでは二つの大きな問題が生じる。

第一に、このような教育のなかで育った人間は、批判的にものごとを学ぶという「批判的、批評的な思考」を持たない。第二に、ものごとには多様な側面があり、多種多様な考え方の人間がいるということを理解する「想像力」を持たないという問題である。

上記の二点を、分かりやすい一つの言葉で表現するならば「客観性」ということになろうと思うが、これもまた私が批判している「単純化」であるから注意しなければならない。

つまり反対に、私が求める教育とは「複雑なものは複雑なものとして」教育することであり、「議論がある内容については、その議論そのもの」を提供して、学習に発展を持たせる教育である。

いわゆる「総合学習」の創設のきっかけとなった、第15期中央教育審議会の委員の1人である児島邦宏氏は、その著書の中で、知識の存在形態には、「○○はこれである」「△△とは何々である」という「知りえたもの」(これを「内容知」という)と、「知識や技能自体をどのように獲得していくかという学習の方法に関わる知の形態」(これを「方法知」という)の2つがあることを指摘している。

上記の私が求める教育の姿は、児島氏の言葉を借りれば「方法知」に関する教育であるということが出来るかもしれない。しかし、そのためには「総合学習」の時間を創るというだけでは不十分である。問題は日本の学校教育、即ち日本の文部科学省の学校教育に関する教育方針を、現在のような「国家の経済成長に役立つ人間を育てる」という方向から、真に「想像力と問題意識を持って自ら考え学び続ける人間を育てる」方向へと変換しなければならないという点であると私は考える。

実は「想像力と問題意識を持って自ら考え学び続ける人間」とは、私自身が目指す人間像であり、これと同じ意味を持つ言葉として、以前の記事である「対話的または弁証法的存在として」の中では「弁証法的な自分」と表現している。

同じ記事の一番最後に書いている言葉は、このブログについての私のポリシーでもあるため、最後に引用して閉じたい。

『自分の気付いたことや考えていることを分かち合う。それは、大切であり、また素晴らしい経験ではあるが、「受け手である他者」が寛容に自分を受け入れ続けて下さることを信じて、初めて出来ることではないかと思う。』

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進化論と創造論について

おもにアメリカを中心に進化論と創造論の論争というものがある。

この論争について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「創造科学」の項には「キリスト教根本主義による創造論から生まれたものであり、聖書(主として『創世記』)に記されている神による天地創造は記述どおりの事実であるとし、地球・宇宙の誕生に関する事象は聖書からより科学的に説明できるとする論説。科学と称するが、反対する立場からは反証可能性を持たない疑似科学とされる。」と記されている。

この中で使われている「キリスト教根本主義による」という言葉には少なからず偏見を感るのに加え、「反対する立場からは反証可能性を持たない疑似科学とされる。」という表現も、「反対する立場」である、おそらく「進化論の立場」は、完全に科学的であるという印象を与えアンフェアであると感じる。

私は、科学については素人ではあるが、キリスト教信仰の立場からすれば、決して根本主義と揶揄されるような偏ったものではないと自負している。ここでは、このような立場から、この論争を取り上げてみたい。

私と同じくキリスト教の信仰を持っている方の中には、この問題に真摯な関心を持っている方々も多数おられることと思うが、一般的には全く関心を払われないか、このような論争があることすら知らない方がほとんどであろう。

これについては日本の学校教育の問題も大きいのであるが、日本においては、進化論はあたかも実証されている、ある種の法則のような扱われ方をしており、進化論を信じていない者は、非科学的な人間であると決め付けられてしまう風潮が強い。

ここまでで恐らくご理解頂けているとおり、私は進化論を信じてはいない。

ここで「信じる」という言葉をつかっているのは、進化論が現時点で「仮説」でしかなく、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』において「実証の難しい現象であるが、生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている」などといわれながらも、実際現在のところ、進化とよべるような現象は全く観測されておらず、進化がもしおこるとしても、それが一体どのようにおこるのかというメカニズムについても、それぞれの研究者が「新しい仮説」を繰り返しているに過ぎないからである。

しかも、この研究者たちは、何故か進化は間違いなく起こったということを前提として確信しており、それこそ何かにとりつかれたように研究を重ねているように、私には思われてならない。

私は科学には疎い者ではありますが、進化論には大きく分けて二つのテーゼが存在すると思う。

私の言葉で言えば、二つのうちの一つは「生物は進化する(ここで言う進化とはある種の動物が環境に適応して毛が長くなったとか短くなったというレベルではなく、アメーバがトカゲに進化したり、魚が鳥に進化したりというもの)」というものであり、もう一つは「生命の起源は偶然にある」というものである。

間違っていれば申し訳ないのであるが、私には、進化論の研究者たちは、上記の2点については、自明の理であって、後はそれがどのように起こったのかを説明すれば良いという前提のもとに、莫大な努力を費やしているように思えてならない。

しかし、それで本当に正しい答えにたどり着けるのだろうか?

使い古されたたとえにはなるが、それは「最初のボタンの掛け違え」ということにならないだろうか?

とまあ、科学の素人である私にはこの問題についてはこの程度のことしか書くことは出来ないが、このテーマに関してYouTubeで面白い動画を見つけたので是非紹介したい。

http://jp.youtube.com/watch?v=P0oT-g_ihNs&feature=related

このURLは「創造科学セミナー 第一」のもので、本編は「第十五」まであるのでこのテーマに関心があり、時間のある方は是非全て見て頂きたい。(ちなみに、このセミナーの講師であるケント・ホヴィンド博士は進化論が宇宙の存在と生命の起源を説明できる、 唯一の可能な理論であるという実験的証拠を見つけた者に25万ドルを支払うという公募を行っている http://www.drdino.com/articles.php?spec=67&kws=250,000

クリスチャンである私にとっては非常に興味深く納得の行く内容であったが、万人が私と同じ感想を持つことないであろうと思う。

最後に、この分野で私と同じ立場から啓発活動を行っているHPを2つほど紹介して閉じたい。

『クリエーションリサーチ』 http://www.sozoron.org/home/

『創造科学』 http://www.ne.jp/asahi/seven/angels/

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創世記1章26節から「神かたち」についての推論

創世記1章26節において、神は「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」と書かれている。

ここには人間のモデルになる「神のかたち」が前提とされている。

この「神のかたち」については、異なる幾つかの説に分かれるのであるが、「人間が神のかたちとして創造されたという表現は、人間が他のすべてと相違する存在とされていることの最も明確で端的な表現」であることは間違いないであろう。

このことを前提とした上で、「神のかたち」について、以下で、私なりの推論を述べたい。

まず26節において神が「われわれに」という、一人称複数で自らを示している点について、私は「後の啓示の中で、三位一体としてはっきり定義され得るようになる神についての事実が、ここに顔をのぞかせている」という、聖書信仰の立場で最も受け入れられている解釈を支持したい。

つまり、ここにおいては「神」という「唯一の存在の中に父と子と聖霊なる(個としてはっきりと区別し得る)三位格が存在する」という点が、はっきりと明言されないまでも、暗に前提されていると私は考える。

つまり、神はその内に「われ」と「なんじ」と明らかに区別されるべき立場を持ち、さらに言えば、その内面に「対話」し得る複数の人格を持っているのということである。

次に、「かたちとして」と「似せて」という二つの類義語については、同義ではないにしても、全く別の内容を意味するものではなく、敢えてそれぞれに解釈するとするならば、「かたちとして」は、「その内面に「対話」し得る複数の人格を持っている」という、その「存在の在り様」に対応し、「似せて」は、その「内面的対話を行う」という「性質」に対応するのではないかと私は考える。

26節をこのように解釈するとき、K・バルトやボンヘッファーらの、27節において「男と女に創造されたことを、神のかたちに創造されたことの内容と理解する」解釈も、より肯定し得るものになる。

すなわち「人間のうちの男と女、夫と妻の関係は、神に内在する「われ」「なんじ」に相当するもので、類比の関係がここにある」とする解釈である。

人間のモデルである「神のかたち」をこのように解釈するとき、人間の創造の最終的な帰結として、創世記2章24節の「男は父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」という言葉の真意が、明らかになるのではないだろうか。

さらにパウロは、エペソ人への手紙5章31節において、創世記2章24節の言葉を引用した上で32節において「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と書いている。

多少の議論の飛躍があることを自覚しながらも、敢えて、上記の推測を踏襲して、新旧約聖書全体の文脈から解釈するならば、創世記1章26、27節において人間に与えられた「神のかたち」とは、「キリストと教会」すなわち「神と人間」が、「結び合い、、一体となる」能力、或いは性質ということもできるのではないか。

以上が「神のかたち」についての私の推論である。

参考文献
新聖書注解 旧約1(いのちのことば社)
新聖書辞典(いのちのことば社)

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現代社会における弁証法の意義

ヘーゲル哲学の方法は一般に弁証法と呼ばれる。

「弁証法」という語を辞書で引くと「対話・弁論の技術の意。(大辞林)」などと書かれ、ソクラテスやプラトンと並び、ヘーゲルの名前も必ずといって良いほど引用されている。また、ヘーゲルの弁証法を取り上げる際に、頻繁に登場するのが、マルクス主義における弁証法である「唯物論的弁証法」とキェルケゴールにおける「質的弁証法、あるいは逆説的弁証法(キェルケゴール自身がみずからの弁証法をそのように呼んでいる)」である。

この考察においては、歴史的にその欠陥が証明されたかに見える「唯物論的弁証法」を退け、古代ギリシャから形式においては既に存在した、対話をモデルとした哲学的思考方法を、現代に至る近代哲学に大きく普及させた「ヘーゲルの弁証法」と、批判者としてそれを発展させた「キェルケゴールの弁証法」の二者を支持して「弁証法の現代的意義」を考えて行きたい。

一つの主張(定立)に対してそれと反対の主張(反定立)をおき、その両者を統合してより高い概念を得る。そして、この統合するという働きを「止揚(アウフヘーベン)」と呼び、このアウフヘーベンというドイツ語には、取り消す、上へ上げる、保存する、という意味がある。つまり、定立(テーゼ)と反定立(アンチテーゼ)という対立する概念が、その対立を取り消し、より高いところに引きあげられて統一され、新しい概念として保存される。これが「ヘーゲルの弁証法」である。

これに対して、より深い肯定的な倫理を求めたキェルケゴールは、この否定的なものが止揚されることによって高度な肯定的な思想が生み出されるという「ヘーゲルの弁証法」を、抽象的であるとして退け、その弁証法の主体を具体的な実存、言い換えれば有限的主体としての人間、或いは自分自身としたうえで、有限的主体が自らの否定性に直面した場合、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するのだとした。

その結果キェルケゴールは「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと、死によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられると考えた。言い換えるならば、キェルケゴールは、アウフヘーベンという抽象的直接性を否定し、「神による救済」という「第三者の介在の必要性」を認め、受け入れたのである。

キリスト教信仰者である私の立場から見て、このキェルケゴールの実存的、逆説的弁証法は好ましく、また有益であることこの上ない。しかし同時に、この社会に生きる社会的な存在としての私にとっては、「ヘーゲルの弁証法」の抽象的思考もまた、好ましく、有益である。

ここで私は「ヘーゲルの弁証法」をテーゼ、「キェルケゴールの弁証法」をアンチテーゼとして、アウフヘーベンを試みたいという衝動に駆られるのであるが、少なくとも現時点の私には手に余る企てである。

ところで「弁証法」とは、キェルケゴールのように実存的に受け止め、止揚することを放棄するのでない場合には、その性質上、その抽象的な思考は無限に繰り返される永続性を持っているのではないかと私は考える。

この永続性を、結論を導き出せないという欠点として考えることもできるが、むしろ、あらゆることを単純化しようとする現代の風潮にあっては、あらゆる可能性を肯定する柔軟性であると考えることもできる。

「弁証法」の持つ、この柔軟性を思うとき、現代こそ、大きく「弁証法」を必要としているのではないかと考えいたる。また「弁証法」のモデルが「対話」であることを思うとき、現代社会は「対話」を必要としているのであると言える。そしてその「対話」とは「弁証法的対話」でなければならない。

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学校教育における情報とコンピュータの利用について

学校教育の現場にコンピュータを積極的に取り入れようという動きは、CAIComputer Assisted Instructionの略であり、コンピュータ支援教育などと訳される)などの形で、1980年代頃に始まったものであり、それが1990年代以降、マイクロソフト社のWindowsシリーズの出現やコンピュータ・ネットワークの大きな発達により、「情報を使いこなす力」としての「情報リテラシー」なる概念も普及し、その動きは、近年さらに加速している。

現在日本のインターネット利用人口は8,000万人を超えるといわれており、各メディアは、現代社会を指して、IT社会、あるいは情報化社会と呼んでいる。

ところで、平成18年に改正された教育基本法の第二条の1項には、教育の目標として「幅広い知識と教養を身に付け」ることが謳われている。

もし学校教育におけるコンピュータの活用が占める位置を、上記の条文の中に求めようとすれば、「幅広い知識」に当るのではないかと私は考える。確かに現代社会においては、コンピュータを用いて、インターネット上のWorld Wide Web(ワールド ワイド ウェブ)、いわゆるWebを参照することで、世界中から膨大な情報、すなわち「知識」を得ることができる。また、学校教育の現場でのコンピュータの用途は、インターネットだけではなく、上述のCAIの流れを汲むeラーニングと呼ばれる、数学・国語などの既存科目の自習教材的なシステムもあり、広く普及している。しかし、インターネットから引き出せる情報はあまりにも多く、また周知の通り信頼性に欠ける情報も少なくない。このような現状では、自分に必要であり、かつ信頼できる有用な情報を、いかに識別するのかという、本当の意味での能力検索能力の開発が不可欠であると考えられる。また、インターネットによる情報検索と同じく、eラーニングについても、利用する教師はその長所と短所をしっかりと見分けて、適切に用いる必要があることは言うまでもないことである。

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We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―

前回の記事では『We killed him.―我々が彼を殺したのだ―』と題して映画『マッド・シティ』のレビューを書いた。

「We killed him.」これは劇中のダスティン・ホフマン演じるマックスの最後の台詞であった。

この台詞が、ここ数日私の頭に張り付いて消えない。

そしてその言葉は、私の中で「We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―」という言葉に成長した。

数日前の記事で、私は聖書のエゼキエル書33章6節の「みことば」についての、私の個人的な黙想を取り上げた。

その「みことば」の中に「血の責任」という言葉が使われている。

つまりここ最近の私の個人的な関心は、この「血の責任」という言葉に集中しているということだと思う。

今この瞬間も世界では多くの「血」が流されている。これは戦争や紛争でというだけではない。勿論そのような意味でも多くの血が流されているが。

例えば先の記事では、障害者の方々への差別の問題についても「血を流す」行為であると解釈しました。

或いは、現在の社会制度、取り分け後期高齢者医療制度に代表される、弱者に痛みを強いる福祉制度の不合理によっても「血」は流されていると、私は考える。

年間で3万人を超える自殺者の問題、増え続ける高齢者の孤独死、豊かな国日本における餓死者、虐待を受けている子どもたち、数え上げれば切りがない。

このように流され続ける「血の責任」を、私たちはいつも、つい「誰か」外側の人間に対して、求めてしまいがちである。しかし真実はどうであろうか。

「We killed them. ―我々が彼らを殺したのだ―」

私はこう叫ばずにはいられない。

そして私たちが、まず何かを始めなければならないのではないだろうか。

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映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』と『華氏911』から「恐怖」について

最近は映画のレビューばかりを書いていたが、タイトルの2作についてはあまりにも有名であるし、以下の内容についても「レビュー」と呼べる内容のものではないので、今回のカテゴリーは「独白ではなく、対話として・・・」とした。

まず第一に、この記事の読者には、必ず『ボーリング・フォー・コロンバイン』と『華氏911』の2作品を観て頂きたい。

作品の持つ「メッセージ」については、製作者であるマイケル・ムーアによる「恣意的な編集がされている」、「扇動的」、「ヤラセ」などの批判があることは事実である。

だが、「ヤラセ」については、その真偽を確かめるすべを私は持っていないし、「恣意的な編集」と「扇動的」であることについては、作品の目的と、作品ならびに製作者がおかれているコンテキスト上、当然とまでは言わないまでも、止むを得ないものであると、私は考える。

上記のような批判がすべて正当なものであったとしても、作品中でムーアが行っている「社会的洞察」は刮目(かつもく)に値する。

作品中でムーアが行っている「社会的洞察」とは、私の言葉で言えば、

何者か(おそらくアメリカの政治的支配階級)がマスメディアをコントロールし、「意図的に」国民の「恐怖」を煽り、国民を「病的な自衛的武装集団」と化している。しかもその目的は「自衛的武装(ライフルや拳銃、弾薬の購入。2重、3重の扉と頑丈な鍵の取り付け。個人用シェルターの購入など)」に伴う「消費」すなわち「経済効果」である。

これは果たしてムーアや一部の社会学者の妄想なのだろうか?

私は以前『映画『ザ・ロック』を観て、戦争と恐怖に関する論考』という記事の中で、未熟な私なりに『「個人的な争いや憎しみ」また、「人間の自己の利益の追求」の根源に「恐怖」がある』という拙い推察を行った。

私のような者が「恐怖」に注目するのだから、「この世の賢い人々」が、その「有効的な活用方法」を発明することに、なんの不思議も無いように、私には思われる。

アメリカの「賢い人々」は、「自己利益追求」の為に、善良な市民を「社会的恐怖」によってコントロールすることを発明したのだ。

しかし私は考える。「賢い人々」の「自己利益追求」とは、結局のところ、彼等が彼等自身を脅かす「恐怖」から逃避していることに過ぎないのではないだろうか。

彼等は「社会的恐怖」をコントロールすることによって、莫大な利益を手にし、それによって自らを脅かす「恐怖」からも逃れようと考え、或いは逃れられたと信じているのではないだろうか。

しかし、果たしてそれは事実だろうか。

全米ライフル協会会長のチャールトン・ヘストンや、現・アメリカ合衆国大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュは、果たして「恐怖」を克服しているのだろうか。またイラク戦争に賛成した、アメリカの上院議員たちはどうか。

『華氏911』の終盤、マイケル・ムーアは多数の上院議員たちにインタビューしている。

「あなたの息子を兵士としてイラクへ送りたいか?」

当然ながら、Yesと答える議員は一人もおらず、足早にその場を立ち去って行く。

本当に戦争が正しく、戦争を行いたいと願う者だけが、自ら武器を持ち、殺し合いを続ければ良い。

最後に聖書の言葉を引用したい。

終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、

多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

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『社会的な死』と『霊のいのち』について

私の主観ではあるが、 現代は、自分は『社会から切り離された』と感じて、 苦しんでいる人々が多いのではないだろうか。

私が属するキリスト教の文化の中には、『死』は何かから『切り離された状態』であるという見方がある。

たとえば『肉体の死』は肉体と魂(霊)が切り離された状態であり、『霊の死』は(人間の)霊が、神から切り離された状態であると考える。
その考えを発展させると、『社会から切り離された状態』に在ることは『社会的な死』であると考えることができる。

実はキリスト教の考える死には、序列がある。
その序列を簡単に述べると、『死』のうちでもっとも影響力があるものは、『霊の死』(聖書はそれを「永遠の死」とも呼んでいる)であり、逆説的には『霊の(霊的)いのち』(即ち「永遠のいのち」)を持っていれば、人間は、その他のあらゆる『死』に打ち勝つのである。

逆に霊的に死んでいる場合、その人が、どれほどその他の『いのち』(肉体的ないのちや社会的ないのち)を持っていたとしても、それらは一時的であるし、やがては必ず衰えて『死』に至るのである。
このことを解りやすく理解して頂くために、ひとつのたとえ話をしようと思う。
今ここに、『肉体的な死』と『社会的な死』を恐れている一人の男がいる。
しかし、幸運にもその男は、『霊のいのち』を持っていた。
その『霊のいのち』を、男は、歴史上もっとも気前の良いお方から、なんの見返りも無しに、只(ただ)で頂いたのであるが。
男は、この世のあらゆる『いのち』の根源である、 『霊のいのち』を持っているので、『肉体的な死』も『社会的な死』も、彼を究極的には損なうことはできない。
それどころか男は、実はすでに『肉体的ないのち』も『社会的ないのち』も豊かに持っているのである。
ただそれらは、誰の目にでも見えるような形では現れないことが多い。

「人に知られないようでも、良く知られ、
 死にそうでも、見よ、生きており、
 罰せられているようであっても、殺されず、
 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、
 貧しいようでも、多くの人を富ませ、
 何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」
                        聖書 コリントⅡ6:9,10 より

「歴史上もっとも気前の良いお方」とはイエス・キリスト様のことである。
そして誰もがそれを望むなら、この「男」のようになることができることを私は信じている。

主よ!無益なる事物に対しては我々の眼を霞(かす)ましめ、
汝のあらゆる真理に関しては我々の眼を隈(くま)なく澄ましめたまえ!
                                    セーレン・キェルケゴール
以上
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続々・言葉の荒廃について

C・S・ルイス、そしてE・H・ピーターソンによれば、「言葉の荒廃」は「美徳への信頼を失わせる」。

また、新渡戸稲造先生によれば、現在私たちが一般的に用いる「義理」という言葉は、「時をへるうちに堕落して」「本来の意味を離れてしまった」言葉である。

言葉は堕落し、荒廃するものであるという事実には、彼等だけでなく、多くの人々が賛同することだろうと思う。

以前私は、この世界は「絶えず崩壊の方向へ進んでいる」ということを《「形骸化」と「新生」について》という記事の中で述べた。              http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_b394.html

そこで私が述べたかった内容は、そのタイトルの通り「形骸化と新生」についてでした。

そのようなことについて私が関心を抱き、語らずにはいられないのは、私がかつて読み、そして現在もまた、ことあるごとに開き、繰り返し読み続けている偉大な作家たちの著書の影響が大きいのだと思う。

私の未熟な理解によれば、新渡戸先生の『武士道』も、カーライルの『衣服哲学』も、ともに「形骸化と新生」について語っている。

またルイスとピーターソンが、その基礎を置いている(私にとってもまた基礎である)『聖書』もまた、その根底に「形骸化と新生」すなわち「堕落と回復」「死と復活」というテーマを持っている。

これらのことからも「形骸化と新生」は、私にとって、ひとつの大きなテーマなのです。

「言葉」もまた、私にとって重要なテーマです。

『聖書』に於ける「言葉」の重要性については、また別の機会を待つことにして、ここではC・S・ルイスによる児童文学の傑作『ナルニア国ものがたり⑥ 魔術師のおい』から、次の箇所を引用したい。

「生きものたちよ。大丈夫だ。大いに笑え。諸君はもはやもののいえない、おろかものではないのだから、いつまでもまじめくさっている必要はない。なぜなら、笑いも正しさも、ことばであらわされるのだから。」

これはナルニア国の創造主であるライオンの王アスランが、「くにづくり」のとき、ナルニア国の最初の住人になる「ものいうけもの」たちに向かって語っている台詞です。

ここから私は、ルイスが「ことばであらわされる」もの、また「言葉」自体に対して抱いている、大きな関心と畏怖を読み取ります。

当然、ここで語りつくすことは出来ませんが、私はこれからも「言葉」を愛し、「言葉」を畏れ、また「言葉」に関わり続けて行きたいと思います。

最後に、日本語の「アイ」すなわち「愛」という言葉について一考したいと思う。

「言葉」とは、元来は人の口から発せられるものであって、「文字」とは区別されるべきものです。つまり「言葉」とは「話し言葉」のことで、「文字」は、それを表記するための「手段」でしかありません。(もちろん価値ある「言葉」に奉仕する「文字」もまた、価値あるものであることに変わりはありませんが。)

上記から「愛」は初めにあった「アイ」という「話し言葉」を表記するために、人間によって恣意的に発明されたものであると言えます。

日本語では、「哀」もまた「アイ」と読みます。

この「愛」と「哀」は、現在一般的には、全く別々の意味を持つ言葉として用いられていますが、私は、少なくとも複数名の有識者たちが、この二つの言葉を深く関連性のあるものとして理解し、語っているのを見聞きしています。

  1. あい【愛】別ウィンドウで表示
    親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「―が芽生える」 ある物事を好み、大切に思... [さらに]
  2. 愛は惜しみなく与う【愛は惜しみなく与う】別ウィンドウで表示
    《新約聖書「コリント人への第二の手紙」から》真の愛は、自分の持つすべてのものを相手に与えても惜しいものではない。
  3. 愛は惜しみなく奪う【愛は惜しみなく奪う】別ウィンドウで表示
    《「愛は惜しみなく与う」をもとにした言葉》人を愛するということは、相手のすべてを奪って自己のものにしようとすることである。有島武郎が評論「惜みなく愛は奪ふ」で主張。

  1. あいえつ【哀咽】別ウィンドウで表示
    関連語なく【泣く】 ⇒関連語むせぶ【咽ぶ・噎ぶ】 
  2. あいがん【哀願】別ウィンドウで表示
    嘆願 哀訴 愁訴 泣き付く 泣きを入れる ⇒関連語なきつく【泣き付く】 
  3. あいしゅう【哀愁】別ウィンドウで表示
    哀傷 哀切 悲哀 哀れ 寂しさ ペーソス 
  4. あいせき【哀惜】別ウィンドウで表示
    関連語おしむ【惜しむ】 
  5. あいせつ【哀切】別ウィンドウで表示
    関連語あいしゅう【哀愁】 ⇒関連語かなしい【悲しい】  

「愛」は「自分」と「他者」との区別を打ち消すものである、ということを以前《『キリスト教信仰和賛』解説第5回》の中で述べた。                http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/5_f907.html

すなわち愛とは「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」ことであると思う。

しかし、現代一般に言う「愛」という言葉からは、そのような意味は失われてしまっているように思う。

これは「悪魔の働き」によるものであろうか、或いは「人為的の故」であろうか。恐らくはその両方が原因であろうと思う。

長らくお付き合いを頂いた方々に心からの感謝を捧げつつ、「言葉の荒廃について」は、以上で閉じたいと思う。

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続・言葉の荒廃について

「言葉の荒廃」について、昨日はユージン・H・ピーターソン(によるC・S・ルイス『悪魔の手紙』)からの引用を紹介した。

ここでは前回の引用を導入として、「言葉の荒廃」について考えてみたい。

だがその前に、親愛なる新渡戸稲造先生もまた、名著『武士道』の中で、この「言葉の荒廃」というテーマについて述べている箇所があるので、ここに引用したいと思う。

「私はしばらく「義理」について述べよう。これは義からの分岐と見るべき語であって、始めはその原型(オリジナル)から僅かに離れたに過ぎなかったが、次第に距離を生じ、ついに世俗の用語としてはその本来の意味を離れてしまった。義理という文字は「正義の道理」の意味であるが、時をふるに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになったのである。その本来の純粋なる意味においては、義理は単純明瞭なる義務を意味した――したがって我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのである。これらの場合において義理は義務である。何となれば義務とは「正義の道理」が我々になすことを要求し、かつ命令するところ以外の何者でもないではないか。「正義の道理」は我々の絶対命令(カテゴリカル・インペラティブ)であるべきではないか。 ・・・中略・・・私の見るところによれば、義理は偶然的なる生まれや実力に値せざる依怙(えこ)ひいきが階級的差別を作り出し、その社会単位は家族であり、年長者は才能の優越以上に貴ばれ、自然の愛情はしばしば恣意的人工的なる習慣に屈服しなければならなかったような、人為的社会の諸条件から生まれでたものである。正にこの人為的の故に義理は時をへるうちに堕落して、この事かの事――例えば母は長子を助けるために必要とあらば他の子どもを犠牲にせねばならぬのは何故であるか、もしくは娘は父の放蕩の費用のために貞操を売らねばならぬのは何故であるか等々を、説明したり是認したりする時によびだされる漠然たる妥当感となったのである。私見によれば、義理は「正義の道理」として出発したのであるが、しばしば決疑論に屈伏したのである。」

長らく引用したが、この文章に於いて新渡戸先生が仰っている「義理の堕落」は、ピーターソンの言葉で言えば、そのまま「義理」という「言葉の荒廃」を意味しています。

またこの引用文の中には、何故この「言葉の荒廃」すなわち「言葉の堕落」が起こるのかということについて重要な示唆が含まれています。

それは「正にこの人為的の故に義理は時をへるうちに堕落して」との言葉です。

ルイス、そしてピーターソンは「言葉の荒廃」を「悪魔の働き」として意識していました。私はその意見に全く賛成であります。

ここでは「悪魔」などというものが、本当に存在するのかという議論は、一旦控えたいと思います。しかし、ただ一点はっきりと言える事は、「悪魔」という存在がもし存在するのであれば、その目的の一つは「人間を堕落させる」ことであるという事です。

人間の堕落については、以前《「エントロピー」に対抗する力》というタイトルで少し触れました。http://kagenokuni.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_810c.html

「悪魔」=「エントロピー」であるという乱暴な主張は勿論しないまでも、この二つはある程度、結び付けて考えて良いものだと思う。少なくとも私の用いる用語としては明らかに関連付けて考えている。その上で付け加えておきたい事は、私の考える「悪魔」とは、単なる「何がしかの力」というような存在ではなく「人格的な存在」である。

話しがわき道にそれてしまい申し訳ない。

先程述べたように新渡戸先生は「義理の堕落」すなわち「言葉の堕落」は、「人為的」すなわち「人間の手による」が故に起こったのだと考えていたようである。

次回はこの辺りをさらに詳細に考えてみたいと思う。などと言いつつ勝手に続く。。

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言葉の荒廃について

私が尊敬してやまない牧師であり神学者であるユージン・H・ピーターソンは、その著書『牧会者の神学』のなかでC・S・ルイスの『悪魔の手紙』から引用して次のように述べている。

「誘惑者であるワームウッドは、美徳への信頼を失わせるためのもっとも効果的な方法のひとつは、なによりもまず言葉を荒廃させることであると助言している。」       ※正確には「愛情深い叔父」であるスクルーテイプが「親愛なる」甥のワームウッドに助言しているものと思われる。

この引用の前後でピーターソンが語っているのは「禁欲的」という言葉についてである。

「今では、この言葉は、やつれはてた人物、自虐的な、厭世的な人物、女嫌いの人物といったイメージを持つ言葉になり果てた。悪魔たちの働きの結果、現在、この言葉が荒廃させられてしまっている事実については議論も論証も必要としない。いったい、「禁欲的な牧師」と呼ばれたり、そうした形容が評判になることを喜ぶような人間が、私たちの中に存在するだろうか? ・・・中略・・・ けれども、「禁欲的」という言葉は競技をする者たちにとっては必ずしも特殊な言葉ではない。その人たちにとって、それはより卓越したものをめざすトレーニングを意味する。それは競技に際して最善を発揮できるように自分に適した訓練を実践することを意味するのである。」

私もまた、ルイスやピーターソンと同じく、上記のような「言葉の荒廃」を憂えている者である。

一応続く。。

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世界を変えることはできますか?

つい先ほどフジテレビ系のTVドラマ『わたしたちの教科書』の最終回を観終えました。

この記事は、その最終回を観終えた時点で私の心に思い起こされた、「私の個人的な確信」についての記事です。

その「私の個人的な確信」とは「物語の持つ力」に関する確信です。

すぐれた物語は世界を変える力を持っている。これは私が十代の頃から確信している事柄です。

私はその後、『聖書』に出会い、キリスト教信仰を告白する者になりましたから、ある意味では『聖書』こそ、今この時も、まさに世界を変え続けている「最高の物語」であることを信じています。

しかし、それとは全く別の次元で、今なお私は「物語の持つ感化力」を信じています。

「芸術的表現のみが『教育的影響をもたらすために欠かせない二つのものを持っている。それは、〈普遍的重要性と即時的魅力〉だ。』芸術表現には、古代ギリシア人がプシュガゴーギア(言葉によって魂を導く技)と呼んだ力があります。輝かしさの中における崇高なもの、存在の象徴やより優れた秩序を表現することなどを通してそれが起こるのです。だからといって、聖書が持つ基本的かつ固有の重要性が損なわれることは決してありません。」                              ジェームズ・フーストン著『喜びの旅路』(いのちのことば社)より。 

「物語」とはすなわち「アレゴリー」です。そしてCSルイスはその著書の中で次のように述べています。

「アレゴリーが最高のものであるとき、それは神話に近づく。」

「神話は天与の食物のようなものだ・・・・・それは人それぞれに異なった、また人それぞれに必要な食物である。それは古くもならないし、さまざまな民族、哲学、あるいは性別の国境で立ちどまることがない。それはまた同じ人間から同じときに、次元の異なったさまざまな反応をひきだすことができる・・・・・」

「私は、すぐれた神話はアレゴリーよりも高次のものだと考えます。作者はアレゴリーの中に、彼がすでに知っていることを投入することができますが、神話の中にはまだ知らないこと、他の方法では知りえないことを盛るのです・・・・・」

これらの言葉から、私はすべての物語は「神話」となるように意図されて語られるべきであると考えます。もちろんそれは殆ど実現不可能なことでありますが。

またルイスは、「作品の意味」と「作者の意図」をはっきりと区別していますから、作者の意図に反して、物語が「神話に近づく」ことが起こりうると私は思います。

ともかく、わたしは「世界を変えることはできますか?」この質問に対して、こう答えることにしたいと思います。

「世界を変えることはできる!」すぐれた「物語」がそれを成し遂げるだろう!いや、すでに数え切れないほどたくさんの「物語たち」が、世界を変え続けているのだ。

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映画『ザ・ロック』を観て、戦争と恐怖に関する論考

昨日TVで放映された映画『ザ・ロック』を観ました。

1996年公開の映画ですが、製作がドン・シンプソン&ジェリー・ブラッカイマー 、監督がマイケル・ベイ、主演にニコラス・ケイジとショーン・コネリーを起用し当時大ヒットした、いかにもハリウッド的な派手なアクション映画で、私の大好きな映画の一本です。

ですから、これまでにも何度も繰り返しこの映画を観ているわけですが、昨日TV放映されたものを観ていて、下記の台詞が私の印象に残りました。

「これは恐怖との戦争だ」

これは、81人の民間人の人質を取り、最新化学兵器VXガスロケットの標的をサンフランシスコに向けたテロリスト(ベトナム、パナマ、グラナダ、そして湾岸戦争と輝かしい戦歴を残し、無数の勲章を手にした伝説的な英雄ハメル准将率いる有能な海兵部隊)が立て篭もる、アルカトラズ島に対する全面的爆撃を許可する際のアメリカ合衆国大統領の台詞である。

つまり、大統領は何万人ものサンフランシスコ市民の命と、ハメル准将率いるテロリスト、事態収拾の為にアルカトラズに潜入している海軍特殊部隊NavySEAL、そして81人の民間人の命を秤にかけて苦肉の決断を下したのである。

「ザ・ロック」は湾岸戦争後のアメリカが抱えるかなり重いテーマを題材とはしているものの、ベトナム戦争の悲惨と狂気を現実的、批評的に描いたフランシス・F・コッポラの「地獄の黙示録」とは違い、基本的には娯楽映画として製作されている為、製作側がどこまでこの台詞に重きを置いているのかは定かではない。

しかしそうではあっても、いやむしろそうであるからこそ、この台詞の持つメッセージの普遍性が私の心には響いたのである。

「これは恐怖との戦争だ」

この台詞を聞いて私の心に去来した一つの問いは、「果たして”恐怖との戦争”ではない戦争などというものが、世界に存在するのだろうか?」というものである。

あまりにも有名である「地獄の黙示録」の最後の台詞はマーロン・ブランド演じるカーツ大佐の「恐怖だ、、、恐怖だ、、」というものである。(これはこの映画の一応の原作であるジョセフ・コンラッドの小説「闇の奥」のカーツの最後の台詞と一致している。)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%87%E3%81%AE%E5%A5%A5

一足飛びに結論だけを言ってしまえば「戦争について考えた時、それがどのような経緯を辿ったにせよ、行き着くところは「恐怖」なのではないか。」というのが私の考えである。

何故ならば、すべての戦争が「恐怖をその根源に抱えている」と考えるからである。

私は戦争を私たちの身近にある「個人的な争いや憎しみが拡大したもの」または、「人間の自己の利益の追求の中で起こる他者との衝突が拡大したもの」のであると考えている。

つまり私は「個人的な争いや憎しみ」また、「人間の自己の利益の追求」の根源に「恐怖」があると考えるのです。

それらは「自分の存在が脅かされる」という恐怖であり、「自己の利益が害される」という恐怖である。

これらをもっと根源的な言葉で表現するならば「存在の恐怖」と言えるのではないでしょうか。そしてこの「存在の恐怖」は、我々人間が「存在を肯定される必要」を持っていると同時に、その「必要が満たされていない現実」、つまり「存在が肯定されているという絶対的な根拠を持たない」ところから来ているのだと私は考える。

クリスチャンである私の場合「存在が肯定されているという絶対的な根拠」を、聖書がその「実在」を証言している「天地の創造主なる神」すなわち「被造物である我々を愛し、その保護と養育を提供する神」に求める事ができる。

私は専門家ではないので詳しく語る言葉を持ちませんが、心理学にも「存在不安」という言葉が存在する。

常識的に考えれば、この「存在不安」は「他者から肯定される」ことで解消されるはずである。

それも自分に対して「影響力を持つ他者」であればあるほど、その効果は大きいものと思われる。例えば両親や恋人、或いは社会的な地位の高い尊敬される人々だろうか。

しかし、そこには「不完全さ」が伴う。なぜなら、ここでは「存在の肯定を提供する人々」もまた「存在を肯定される必要を持っている人々」であるからだ。

その「不完全さ」は、しばしば「関係の不健全さ」へと繋がる。現代の心理学者たち、或いはえせ心理学者たちが声高に叫ぶ「共依存」とはこのことではないかと私は考える。

とはいえ、私は専門家ではない。

私が提供できる一つの事実は、キリスト教神学では、神を「絶対他者」と定義していることである。

この事実から私が導き出した結論は、人類のうちに普遍的に存在する「存在不安」すなわち「存在の恐怖」を解決できるのは「絶対他者による存在の肯定」のみであるということだ。

もし読者が、聖書の証言する「創造主なる神」以上に「実存的な絶対他者」を発見することができるならば、キリスト教にこだわる必要は無いかも知れない。

しかし私の見たところでは、そのような「偉大な存在」は人類の歴史上「他にない」のである。

釈迦も孔子もソクラテスも、この「絶対他者」を「知覚」はしているように思える。

しかし「聖書」ほどの具体性、歴史性、信憑性、また説得力を持って、この「絶対他者」についてはっきりと証言している書物は存在しないし、イエス・キリストほどはっきりと、その「絶対他者と人間(ヒューマンネイチャー)としての自己との結びつき」を証言した人間も、歴史上存在しないのである。

最後に宗教的な話しになってしまった為、不快を感じられる読者がいたならばお詫びを申し上げたい。前回述べているいるように、私は可能な限り「独白的ではなく対話的な自分」でありたいと思っているからです。

TVで映画を観てこんなことを考えている自分を、やはり少し変人であると思う今日この頃。

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対話的または弁証法的存在として

近年、私たちの生きる社会はポストモダニズムの台頭によって価値観が多様化すると共に、個人主義がはびこり、だれもが自分の意見、立場を持ち、提供される多くの情報の中から、自分の好きなもだけを取捨選択する自由を持ってます。

このような時代にあっても「社会的な存在」である私たちは、他者と「対話」しつつ「共に生き」て行かなければなりません。

ジェームズ・フーストン博士はその著書『喜びの旅路』の序文に於いて、『「人格的な交わりを大切にする」ためには、形式は弁証法、または対話を用いなければなりません。なぜなら、何かを語る者は、同じく応答し、語ることの出来る他者と対峙するからです。』と語ってのち、「弁証法」=「対話」とは、「たとい、お互いの見解が同じでない場合でも、共に生きていくことの人格的な側面を高め、深めていくために、互いに話し合うこと」であると定義しています。

またフーストン博士をして、キリスト教界の「ソクラテス」と言わしめているセーレン・キルケゴールは、「弁証法とは、相反するものを新しく創造的に統合することである」と語っています。

フーストン博士とキルケゴール、この2人の賢人の言葉を信じるならば、私たちは「対話」することによって、物事を「新しく創造的に統合する」力を持っているということになります。

ですから私も、私の語る言葉が「独白」ではなく、「対話」となるように努力したいと思います。

またそれ以上に重要なことは、実際に他者と「会話による対話をする」とか「弁証法」によって「他者を説得する」というDoingな事ではなく、むしろBeingである自分の在りかたとして、「対話的な自分」即ち「弁証法的な自分」に成るということではないかと思う。

つまり、自分が語る時、「同じく応答し、語ることの出来る他者と対峙しているのだという事を絶えず意識して、お互いの見解が同じでない場合でも、共に生きていくことの人格的な側面を高め、深めていく」ために努力する自分になるということである。

私個人としては、「自分自身の思うところ(道徳的な基準や信仰的な信条など)」は、まず第一に自分自身にのみ適応して、他者もまたそうである(自分と同じ考え方を持つ)ことは求めない。これこそ「対話的、弁証法的な自分」の在りかたではないかと考え、そういう者に私はなりたい、と日々精進しております。

自分の気付いたことや考えていることを分かち合う。それは、大切であり、また素晴らしい経験ではあるが、「受け手である他者」が寛容に自分を受け入れ続けて下さることを信じて、初めて出来ることではないかと思う。

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「エントロピー」に対抗する力

前回の続編です。

「形骸化」とはその組織から「いのち」が失われてゆく状態である。

これがわたしの試論である。

組織の「いのち」、すなわち肝がなんであるのかという事は、それぞれの組織によって違うはずである。

私のもっとも身近にある組織である「教会」の「いのち」は「イエス・キリスト」であり、「聖書」である。

「企業」の「いのち」は「商品」であるかもしれないし「従業員」であるかも知れない。

或いは組織には必ず「基本理念」なるものがあるはずである。その呼び方はどうあれ、もしそれがないとすれば、そもそもその組織には「存在意義」がないということになってしまいます。

組織の「いのち」がやがて失われてしまうのはなぜなのだろうか。

前回に「エントロピー」の話しをしました。熱力学の話しではなく、私たちが経験的に知っている、この世の万有に働く「崩壊に向かう力」としての「エントロピー」についてである。

組織が「形骸化」してゆく時、「エントロピー」は増大する。そして組織は崩壊するのである。

「エントロピー」は、目に見えるものに対してだけではなく、目に見えないもの、例えば人間の「心」にも働く。

人間の「心」さえも、絶えず崩壊に向かっている。非常に乱暴な論法ではあるが、ある意味では、これをキリスト教的に「原罪」と考えても良いと思う。

人間の「心」は、生まれつき「罪の方向へ」傾いている。これが聖書の示す人間観である。(これもまた非常に乱暴な表現であはあるが、丁寧に扱うには時間が掛かりすぎるので別の機会を待つ。)

人間の「心」に働く「エントロピー」の結果、組織の構成要素である「個々の人間」が「堕落」する。

この「堕落」には、「怠惰」や「高慢」「ねたみ」「そねみ」「裏切り」「不信」など目に見える色々な現象がともなうであろうが、それらの根本にあるものは、結局のところ「自己中心」という一つの言葉でまとめることができると思う。

「自己中心」とはすなわち、人間と人間の結びつきを切断するハサミである。

このハサミによって、組織はバラバラに切り刻まれて崩壊へ向かう。

しかしこのような「エントロピー」に対抗する「力」も存在することを前回考えました。すなわち「ルネサンス」に代表される「新生の力」である。

それではこの「新生の力」とはなんなのであろうか。

ここで私はこの「新生の力」の構成要素として二つのものを挙げたいと思う。

まず第一のものは「愛(あい)」である。もっと詳しく言えば「いのちに対する愛」である。

ここで言う「いのち」とは「組織のいのち」のことであるから、最初に例にとった「教会」であるなら「イエス・キリスト」そして「聖書」に対する「愛」であるし、「企業」の場合「商品」また「従業員」に対する「愛」である。

第二のものは「誠実」、すなわち「基本理念」に対する「誠実」である。

愛する場合にも、誠実である場合にも、それを行う場合には努力と犠牲が伴う。なぜならばそれは、この「世の流れ」すなわち「エントロピー」に逆らう道であるからである。

しかし人間にはそれを行う「力」があり、また「意思」もあることを、私たちは経験的に知っています。

この「力」と「意思」を働かせる為に必要な事は「選択」です。

私たちには絶えず「選択」が迫られています。この「世の流れ」に従うのか、或いはそれに逆らい、「努力」し、「犠牲を払う」のかという「選択」です。

もし私たちが、「努力」し、「犠牲を払う」方を絶えず「選択」したいと願うならば、その為には「決心」が必要でしょう。

ここで一つの結論に達します。

すなわち、「エントロピー」に対抗する「新生の力」を生み出しているのは、我々「人間」であるという事です。

ひとまずこれにて御免。

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「形骸化」と「新生」について

あらゆる組織が「形骸化」する。

けいがいか【形骸化】別ウィンドウで表示
(名) スル 誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして、形ばかりのものになってしまうこと。

これは誰もが納得する、いうなれば「公理」であろうと思う。

それではなぜ「形骸化」は起こるのだろうか?

この問題についてだけでも充分に興味深い議論になると思われるが、今回は深入りはせず、根本的な話題に移りたいと思う。

私には熱力学の専門的な知識があるわけではないので、そのような専門的なフィールドで議論をするつもりは無い。しかし現在多くの人々が「エントロピー」という言葉を用いて語っているように思う。

そして多くの人々は、この世界が「絶えず崩壊の方向へ進んでいる」ことを経験的に確信している。

私は「形骸化」という言葉が気に入っています。

組織から「いのち」が失われ「形骸(けいがい)」すなわち「骸(むくろ)」へと変わって行く雰囲気を、良く表しているように思うからです。

我々人間もまた、刻一刻と確実に「死」へと向かっている。

ある意味では、毎日「死に続けている」とも言えます。

あらゆる物質(生物も含む)が「古くなり」やがて「腐敗し」最後には「崩壊」する。或いはあらゆる組織から「絶えず秩序が失われ」「混沌へ向かう」という、そのような「目には見えない力」がこの世には存在しているように思える。

しかし私たちはこれらの「崩壊、混沌へ向かう力」に対抗する、もう一つの「目には見えない力」が存在する事も、経験的に知っているのである。

私たち人間の体細胞は、「毎日死んでゆく」のであるが、それに代わる新しい細胞もまた「絶えず生まれて」いる。

つまり、ある意味では私たちは「毎日生まれている」のである。

これは「一瞬一瞬、新しく生まれている」とも言えるでしょう。

人間、或いは生物以外の「社会的組織」ではどうであろうか。

あらゆる「社会的組織」は、「一瞬一瞬、新しく生まれている人間」の集合からなっているのであるから、やはり「絶えず新しく生まれている」と言えるはずなのである。

私たちが「歴史的視点」を持つ時「形骸化」した組織が、「再生」するのことをはっきりと知る事ができる。

小さい例を挙げればきりが無いので、歴史上もっとも有名な「社会の再生」を例に挙げたいと思う。

その社会的再生とは「ルネサンス(直訳すると再生)」である。

私たちの目には「形骸化」したまま「再生」せず、「崩壊」してしまう組織も確かに存在するように見える。

しかし、そんな「無数の小さな崩壊」を包み込むように、社会全体に「いのち」が吹き込まれる出来事が歴史には確かに起こるのである。

「ルネサンス」はその代表的なものである。

また私たちの人生においても「無数の小さな崩壊」を覆う、「ルネサンス(再生)」が起こる事をも、私たちは経験的に知っているのではないだろうか。

そのような人生の刷新は、もはや再生とではなく「新生」と呼ばれるべきである。

全く語りきっていない感がありますが、ひとまず就寝。。

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「幸せのかたち」とCSルイスの「善」に関する洞察

「幸せのかたち」という言葉がある。

私の大好きな作家CSルイスは、その著書『天国と地獄の離婚』の「はしがき」のなかで、
『もろもろの生物は、完成度が加わるにつれて、相互にますます隔たって行く。善もまた、成熟するに従って、いっそう悪とちがったものになるばかりでなく、他の善ともちがったものに、たえず、なって行くのである。』
ということを語っている。

私はこの「善」という言葉を「幸福」と置き換えてみても、それは真理なのではないかと思う。

『「幸福」もまた、成熟するに従って、他の「幸福」ともちがったものに、たえず、なって行くのである。』

※ルイスは「善」について「成熟」という言葉を使っている。「幸福」の場合は「成熟する」というよりは、むしろ「深まって行く」という表現が適切であるかも知れない。

私たちは、周囲の「幸せそうな人」を見て、あの人みたいに「幸せ」になりたいと考える。

しかし、もし私たちがその人と、全く同じ人生を歩む事が出来たとして、果たしてそれが私たちの本当の「幸せ」であるという事が出来るのだろうか。

当然のことながら「幸せそうな人々」も、悩みや苦しみを持っている。
しかし私たちは、その人々の一面を見て「幸せそう」だと想像しているのである。

つまり「幸せそうな人々」を見て、自分の「幸せ」を探そうという視点が、既に誤っているのではないでしょうか。

もし私たちの「幸せ」が、CSルイスが「善」について語ったのと同じように、『他の人の「幸せ」とはちがった「幸せ」』なのだとしたら、それは『自分自身を深く知っていく』という方法でしか、見つけることが出来ないのではないでしょうか。

私たちは、なにかものを「知る」という時、どうしてもまず最初に、自分の「外側のもの」を前提としてしまいます。
つまり私たちは、『自分のことについては、既に充分に知っている』と考えているのです。

しかし、果たしてそれは事実と一致しているでしょうか?
私たちはただ、そう思い込んでいるだけで、実は自分のことこそ、よく解っていないのではないかと思います。

私たちは心理学と統計学の時代に生きています。

心理学と統計学は、私たちを「分類別け」し、レッテルを貼り、私たちが一人一人「ユニークな存在」である事を忘れさせてしまいます。

その反動として、最近では「オンリー・ワンになる」ということが叫ばれています。

しかし事実は、私たちは皆、既に「ユニーク(二つとない)」な存在なのです。とすると「オンリー・ワンになる」という努力も、なんとなく「的をはずしている」ように思われます。

むしろ私たちに必要なのは、自分が「ユニークな存在」であるということを「知る」ことなではないでしょうか。

「自分探し」という言葉もよく使われています。
私たちはいったい何処で「本当の自分」を見つけ出すことが出来るのでしょうか。

私が知っている中で、『聖書』を除いて、この質問の回答者として、最も相応しい人物はCSルイスである。

CSルイスはその著書『顔を持つまで』のなかで、このテーマについて見事に語りつくしていると思う。

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「300 <スリーハンドレッド>」と、「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」

昨日、映画「300 <スリーハンドレッド>」を観た。しかも公開日であった。

ちなみに「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」も公開日に観て、最高の評価を与え、久し振りにパンフレットまで購入してきた始末である。

「スモーキン・エース」のジョー・カーナハンは最近一押しの監督である。

「300 <スリーハンドレッド>」は、有名な「テルモピュライの戦い」を題材とした、非常に魅力的なストーリーをもったフィクションであり、一流のエンターテイメントであったと思う。

その魅力についても語りたいことは、山のようにある。

しかしここでは「300 <スリーハンドレッド>」と、「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」に共通する過激な暴力描写について考えてみたい。

この問題については「スモーキン・エース(Smokin' Aces)」についてのインタビューのなかで、アンディ・ガルシアはこう答えている。「これは大人向けの映画だ。子供が見ることを前提としては作られていない。」また監督のジョー・カーナハン自身も「この映画に出て来るバイオレンスは、バイオレンスがためのバイオレンス。巨大な映画のキャンバスにおいて描く、それらのバイオレンスは、何か深刻なものにつながるわけではない。」と語っている。

これらの意見に、わたしが100%賛成するかどうかはさておき、昨今メディアが青少年に与える悪影響が声高に叫ばれている。それにも関わらず、実際に上映される作品中の暴力描写はエスカレートする一方のように思われる。

それはなぜなのだろうか。

そもそもメディアは「現実を模倣」しているものなのだと思う。

現実に暴力が存在するので、メディアは暴力を描き、表現するのではないか。

作品によって、その表現にリアル(現実性)を追求するものと、反対に非現実的な暴力表現、さらにはユーモアとして暴力を用いるものもある。

その中のいずれが、青少年の教育上最も悪影響を与えるのかという議論はするつもりもないし、そんな議論は全く無意味であると思う。

恐らくはそれがどのような表現スタイルであったとしても「暴力シーン」は悪影響を与えるに決まっているのである。

しかしそれはメディアから提供されるものに限らない。わたしたちの身近には、メディアが提供するほど過激でも残虐でもないであろうが、「暴力シーン」は溢れている。

子供同士のケンカ、公共の場での親による子への折檻、ラッシュ時の大人同士のケンカなど。

これらを目撃したとき、大多数の人がそれらの行為を肯定しないと思う。折檻についてはまた、賛否両論あるかも知れませんが、この際それはひとまず脇に置いておきたい。

では、現実に行われている「過激でも残虐でもない暴力シーン」と、メディアの提供する「過激で残虐な暴力シーン」では、どちらが青少年に悪影響を及ぼすのだろうか。

これについてもわたしは議論をするつもりはない。

ここではっきりさせておきたいわたしの立場は、「たとえどんな理由があっても暴力は絶対に間違っている」というものです。

そもそも人間に他者を打ったり、傷つけたりする権利は与えられていません。たとえそれが教育の為であったとしてもです。

しかし、この世には暴力があり、また暴力を奨励、或いは賞賛する精神さえも、確かに存在するのです。

このわたしの心の中にもです。

それが問題なのです。

ここでわたしが提案したい問い掛けがあります。

それは唯、「なぜなのだろうか。」です。

わたしたちは、「なぜなのだろうか。」と問うときに初めて価値ある議論を始めることが出来るのではないでしょうか。

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影の国にわかれをつげて

とうとうブログを開設しました。

ブログ名は「影の国にわかれをつげて」です。

これはCSルイスによる児童文学の最高峰たる「ナルニア国ものがたり」の完結編「さいごの戦い」最終章のタイトルから取りました。

その最終章に於いては、シリーズ中の登場人物たちが大集合して「さらに高く、さらに奥へ!」と口々に叫びながら、あるところへ駆けて行くのです。そして「影の国にわかれをつげて」大団円となるのですが、その読後感に触発されてこのタイトルをつけました。

せっかくの名作が、わたしなどによってネタバレしてしまうことは避けたいので、詳細は伏せておきたいと思いますが、もし「ナルニア国ものがたり」シリーズをまだ読んだことがない方、或いはシリーズ途中だけを読み最終章まで読み終えていないという方がおられたなら、ぜひ読んでみて頂きたいと思います。

ともあれ、このブログの目的は、わたしが「ひとりの人」として、このブログを訪ねてくださる皆さんと共に「さらに高く、さらに奥へ」と「駆け」また「登ってゆく」こととしたいと思います。

わたしが思うに、ルイスはこの「影の国」を、決してネガティブなものとは考えていませんでした。

この「影の国」を、現在のわたしの言葉で説明しますと「聖と俗の狭間」という言葉になります。

そしてわたしは、この「聖と俗の狭間」に生きる「ひとりの人」として、このブログを通して多くの人に出会って行きたいと思っています。

宜しくおねがいします。

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