独白ではなく、対話として・・・

十字架の苦しみはキリスト者の家紋である

 ある考え方によると、キリスト者の群れは「家族」として持つ多くの類似性によって他と区別される。そして、19世紀のスコットランドにおいて指導的な牧師であり、賛美歌作者としても知られているホレイシャス・ボナーは、「十字架の苦しみ」こそキリスト者の「家紋」であるという特徴的な考えを持っていた。

 ボナーの宣教活動は成功していたが、彼自身の個人の生活は、苦しみと無縁ではなかった。五人の子どもを短い期間に次々と喪い、そのことは彼の思想に深い影響を与えた。キリスト者の生活における苦しみの位置という問題は、彼の思想から離れず、それは刊行された彼の作品の中でたびたび述べられている。

 彼ら(キリスト者)はこのどれよりも独特な一つのしるしを持っている。それはまさに家紋である。すなわち、彼らは皆、十字架を負う者たちなのである。これは各人がそれによって認知される、確実なしるしである。彼らは皆、十字架を負う。それを恥であるかのように隠すこともしない。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この方によって、世界は私たちに対して十字架につけられ、私たちも世界に対して十字架につけられたのです。」十字架は時には軽く、時には重い。時には恥と苦しみを多く、時には少なくもたらすが、しかしいつも彼らの上にある。 

 悲しみの小道は人跡まれな道ではない。すべての聖徒が足を踏み入れた。彼らの足跡をそこにたどることができる。それは慰めとなるのだ。このことを記憶することは、慰め、いや、励ましとなる。もし私たちが土牢に捕らえられるなら、私たちの前に多くの殉教者がそこにいたと知ることは慰めにならないであろうか。古代の壁一面に彼ら自身の手によって書かれた名前を読むことは励ましとはならないだろうか。私たちがすべての苦しみから抜き出す慰めは絶大なものである。私たちが投げ込まれるかまどは、すでに多くの聖徒によってきよめられているのだから。

 「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」(Ⅱテモテ2:12)。このことを私たちは確信している。ここで苦しみにおいて一つであることは、この後、栄光において一つであることの保証である。この二つは切り離せない。彼の恥は地上で私たちのものであり、彼の栄光は天で私たちのものとなるであろう。それゆえ、「キリストの苦しみに与れるのですから、喜んでいなさい。それはキリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。」(Ⅰペテロ4:13)。

 私たちは孤独の夜をさすらう旅人にすぎない。遠方にある山の頂上に、ここでは決して昇ることのない太陽の反射をかすかに見るが、太陽はその後にある「新しい天」では決して沈まない。そして、それで十分である。それは暗いでこぼこ道で私たちを慰め、励ます。

        アリスター・マクグラス著『信仰の旅路 たましいの故郷への道』より引用

 地上においては「苦しみ」は常に私たちとともにある。もし私たちの現状がそのようなものでないとしたら、それは逆に私たちが「家紋」を失っていることを意味しているのだとボナーは述べている。

 すべてのことには時があり、「苦しみ」の生活の中に「慰め」と「励まし」の時があり、さらにそこには「恵み」と「喜び」も添えられている。そしてそれは私たちに対する主の深い憐れみによる。

 しかしこの世はキリスト者にとっては「終の棲家」とはならない。すなわち安息はこの世にはないのである。

 このことを忘れて、この世に全き安息を求めようとするとき、私たちは「家紋」を失っているのである。

 「家族」であることの一つの重要な意味は、財産を共有していることである。

 それは、聖書の中の表現を用いれば「共同相続人」であることを意味している。

 そして「家紋」を失うということは、家族の証を失うことであり、財産の相続権を失うということでもある。

 キリスト者の持つ「家族」としての財産とは、イエス・キリストに在る無限の富、すなわち「永遠のいのち」と「天の御国」における国籍である。

 地上におけるつかの間の安逸のために、これを失うことは愚かである。

 だから兄弟姉妹たちよ、この「家紋」を絶対に手放さないように守ろうではないか。

 主が共にいて、これを守って下さる。そして、すべての苦しみから、必ず私たちを救い出して下さる。

 聖書に証されている約束の中で、これほど確かな約束はないと私は確信している。

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「関係性の中で生きる存在」としての「人間」と「宗教」について

「人間」は「関係性の中で生きる存在」であるということがよく言われる。

そしてそれは、恐らく事実であろう。

それゆえ私たちは、常に他者を意識して生きざるを得ない。

この「他者に対する意識」は、私たちを「道徳的な存在」にもするであろうし、また場合によっては「非道徳的な存在」にもするのである。

このように考えるとき、そもそも「道徳」とは、他者との「関係性」に於いてのみ意味を持ち得る概念であるというような気がしてくる。

現在の私としては、それもまた事実であろうと思われる。

否、むしろ私には、あらゆる「関係性」から切り離された「人間」という存在を全く想像することができないが故に、「人間」に関するあらゆる概念は「関係性」を排除しては成り立たないと結論する以外に無いのである。

一見、「一個の人間」のみに帰結するであろうと思われる「生命」や「健康」、「死」という概念にしてみたところで、突き詰めれば「一個の人間」においては完結しないのではないか。

「生命」ほど、「他者との有機的な繋がり」を連想させ、また事実「関係」している概念は稀ではなかろうか。

「健康」もまた、比較する対象、即ち「完全に健全である人間」の像が、概念としてでも存在しない場合には成り立たない概念ではなかろうか。

もし、概念としてでも「他者」を想定しているとするなら、それは「関係概念」であると言うことができるであろう。

もしだれかが、人間は他者との比較無しに「健康である」とか「健康でない」とかいう場合、その基準はどこからくるのであろうか。

言い換えれば、人間はそれを「誰から教えられる」のであろうか。

飛躍して「痛み」や「不自由さ」が「健康でない」という基準になり得るであろうか。

また「病(やまい)」とは、一体なんであるのか。

人が「病」を持ちつつ「健全(健康)」であるということは在り得ないのであろうか。

また一跳びに飛躍して「病」について考えるとき、「病」もまた「関係概念」であると考えることはできないであろうか。

「病」とは、とりもなおさず私たちから「奪うもの(者)」である。

即ち、「奪う」ということが「関係概念」である以上、「病」もまた「関係概念」である。

では「死」はどうか。

「死」が単なる「生命」の消滅であると考える場合に於いてさえ、「生命」が「他者との有機的な繋がり」の上に成り立ってる以上、「死」は「関係性」の中で起こる現象であると考えることができるであろう。

また、私たちは「死」という言葉を、慣用的には「関係性」の中に当て嵌めて用いる。

「孤独死」或いは「犬死(いぬじ)に」などがそれに当り、「孤独死」については特別な説明は必要ないであろうが、「犬死に」とは一般に、「意味のない死」のことであり、この「意味のない」とは、即ち、遺された生きている人間にとって「意味のない」という意味であるから、この場合、「他者にとって意味のない」という意味で「関係概念」である。

このように人間は、その存在の「初め」から「終わり」まで、文字通り、始終「関係性」の中に在ることを、私たちの経験は証明しているのである。

「人間」は「関係性の中で生きる存在」である。

ここで私は、この事実はすべての人間に共通する2つの側面を意味していると考える。

第一に、すべての人間は「社会的な存在」であるという側面。

第二に、すべての人間は「宗教的な存在」であるという側面。

第一の側面については、私はここで、敢えて言葉を重ねようとは思わない。

第二の側面については、恐らく説明が必要であろうから少し述べようと思う。

私が、「関係性の中で生きる存在」であるすべての「人間」が「宗教的な存在」であるという理由は、私が「宗教」とは一体なんであるのかと考えているのかということに懸かっている。

「宗教」とは元来、神や仏など「超越的な存在」に関わるもの、或いは、人間の霊魂、即ち「現世的経験の外側」に関わるものである。

どれほど「現世的経験」に重きを置く宗教であったとしても、必ず、上に挙げた「超越的な存在」あるいは「現世的経験の外側」に関する「教条」或いは「命題」を持っているであろうし、もしそのようなものを一切持っていないとすれば、それはもはや「宗教」とは呼べず、それは人間のもう一つの側面に属する「社会的な思想」或いは「運動」である。

ともかく、「宗教」が「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」に関するものであり、且つ「人間」は「関係性の中で生きる存在」であると言うとき、すべての人間は「宗教的な存在」であるという私の指摘は、恐らく正しい。

なんとなれば、「関係性」とは、とりもなおさず「人間」の「外側」に存在するものとの間に初めて存在する概念であるが故に、「人間」は「外側」を必要としているからである。

ところで、「ひとりの人間」は「もうひとりの人間」を、完全に「外側の存在」として経験することが、果たしてできるであろうか。

というのは、私たちは「自分以外の人間」を自分自身の「経験を通して知る」のであり、また、それが可能であるのは「他者」である「もうひとりの人間」が、私たちと同じ「人間性(という経験)」を持っているという事実に根ざしているからである。

つまり「ひとりの人間」が「もうひとりの人間」を「知る(出会う)」とき、「ひとりの人間」は「もうひとりの人間」を自分の「経験の中で知る(出会う)」のであって、言い換えれば、「もうひとりの人間」を、自分の「経験の中に取り込んでいる」のである。

そして「ふたり(或いはそれ以上の複数)」の人間が「関係性」を持つというとき、「人間」は、「お互い」を自分の「経験の中に取り込んでいる」のである。

そのような「経験」の只中に於いては、「ふたり(或いはそれ以上の複数)の人間」が「お互いの内側に存在する」のであるから、そこに「外側の存在」としての真の意味での「他者」は存在しないのである。

ここに、私が「すべての人間は宗教的な存在である」と言う理由がある。

つまり「人間」は、根源的に「外側の存在」としての「他者」を必要としているにも関わらず、同じ「人間」の中に、それを見出すことができないのである。

そこで「すべての人間」は、たとえそえれが「抽象的な概念」であったとしても「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」の経験を必要としているのである。

ここで「すべての宗教」は「救済論」となると、私は考える。

「救済」とは即ち「人間」の「根源的な必要が満たされること」である。

もしそうであれば、「真の宗教」は「抽象的な概念」では在り得ない。

なんとなれば「抽象的な概念」には、「現実の必要」を満たすことができないからである。

即ち、「真の宗教」は「具体的な事実」としての「超越的な存在」或いは「現世的経験の外側」の経験を持っていなければならないのである。

ここで、キリスト者である私は、多くの「この道」の先達が、聖書の証する「神」こそが「唯一の実在(或いは現実)」であると告白していることに注目する。

「神」こそが「実在(現実)」であり、その方に比べれば、「人間」の「実在性(現実性)」は影のように頼りなく不確かなものである。

それにも関わらず「人間」は「存在(実在)」しようと欲するが故に、「唯一の(絶対的な)実在」である「神」との「関係性」を必要としているのである。

20世紀最大のキリスト教神学者の一人であるカール・バルトは初期に於いて、「人間」が如何にしても到達し得ない「全く異なる存在」としての「神」を「絶対的他者」という言葉で表現したが、後期には、「神の人間性」について言及している。

バルトにとっての「神の人間性」とは即ち「神の人間への関係と顧み」であった。

私もまた、キリスト教の「神」は「絶対的他者」であると共に「人間に関係する者」であると確信している。

そしてこのことは重要である。

なぜならば、「神」がもし「絶対的他者」でなければ、その「神」には「人間」の根源的な必要を満たすことはできず、即ち「救済者」で在り得ないのであり、またもし「神」が「人間に関係する者」即ち「人間」を憐れみ「積極的に人間と関係性を築こうとする神」でなければ、「人間」は「絶対的他者」である「神」を永遠に知ることができないからである。

またこの「救済論」が実現するためにはもう一つ大切な条件が存在する。

それは「神」が「人間」の「上位の存在」であり、「人間的な経験にとって不可能なこと」を実現する力を持っていなければならないということである。

このことについては、聖書は「創造主」としての「神」を指し示すことによって保証を与えている。

即ち「創造主」である「神」は「被造物(世界)」に対して「完全に自由な介入」を行うことができるのである。

この「完全に自由な介入」を、聖書は「奇跡」と呼んでいるのである。

私としては、「奇跡」について、聖書の「神」は「完全に自由」ではあるが「秩序を重んじる」神でもあることをも強調する必要があると考えているが、「奇跡」については、ここでの主題を離れるので、これ以上は言葉を控えたいと思う。

ここで私が述べたかったことは、「人間」が「神」を知り、「神」との「関係性」を持つことができるというのは、「創造主である神」の「主権」に根ざした「奇跡」であるということである。

ここで私としての結論を述べたいと思う。

「すべての人間」は根源的に「関係性」を必要としている存在である。即ち「すべての人間」は「救済」を必要としている存在である。そして、「救済」とは、とりもなおさず「絶対的他者」としての「神」との「関係性」であり、それは聖書に証された「憐れみ深い創造主としての神」の「主権」によらなければ、永遠に不可能なものである。

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村上春樹のエルサレム賞受賞式のスピーチについて

2009年2月に作家、村上春樹がエルサレム賞を受賞し、その受賞式でのスピーチの内容が当時かなり話題となった。

そのスピーチの内容を最近読み直してみたところ、それは(肯定的な意味において)あたかも宗教家の言葉のようであり、キリスト者である私にとっても、深い感銘を受ける言葉に溢れていた。

私個人にとっての覚書としての意味でも、このスピーチの内容から私が考え、感じたことをここにまとめてみようと思う。

参考にしたのは下記URLの和訳された文章である。

http://anond.hatelabo.jp/20090218005155

スピーチの冒頭で、村上は、小説家を「プロの嘘つき(spinner of lies)」であると述べ、続けて、小説家の嘘、即ち「創作」が、不道徳であると咎められるのでなく、むしろ「巧みな嘘」は「評論家たちに賞賛される」理由について、次のような言葉で説明している。

「創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。」(強調は筆者)

引用文で強調した「ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。」という言葉は、真理を語っていると思う。

また引用した文章全体は、聖書の中で、イエス・キリストが真理について、多くの場合「たとえばなし」を用いて話した理由の説明であるかのように私には思われる。

すなわち、ここからキリスト教会で、牧師や司祭が語る「説教」における例話についても、深く学ぶべき洞察があるように考えられるのである。

また村上はスピーチの中で次のようにも述べている。

正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

この言葉について、私は次のように言い換えたいと思う。

正しい事、誤っている事の判断はもちろん、『人間』の一番大切な任務のひとつです。

そして村上は、次のような前置きをして、話題となった「常に卵の側に」という言葉を語っている。

「これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ

それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。」村上が、どの程度「聖書」に親しんでるのであるか定かではないが、私にしてみれば、これは非常に聖書的な表現である。

私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。申命記6章6節

あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 申命記11章18節

また、「そんな時に私は常に卵の側に立つ」というのは、聖書全体を通して示されたイエス・キリストの姿と、驚くほど一致している。

パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
                                                        マルコの福音書2章16節17節

上記の言葉に続けて村上が述べている「いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?」という言葉は、もはや一作家としての言葉ではなく、説教者(或いは聖書における預言者)の言葉であると私には感ぜられる。

なぜならば、この言葉は、「世の常なる流れ」=「壁」に逆らって立つ者の言葉であるからだ。

私がここで、「世の常なる流れ」という言葉で表現しているものを、村上はスピーチの中で「壁」また「システム(The System)」という言葉で表現している。

また村上は、次のように続けている。

「私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。」(強調は筆者)

この文章の中の「小説」「物語」を「説教」或いは「聖書からのメッセージ」に、「小説家」を「説教者」、「書く事」を「語る事」に読み替えれば、それはそのまま私がキリスト教の説教者たちについて希望する内容をそのままに表現しているように思われる。ただ一点だけ、決定的に異なるの点は、説教者は「創作をでっちあげ続ける」のではなく、「聖書から聴き続ける」者であるということである。

ここに、説教者が小説家に勝る点があると、私は敢えて宣言したい。

なぜならば、「聖書から聴き続ける」者は、自ら「創作をでっちあげ続ける」と言い張る者よりも謙遜であるからである。

そして、「そんな時に私は常に卵の側に立つ」という村上の言葉は、真の謙遜を表現している言葉であると私が考えるからである。

このような「真の謙遜」は、キリスト教の文化においては「謙卑(けんぴ)」という言葉で、主にキリストについてのみ用いられる。キリスト者にとっての「謙遜」とは、このキリストの「謙卑」に倣うことを意味するのである。

何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
                                     ピリピ人への手紙2章3節から8節

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父なる神への請求書

日本救世軍の創始者である山室軍平の若き日の恩人としても知られる、禅者牧師と呼ばれた吉田清太郎牧師について次のような逸話が残されている。

吉田牧師は、金がなくなると、神様に「請求書」を出されたようである。

吉田牧師の『日記』には次のような記事がある。

    請求書
一 金五円〇四銭 牛乳
一 金三円三十六銭 電燈
一 金二円四十八銭 魚
一 金三円 卵
一 金三十銭 洗濯
一 金六円二十四銭 八百屋
一 金十五円三十八銭 米ヤ
一 金九円八銭 チタノヤ
〆金四十四円八十八銭
外ニ 三十円
総計 七十四円八十八銭
右 四、五日の間に御送付下さい。
  神と主の栄光を現わすために。
 昭和九年五月二日 清太郎
                父上様

「チタノヤ」が何を意味するのか不明であったが、その他のものと同じ生活用品に関わる商店の名前であろうか。

ともかく、思わずニヤついてしまうほど率直な請求書であるが、請求先に「父上様」とあることに心を振るわせられる想いがする。

吉田牧師の父なる神に対する信頼は、まさしく幼い子どもが親に信頼するが如き全き信頼である。

私の恩師の一人である石田和男牧師(2008年9月召天)の著書『津山の虹 石田牧師の教会だより』の中に、「独立の信仰」ということが書かれていた。

それは石田先生が『内村鑑三遺墨集』の中の『独立五十年』という記事を読んだときに確信したことであったという。

 信仰とは、神への全き依存です。これ以外の何者でもありません。そして、その依存は、不純なものの介入を微塵も許さない、厳粛な、絶対の依存です。

吉田清太郎牧師の幼子の如き神への信頼の姿は、内村鑑三や石田和男牧師の『独立の信仰』に通ずるものがあると感じる。

表現の仕方は人それぞれであるが、全きキリスト者の信仰とは類似した本質を持っているものであると改めて考えさせられる。

願わくば、私自身の信仰も、そのような先達たちに並ぶもので在らんことを。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。      マタイの福音書6章33節

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主の前に静まるということ

 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。
 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。

                                         詩篇77:11,12

「思い起こす」ことと「静まる」ことは、キリスト者の信仰生活にとって大変重要な行為であると思う。

「思い起こす」ことと「静まる」ことを「行為」であると表現したが、これらはどちらも外面からは知ることのできない行為である。

なるほど「静まる」という行為については、或いは沈黙しているという状態で、外面的に知ることができると考える方もおられるであろうが、私たちは、外面的には沈黙していても心の中には雑音が溢れているということがあることを経験的に知っているはずである。

本当に心が「静まっている」のかということを知ることができるのは、「静まっている」本人だけなのではないかと思う。

ところで現代の社会は、効率性と生産性を求め、思い悩むことや立ち止まること嫌うという特徴を持っている。

言い換えれば現代社会は機械化を望んでいると言えるかも知れない。

機械は当然思い悩むことはなく、機械が立ち止まるとき、そこには一切の生産性はない。

現代の社会は、人間がそのような存在であることを求め、またそのような存在であると考えているのである。

しかし本来の人間とは、本質的に「思い悩む」という性質を持っている存在であり、また人間の「立ち止まり」は、機械の立ち止まりとは全く異なり、そこには反省や自己吟味、休息など多くの生産的な意味が含まれている。

もっと言えば、人間には、「立ち止まり」や「静まり」を通してでなくては得ることのできない多くの要素があるのである。

またその中でも、信仰者に特有のものとしては「静まりの中で神の声を聴く」ということがある。

私たち、キリスト教の文化の中には「微かな」或いは「かぼそい神の声」という考え方がある。

これは、神の声が小さく、弱々しく、はっきりとしないものであるという意味ではなく、むしろ神のことばが、聖書を通して、或いは多くの信仰者たちを通して、人類の全歴史に渡って、これほどはっきりと力強く語られているにも関わらず、人間の心の雑音は、それを容易に掻き消してしまうほど激しいものであるという現実に対する反省からきているものである。

そして、この「微かな神の声」に耳を傾ける行為を、キリスト者たちは歴史的に「祈り」の中に位置づけてきたのである。

これはある人々の間で「聴く祈り」呼ばれるものである。

今日の詩篇の引用箇所に限らず、注意深く詩篇を読み黙想するとき、詩篇の作者である詩人たちの多くのものが(私としては殆んどすべての詩篇が)、この「聴く祈り」を通して、神の声を聴き、新たな洞察や力を、神から受けているようように感じられる。

詩篇は「祈りの大学」すなわち、「実践的な学びの場」であると言われるが、まさにその通りであると私は思う。

すなわち、すべての祈りの内には「神に聴く」という要素が含まれるべきであると、私は考えるのである。

そうでないとしたら、私たちの祈りは、「神との対話」ではなく、単なる「独り言」になってしまうからである。

キリスト者が「祈る」のは、その行為を通して、私たちの現実が、主の前に「良いもの」に変えられることを期待しているからであると、私は考える。

そして「独り言」には、私たちの現実を「良いもの」に変える力が全くないということは、わざわざ指摘するまでもないことである。

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苦難をともにしているなら

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

                                   ローマ人への手紙8章17節

長らく私はこのみことばを誤解していたように思う。

このところでは、私たちがキリストと同じ栄光に与るためには、キリストがかつて地上において、特に十字架の御苦しみを頂点として、苦しまれたのと同じように、現在地上に生きる私たちも苦しみを耐え忍ばなければ成らないということであろうと考えていたのである。

あるいは、かつてキリストが苦難の道を通して栄光を受けたのと同じように、私たちの栄光への道も、キリストが歩んだのと同じ苦難の道であるという示唆であるとも考えていた。

そしておそらくこれは、この聖書箇所についての一般的な理解と一致しているであろう。

しかし、改めてこの箇所を読み黙想していたところ、私はこれまで、この箇所から考えても見なかったキリストの姿を見たのである。

それは、「かつて」十字架において苦しまれたキリストではなく、今まさに、私たちと共に苦しんでおられるキリストの姿であった。

今、私たちの住む日本は3月11日に発生した、東日本大震災の影響による大きな痛みと苦しみの中に在る。

それだけでなく、私たちの世界は、戦争や飢餓や不慮の事故や虐待や差別や傷病のために、目に見える形でも、あるいは目に見えない形でも、常に大きな痛みと苦しみを経験しているのである。

私たちの信仰によれば、救い主であるイエス・キリストは、かつておられた方でなく、今も、そしてとこしえまでも「生きておられる神」である。

そして今も、私たちの苦しみの只中におられる。

そこで私たちも、このお方と、今、「苦しみをともにする」のである。

そしてそれは単に将来の「栄光」のためではなく、「今まさに、キリストとともに苦しんでいる」という「栄光」を受けるためなのである。

そして、このことによって、私たちが事実「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」であることが世界に証されるのであると私は信じている。

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『フィッシュストーリー』

伊坂幸太郎の『フィッシュストーリー』という小説の中に、以下のように同様の形式を持つ3つの文章がある。

『僕の孤独が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと獰猛さに、鯨でさえ逃げ出すに違いない』

『僕の勇気が魚だとしたら、そのあまりの巨大さと若さで、陽光の跳ね返った川面をさらに輝かせるだろう』

『僕の挫折が魚だとしたら、そのあまりの悲痛さと滑稽さに、川にも海にも棲み処がなくなるだろう』

この作品に限らず伊坂幸太郎の作品には機知に富んだ台詞や文章が多い。

そして伊坂幸太郎という作家は、しっかりとした世界観を持ち、さらに常識と良識も兼ね備えている。そしてこの世界は今よりも良いものになることができると信じているのではないかと私は考えている。

伊坂幸太郎という作家について、或いは伊坂作品について語りたいことは沢山ある。

しかし今回は、『フィッシュストーリー』について、特に上述の引用文から私が受けたインスパイアについてのみ記事にしたいと思う。

『フィッシュストーリー』というのは伊坂幸太郎の13作品目の著作である「動物園のエンジン、「サクリファイス」、「フィッシュストーリー」、「ポテチ」の4つの短編作品が収録されている短編集のタイトルであり、収録された一短編のタイトルであり、作中に登場するロックバンドの最後のアルバムに収録されている楽曲のタイトルでもある。

短編集のタイトルとしての『フィッシュストーリー』の意味は、釣り師が、自分の釣果を実際より誇張して言いがちなことに由来する英語の慣用句から、ほら話、大げさな話、作り話という意味を持っているようである。

そして収録された短編すべてに、そのような意味での「フィッシュストーリー」という雰囲気がよく表現されている。

私も「フィッシュストーリー(ほら話)」が大好きである。

「私も」というのは、恐らく伊坂幸太郎もそうであるに違いないからである。

「フィッシュストーリー」はけっして嘘という意味ではない。

ある場合には「フィッシュストーリー」は、物語を聞くものへの「愛」であり「配慮」でさえあると私は考えている。

私の大好きな映画監督ティム・バートンの『ビッグ・フィッシュ』という映画は、その好例であろう。

そこで私も、キリスト者として「フィッシュストーリー」をひとつ考えてみた。

「僕の信仰が魚だとしたら、そのあまりの矮小さと軽薄さに、メダカもアメンボも声をあげて笑うだろう。そしてそれを見て、天の父はやさしく微笑むだろう。神の寛容は、限りもなく深く、そして温かい。」

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「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」

アメリカのフロリダ州、オークランド空港のほど近くに、その夢の国は存在している。

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」

余命が限られた難病の子どもとその家族を世界中から無料招待し、夢のような楽しい1週間を提供するための施設である。

ここに招待された家族は、往復の旅費や食事代、宿泊費、近隣のテーマパーク(ウォルト・ディズニー・ワールドやユニバーサル・スタジオ)の入場料も全て無料となる。

ここでは子どもたちは誰もが夢のように楽しい、最高のひと時を過ごす。

そして憧れのミッキー・マウスと会うことができるのである。

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」を訪れたある母親は「子どもはここにいるあいだ、自分が病気であることを忘れていた」と語った。

他のある家族は、これまでは自力で立つことができなかったわが子が、立ち上がって他の子どもたちと遊んでいる光景を目撃して、しばし立ち尽くしていたという。

後日、その子どもの父親はこう語っている。

「ここでは、なにか特別なことが起こっていると思う。」

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」では、滞在する家族がリラックスして過ごせるようにホテルの1室ではなくコテージが提供されるため、51エーカー(62万坪)もの広大な敷地内には遊園地のほかに100軒近いコテージが建てられている。

この「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」はアウシュビッツ収容所での収容生活を経験し、その後無一文でアメリカに渡り、ベル・ボーイから始めて5軒のホテルを経営するまでになったヘンリ・ランドワース氏が私財を擲ってつくり上げたものである。

ヘンリ氏は「この「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」を作るために私が交わした契約は、土地を購入したときのただ一度きりである。あとは握手だけでできあがった。」と語っている。

多くの企業や善意の人々が、彼の意志に共感して奇蹟を為し遂げたのである。

ところで、この「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」のことを知った私は、聖書に記された天国について思いを巡らせた。

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
                                     ヨハネの福音書14章2節

ある意味では、私たちみんなが難病を抱えている。

その病(やまい)の名は罪である。

罪は私たち個人の人生を台無しにするだけでなく、人間の社会全体に争いと悲惨、不条理と悲劇をもたらす癒しがたい病である。

この罪という難病を抱える私たちのためには、イエス・キリストが天国を備えてくださったのである。

私たちは天国へ「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」と同じく無料で招待されている。

そこでは私たちはミッキー・マウスよりも素晴らしいお方にお会いすることができる。

天国への滞在期間は1週間という限られたひと時ではなく、永遠である。

「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」を訪れた子どもたちも今は天国でもっと素晴らしい経験をしていると私は確信している。

聖書には、天の御国はそのような者たちのものであるとはっきり書かれてあるのだから。

そして私たちもやがてそこへ旅立つのである。

招待状は既に届いている。

もし読者の中に、この招待状をまだ受け取っていない方がいるのならば、一日も早く受け取ることをお勧めしたい。

方法は簡単である。

「イエス・キリストの御名によって、天国への招待状を下さい。」と心から祈ればいい。

詳しくはお近くのキリスト教会へお問い合わせください。

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天には栄え~Hark! The Herald Angels Sing~

天(あめ)には栄え 御神(みかみ)にあれや
地(つち)には安き 人にあれやと
御使(みつか)い達の たたうる歌を
聞きて諸人(もろびと) 共に喜び
今ぞ生まれし 君をたたえよ

定め給いし 救いの時に
神のみくらを 離れて降(くだ)り
いやしき賎(しず)の 処女(おとめ)に宿り
世人(よびと)の中に 住むべきために
今ぞ生まれし 君をたたえよ

朝日のごとく 輝き昇り
御光(みひかり)をもて 暗きを照らし
土より出(い)でし 人を生かしめ
尽きぬ命を 与うるために
今ぞ生まれし 君をたたえよ

賛美歌98

この賛美歌の原曲である「Hark! The Herald Angels Sing」は、英国国教会の信仰覚醒運動であるメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーの弟であるチャールズ・ウェスレー作詞による、世界中で最も愛されているクリスマス・キャロルの一つである。

そして日本においても多くの訳詩が存在し、キリスト教会ではこの時期、必ずといっていいほど歌われている。

中でも、私が最も気に入っている訳詩が上に紹介したものである。

最近新たに訳しだされたものには、もっと原詩に忠実なものがある。

しかし、言葉の美しさと詩情、また詩としての言葉遣いの巧みさにおいて、この訳詩は最高のものであると、私は個人的に確信している。

なにより、先日私が『この聖き夜に~キリエ・エレイソン~』という記事において黙想した、「世に降りながらも、光として輝き昇った」というキリストにおけるクリスマスの「黄金の道」をはっきりと指し示しているのである。

いやむしろ、私は「黄金の道」について、先日は無自覚に黙想していたのであるが、改めて考えれば、その黙想は、私の心に沁み込んでいたこの賛美歌98の歌詞から浮かび上がってきたものであったのである。

クリスマスの夜、キリストは「神のみくらを 離れて降(くだ)り」ながら、しかし「朝日のごとく 輝き昇」ったのである。

この訳詩の訳者は、残念ながら不詳である。

しかし、歓ぶべきことは、この「降りつつ昇る道」は、昔から日本人キリスト者たちの霊性のうちに深く根を下ろしてきた真理であったということである。

このことの故に、私は日本人キリスト者として、日本語によって、日本的な霊性を築き上げられていることを、心から主に感謝している。

 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。   
使徒の働き17章26節、27節

ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。
すべての民が、「アーメン」と言え。
ハレルヤ。   詩篇106編48節

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この聖き夜に~キリエ・エレイソン~

この聖き夜に、
われらに代わりて
苦しみ負うため、
御子は生まれたもう。
キリエレイソン。

この夜 世界は
よろこび祝えど、
馬小屋の御子の
ゆくては十字架。
キリエレイソン。

こよい誰(たれ)か知る、
まぶねのかたえに
墓は備えられ
死の日を 待てるを。
キリエレイソン。

貧しき ふしどに
まどろむ みどり子、
その身に負いたもう
われらの審(さば)きを。
キリエレイソン。

よみがえりの朝、
はじめて われらも
み顔を仰ぎて
心より歌わん。
主にホサナ。

讃美歌21 273 「この聖き夜に」

※「キリエレイソン」は「キリエ・エレイソン(主よ、私たちを憐れんでください)」の短縮形。

キリスト教会では時折、「クリスマスには悲しむべきである」ということが語られる。

その理由は引用した歌詞を見れば明らかであろう。

救い主、御子イエス・キリストはその夜、十字架にて死するためにこの世に降ったのである。

しかしその夜、マリアもヨセフも、羊飼いたちも、そして御使い(みつかい)たちも皆、歓んだのである。

それは何故か。

それはキリストが暗闇に昇る光として世に来たからである。

キリストはその夜、世に降りながらも、光として輝き昇ったのである。

その夜以来、この降りつつ昇る道は眩しいほどに輝いている。

まさに黄金の道である。

この道を知ったので、今、私は歓んでいる。

どうか主よ、あなたの豊かな憐れみによって、私たちをあなたの黄金の道に導き入れ給え。

そして、私たちのよみがえりの朝に、み顔を仰ぎつつ、歓びの歌を歌えますように。

キリエ・エレイソン!(主よ、我らを憐れみ給え!)。

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