福祉を考える

臨床福祉学という「学」について

『スタートライン臨床福祉学』(丸山晋/松永宏子2006,弘文堂)を読んで

 『スタートライン臨床福祉学』第Ⅰ章によれば「臨床」と冠された「学」として従来から市民権を得ているものには「臨床医学」「臨床看護学」「臨床心理学」などがあり、「臨床福祉学」という概念は、古くからある社会福祉学の臨床的応用としての「古くて新しい」「今日なお発展中」の「学」である。

 そもそも医療や社会福祉(困窮者に対する相互扶助や援助)とは、人間が社会的存在として生活する上では必然的に必要となるもので、その起源は自然発生的なものであると考えられる。

 そのような自然発生的な人間の営みを科学的に洗練し、且つ効率的に行うための研究をするために事後的に生まれたものが、それぞれの「学」であるというのが私の考えである。

 そのような立場からは、医学(看護学、心理学も含む)や社会福祉学は、「実践」と切り離して考えることができない「学」であると言える。

 また、ここにおける「実践」とは、狭義の「実践」であって、具体的には病者に対する直接的医療の提供であり、困窮者に対する直接的援助を意味する。

 それが特に医学においては、自然科学の発展によって、直接的医療を強化あるいは効率化するための間接的医療分野の拡大によって、一見、上述の「実践」から離れた医学分野が肥大したところから、敢えて「臨床」を冠して、狭義の「実践」に特化した分野が改めて創出されて来たという流れがあるのではないかと予想される。

 そして、それと同じことが近年の社会福祉学の分野でも起こっているのではないかと思う。

 また前掲の文献によれば、「臨床学」とは「総合の学」であり、また「応用の学」である。

 つまり、「臨床学」とは、何某かの「実践」に関する「学」が真の意味での「実践の学」として成熟に伴って創出されるものであるとも考えられる。

 すなわち、「臨床福祉学」の創出は、社会福祉学が「実践の学」として成熟してきたことを示すものであると言える。

 また、それとは逆に「臨床学」の創出は、「実践の学」が原点に立ち返る、いわゆる「原点回帰」の姿であるとも言える。しかし、この「原点回帰」は単純に過去に遡るのではなくて、過去の研究成果を踏まえ、さらに今後の「実践」からも学び続けようとする「発展的原点回帰」であり、しかも「臨床学」とは、その「臨床」という性質上、正に今現在起こっている「現実」を重視する「学」でもある。よって、「臨床福祉学」とは「現実」に即した社会福祉学のあり方であると私は考える。

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スタートライン臨床福祉学 Book スタートライン臨床福祉学

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『ソーシャルワークの作業場 寿という街』 

非常に興味深い本があったので紹介したい。

ソーシャルワークの作業場―寿という街 Book ソーシャルワークの作業場―寿という街

著者:須藤 八千代
販売元:誠信書房
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はじめに

 本書は、現在愛知県立大学助教授(社会福祉学)である著者須藤氏が1995年から6年間の間、神奈川県横浜市中区に所在する一般に「ドヤ街」と呼ばれる簡易宿泊所の密集地、寿町を所管する中福祉事務所の保護課においてソーシャルワーカーとして活動した体験をもとに執筆されたものであり、著者はその体験から寿町を「ソーシャルワークを創出した貧困が、原型のまま存在する場所であり、生と死と病という人間の根源が剥き出しのままになっている場所」、「特別な福祉活動地区、ソーシャルワークの作業場である。」と表現している。

 因みに「ドヤ街」のドヤとは簡易宿泊所を意味し、「宿」を逆さに読んだ俗称であるといわれており、寿町は「ほぼ二五〇メートル四方の米軍の接収跡地に、九六軒ぐらいの簡易宿泊所が密集して」おり、「山谷、西成と並んで日本の三大簡易宿泊所(ドヤ)街」といわれている。

内容

 本書の序章は「新しい旅」と題されており、そこには著者が中福祉事務所に配属となった当時、「女性ワーカーの寿町訪問は、男性ワーカーの同行を原則とする」というルールの存在などから女性の職場としては危険視されていた状況と、それにまつわって「忘れられない事件」として著者の知人の女性ワーカーが殺人事件の被害者になった「一つの事件」についても語られている。

反面著者は寿町を「ソーシャルワークの実践感覚を刺激する格好の場所」と捉え、「ソーシャルワークの最前線」に立ち、「絶え間なく展開し続ける作業の渦の中に入っていった。」

 具体的な活動内容としては「テーマ研究・寿地区・ホームレス問題と横浜中福祉事務所」、「寿地区の地域ケアをめぐる情報交換ミーティング」などがあり、前者は「ニューヨーク市のホームレス問題プロジェクトがまとめた報告書」の翻訳とともに七人のケースワーカーによる「グループ討議」を行いその内容を小冊子にまとめた形になったようであるが、著者はその作業の中で、「さまざまな社会の仕事のなかの、辺境におかれた仕事の部署で、深い思索が重ねられていることがわかってきた。」という感想を持ったと書かれている。そこで著者が語りたかったのは著者が「ソーシャルワークの責任」と表現するソーシャルワークの価値であったと思う。

 また本書では、著者がある期間「寿労働センターの会議室で開かれる、AAのオープン・ミーティングに参加することを仕事の柱にした」経験についても1章が裂かれている。

 そして何よりも本書の大部分を占めるのは、ソーシャルワークの実践の中で出会った寿町に生き、そして死んで行った人々との経験である。ここでも突き詰めてしまえば著者の主題は、社会福祉専門職としての価値、つまりその人々の「怒りや憎しみや悲しみ。ときに喜びや美しさなど」と一人の人間としていかに向かい合って行くのかということであったと思う。そして著者は、「人間の命を慈しめ」という結論に至ったようである。

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「人間福祉」という用語についての私論

 近年、社会福祉系、或いはその関連領域の学問領域において「人間福祉」という語が用いられている。

 また複数の大学の福祉系学部や学科名において「人間福祉学」という語が用いられるようにもなってきている。

 ここで「人間福祉」という語を問題とするまえに、まず、その背景となる社会科学の一領域である「社会福祉学」という学問について簡単な整理をしてみたい。

 一番ヶ瀬康子・真田是編の『社会福祉論(新版)』(有斐閣双書)においては、社会福祉という言葉を目的概念的規定と実体概念的規定との2側面から捉え説明している。

 目的概念的規定としては「行為あるいは制度・政策の目的概念として、また形而学上な意味あるいは当為概念として用いられる場合」であり、「それは『社会のしあわせ』『社会全体の幸福』というような漠然とした意味・内容でつかう場合」と研究者の中で「一連の諸政策や制度がめざす目的をさすものとして」捉えられる場合があることを指摘している。

 また、実体概念的規定については、「行為あるいは制度・政策それ自体すなわち現実に存在する実体概念として、形而下的な存在概念」であって、実体概念的規定にはさらに広義と狭義の2つがあるとしている。すなわち広義とは「いわば社会福祉というなのもとに呼ばれている行為・制度・政策を総称して呼ぶ用法」であり、狭義とは「社会福祉という用語を狭義に用い」る場合であり、この場合「従来いわれてきた社会事業ということばとほぼ同義語」であるとしている。

 さらに一番ヶ瀬氏はその後の著書の中で「社会福祉」と「福祉」について、福祉は、「広義には”幸福”や”幸せ”であり、狭義には、広義の福祉の前提となる”暮らしむき”あるいは”幸福追求のための暮らしの条件”であり、社会福祉は、その福祉をめぐるところの社会方策あるいは社会的努力である」としている。

ここで「福祉」という言葉をその成り立ちから考えてみたい。

 「福」と「祉」は、ともに「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する漢字で、元々は日本国憲法作成時におけるGHQ案の英語原稿翻訳を行う際Social Welfare(社会福祉)の「welfare」に対応する語が存在しないために充てられた言葉である。そして英語のwelfare には、fare には、「行く」という意味があり、well(うまく)fare(行く)という語源的な意味があるとされている。ここからwelfareとは、語源的には「よい状態、うまくいっている状態」を意味し、「広義の福祉」と一致する。

 用例としては「公共の福祉」などという場合がこれである。

 一方、福祉という言葉は慣用的には、「社会的に恵まれない人々のための」といった前提を含む、社会保障制度そのものを指して用いられることが多い。これが「狭義の福祉」である。ここから「福祉の世話になる」というマイナスイメージの強い言葉も生まれることとなる。

 また近年、welfareに替わる用語として、人の「行き方」や「生き方」を越えて、もっと根本的な人の「存在のあり方」に焦点を当てた、「存在のよさ」としてのwell-beingという語が広く用いられている。

 前置きが長くなったがここから以上の内容を踏まえて、本題である「人間福祉」という用語に関心を戻したい。

 ここまでの内容からは「福祉」という言葉が、大きく分けて目的概念と実体概念という2つの意味を持って用いられていることがはっきりとしたであろう。

 また「福祉」という言葉は、目的概念的に用いられる場合にしろ、実体概念的に用いられる場合にしろ、その主眼は社会の構成員である「人間」の「幸福」にあるということも明らかにされたものであると筆者は考える。

 それゆえ「福祉」という言葉を用いる限り、研究であれ実践であれ、その主題は「人間の幸福」であり、その最も現代的な表現はHuman well-being=「人間福祉」なのである。

 藤村正之氏は、その著書『福祉化と成熟社会』(ミネルヴァ書房)の中で、現代社会において、産業化と近代化がもたらした社会問題への解決を模索する社会現象としての「福祉化」が進行していること及びその「福祉化」には2つの段階があることを指摘している。

 藤村氏によれば、「福祉化」の第一段階とは「社会構造の安定化を基盤としつつ、社会福祉・社会保障や保健・医療など、私たちの生活や生命の保障に密着した社会的領域が制度的・政策的に進展してきたこと」であるとし、第二段階は「対象者に個別的に接近することを基本的目標とし、異質性と自立性を保っていく姿勢を確保しようとするところに主眼がある」と指摘している。

 このブログにおける筆者の最大の関心の一つは、「人間」が「ひとりの人」として貴ばれることであり、藤村氏の指摘する第二段階の「福祉化」に深く共感するものである。

 そこで筆者はHuman well-being=「人間福祉」を、藤村氏の第二段階の「福祉化」の過程で登場した「人間」が「ひとりの人」として貴ばれる「福祉」であると捉る。

以上は近年社会福祉系の学問分野において用いられるようになった「人間福祉」という用語についての筆者個人による私論である。

主な参考文献

『社会福祉論(新版)』(有斐閣双書)一番ヶ瀬康子・真田是編

『社会福祉とは何か -現代の社会福祉-』(ミネルヴァ書房)一番ヶ瀬康子著

『福祉化と成熟社会』(ミネルヴァ書房)藤村正之著

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アマルティア・センの「潜在能力アプローチ」

アジア初のノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センの最大の功績といわれる「潜在能力(capability ケイパビリティ)アプローチ」について紹介したい。

まずは「潜在能力アプローチ」について、センの著作『福祉の経済学──財と潜在能力』の中から引用することからはじめる。

このアプローチは、福祉を、ひとが享受する財貨(すなわち富裕)とも、快楽ないし欲望充足(すなわち効用)とも区別された意味において、ひとの存在のよさの指標と考えようと試みる。

ひとが実際に達成しうる価値ある活動や生活状況に即してひとの生き方の質を判定する

実のところ、評価することは福祉の判断の不可欠な一部なのであって、潜在能力アプローチは、この問題に明示的に焦点を合わせたものに他ならない。そのうえで本書は、福祉の判断に際する評価の適切な対象は、ひとが実現することができる存在や行為であることを主張している。いうまでもなく、評価は内省的な活動である

本書が提唱する福祉へのアプローチは、われわれの無批判的な(なんらかの形式の効用に反映される)感情や、われわれの(実質所得に反映される)富裕の市場評価よりも、われわれの思想や内省に優先度を与えるのである。

福祉の主観的指標として効用がもつ限界は、明瞭に区別されるべき二つの異なる理由から生じるものだということも、恐らくここで指摘しておくべきだろう。第一に、幸福であるとか欲望をもつということは主観的特性であって、われわれの客観的な有様(たとえば、どれほど長生きできるか、病気にかかっているか、コミュニティの生活にどの程度参加できるか)を無視したり、それとかけ離れたりすることが十分にありうる。第二の限界は、主観的概念としてみても、効用は主観的評価ではなく感情にかかわる概念だという事実から生じるものである。

「潜在能力アプローチ」は機能の客観的特徴に注目し、しかもこれらの機能を、感情にではなく評価に基づいて判断する。ひとびとの評価が、究極的にはかれら自身によってなされ、その意味において主観性の残滓をもつとしても、その要素はなお評価と内省に基づいている。この点は、特に強調に値する。なぜならば、効用に基礎をおく判断を擁護するひとびとは、効用の基礎を離れることは必然的にパターナリズムとなり、ひと自らの判断の否定を意味せざるをえないと、しばしば主張しているからである。実のところ、全く正反対の主張こそ正しい。効用に基礎をおく判断は、ひと自らの評価になんら直接的な重要性をも認めずただ感情のみを考慮するのに対して、「潜在能力アプローチ」は、ひとびとがその人生において達成したいものに関してひとが自ら下す(内省的・批判的な)評価に基礎をおいているからである。

ひとの潜在能力集合は、ひとがそこから選択を行いうる機能の組合わせの集合として形式的に表現されている。それは、ひとが福祉を実現する自由度(別の箇所で私が「福祉的自由」と名付けたもの)を表現するものに他ならない。もし仮に、自由が手段としてのみ評価されるのであれば、潜在能力アプローチによる福祉の評価は、その折々の潜在能力集合から選ばれた機能の組、すなわちひとが実現する機能の組の評価となんら異ならないものとなるだろう。しかし、ひとの福祉にとって自由がなんらかの内在的な価値をもつと考えられる場合には、潜在能力集合の評価はそこから選ばれた要素の評価とは必ずしも一致しない。問題の本質は、手段としての役割を越えて、すなわち自由がどのような実現形態をもつかを越えて、われわれが自由に価値を認めるか否かにある。

つまり、センによれば、「潜在能力アプローチ」とは人の機能の客観的特徴に注目し、しかもそれらの機能を、感情にではなく評価に基づいて判断するものであり、また、ひとびとがその人生において達成したいものに関してひとが自ら下す(内省的・批判的な)評価に基礎をおいているものなのである。

また「潜在能力」とは、諸財の有する特性を個々人の財(特性)利用能力・資源で変換することによって達成される諸機能の選択可能集合であり、個人の「福祉的自由」(well-being freedom)を表すものであると理解することができる。ここにおける福祉的自由とは、選択することを外的に妨げられないのみならず、「選択の積極的能力」(the positive ability to choose)を意味する概念である。

すなわち、潜在能力とは「人が善い生活や善い人生を生きるために、どのような状態にありたいのか、そしてどのような行動をとりたいのかを結びつけることから生じる機能の集合」を意味する概念であり、より具体的には、「よい栄養状態にあること」「健康な状態を保つこと」から「幸せであること」「自分を誇りに思うこと」「教育を受けている」「早死しない」「社会生活に参加できること」などを扱う。そしてセンは、「人前で恥ずかしがらずに話しができること」「愛する人のそばにいられること」も潜在能力の機能に含めることができるとしている。

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居場所を探し求める子どもたち

 ここではまず日本における不登校の現状について述べたい。

文部科学省は不登校を、「何らかの心理的,情緒的,身体的,あるいは社会的要因・背景により,児童生徒が登校しない,あるいはしたくともできない状況にあること」と定義している。

 また、平成4年3月の「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告「登校拒否(不登校)問題について」(以下「平成4年報告」とする)においては、不登校は特定の子どもに特有の問題があることによって起こることではなく「誰にでもおこりうる」ことであるという認識が示されている。

 そして、同じ「平成4年報告」においては、不登校に対する対応について、「登校への促しは状況を悪化させてしまう場合もある」などの指摘もなされている。

 上述の現状を踏まえ、筆者は不登校について、児童生徒は、心理的、情緒的、身体的に発展途上の存在であり、その健全な育成は全国民にとって果たすべき社会的な責任であり、すなわち社会は彼らに愛護と適切な導きを提供する義務を負っていると考える。

 その上で、現在不登校に対して様々な私的、公的な対策がなされているにも関わらず、未だに大きな成果が得られていない点、すなわち効果的な対策が見つかっていない点が問題であると筆者は考える。

 第一にこの問題は複雑な要素を持ち、現在不登校の状態にある児童生徒の状態、またその背景は様々であるにも関わらず、対応する社会の側が「不登校」という言葉で一括りにして、対応を検討していることが、この問題に対する効果的な対策が見つからない原因であろう。

 またこの問題を「不登校」と呼ぶ場合、その対応の目指す方向はどうしても、現状の学校に登校することに設定される傾向があることも問題である。たとえそうでない場合にも「不登校」という言葉自体が「登校しない」「登校できない」というネガティブな要素を含んでいる。

 それでは一体何がなされるべきであるか。

 筆者はここで構築主義的なアプローチを試みたい。

 単純には、この問題について「不登校」に代わる用語と考え方を社会全体が持つべきである。

 すなわち現在「不登校」の児童生徒として一括りに理解されている子どもたちを、一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると社会全体が理解できる価値観を作りあげ、社会全体が、そのように解釈し、認識するように促すのである。

 しかし、このように社会の価値観を変革することは、一朝一夕に行えることではないし、政府やある一定の専門職集団や社会集団、或いは個人が動けば必ずそうなるというものではない。

 具体的には、この問題に関わる政府、専門職、社会、個人に対する啓蒙活動やソーシャルアクションを行うべきであるが、実際これは気の遠くなるような作業になるであろう。

 そこでここにおいてはまず、筆者自身が、現在「不登校」とされている児童生徒たちを「一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると」解釈し、認識することを試みたい。

 『不登校・ひきこもりと居場所』(ミネルヴァ書房 忠井俊明・本間友巳 編著)の第1章〔Ⅰ-2〕において本間友巳氏は、「不登校」と「ひきこもり」について「居場所」を喪失した状態であるとしている。また、ここでいう「居場所」とは、「人の発達や成長を支える場」であると本間氏は説明している。

 また本間氏は〔Ⅱ-1〕においては「居場所」について、「当事者にとって、何らかの意味をもつ空間でなければならない」と主張し、「居場所」の「もっとも基本的な意味」として「その人がなすべき行為や活動ではなく、存在そのものがその場に無理なく定位できるという存在論的な次元に関わるものである」と論じている。

 ここから「発達や成長を支える場」としての「居場所」を提供することこそが「不登校」並びに「ひきこもり」に対する相応しい支援となるというのが本間氏の主張の大筋である。

 また〔Ⅰ-3〕において本間氏は「居場所」としての「現代の家庭」について、「大幅に縮小し、それに伴い家族機能」が「きわめて限られたもの」となっていることに加えて「現代の消費中心の家庭のあり方は、家族の協力や協働をそれほど必要と」しなくなったこと、「その結果、成員間の関係」が「希薄なものとなりやすい」こと、また「同様の理由から、近隣や地域に対しても家庭を開く必要性もなくなり、家庭は外部に対して閉じることが多くなっている」ことを指摘し、そのために現代の「私的世界を重視する意識のあり方、すなわち私事化(Privatization)」が促進されていることを論じている。

 さらに本間氏は、その上で「不登校者やひきこもり者(を抱える家庭)」は「外部からの彼らへの積極的な支援を必要としている」とも述べている。

 本間氏による、現在「不登校」とされている児童生徒たちが、自らの「発達や成長を支える場」としての「居場所」を持っていないという主張に筆者は同意する。

 そこで、このことを筆者の問題意識から、彼らは「居場所」を「喪失している」のではなく、現在彼らは自らの「居場所」を探し求めている途上にあるのだと捉えなおしたい。

 ここで問題であるのは、発展途上にあり、適切な導きを必要としている彼らに対して、社会が必要な「居場所」を提供できていないということである。

 そこにはもう一つの問題も関わっている。すなわち社会が彼らに適切な「居場所」を提供することができていない理由は、社会が子どもたちを「一人ひとりユニークな存在」であると捉えていないからではないかという問題である。

 もしそうであるならば、ここでは新しい、さらに深刻な問題が想起されてくる。

 その問題とは、現在「不登校」ではない児童生徒にとって、現状の学校が、果たして彼らに相応しい「居場所」であるのかどうかという問題である。

 加えて本間氏が指摘している通り、子どもたちにとって最も安全な「居場所」であるべき「家庭」が、現代においてはその役割を充分に果たすことができていないという現状がある。

 このように考えて行くと、問題はますます多く複雑になってくるように思われる。ここにおいては「不登校」とされる児童生徒たちの問題の枠を越えて、現代に生きる子どもたち全体に関わる、より大きく深刻な問題が顕にされたのである。

 しかし同時に、筆者の試みにとっては良い効果も現れてくる。

 つまり私たちが、或いは社会全体が、この問題を理解するならば、つまりこの問題は一部の子どもたちの問題ではなく、子供たちの社会全体、すなわちそれは私たち大人も含めた正に日本の社会全体の問題であると捉えるならば、「不登校」の状態にある児童生徒たちは一部の問題を抱えたある子どもたちであるという見方は無くなり、現在「不登校」とされている児童生徒たちも、またそうではない児童生徒たちも共に、現代の子どもたちは自ら「居場所」を探し求める旅の途上にある者たちであると捉えることができるのである。

 このような認識を社会一般の認識とするためには、日本の社会全体が、子供たちの健全な育成は全国民にとって果たすべき社会的な責任であるということをもう一度自覚し直す必要がある。

 そうすれば大人たちは、自分たちには子どもたち一人ひとりにとって相応しい最善の「居場所」を提供する義務があることを理解するはずである。

 この「居場所を探し求める子どもたち」というイメージによって、現在「不登校」とされている児童生徒たちを「一人ひとりユニークな存在として、しかも現状をネガティブにではなく、少なくとも中立の状態であると」解釈し、認識するという筆者の構築主義的アプローチは、一つの方向を得たと考える。

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不登校・ひきこもりと居場所 Book 不登校・ひきこもりと居場所

著者:忠井 俊明,本間 友巳
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この子らを世の光に

タイトルの言葉は、糸賀一雄(いとが かずお)氏の言葉です。http://www.biwa.ne.jp/~itogamf/date/index.htm

糸賀先生(氏は社会福祉の実践家であると共に教育者でした)は、戦後の混乱期の中で障害のある子供たちの福祉と教育に、文字通り一生を捧げた、日本の障害者福祉の先駆者であります。

そして先生の事業の根底には、何よりも深い愛がありました。下記のような先生の言葉に触れるとき、そのことがより深く実感出来ます。

「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり、生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。この子らが、生まれながらにしてもっている人格発達の権利を徹底的に保障せねばならぬということなのである」(「糸賀一雄著作集Ⅲ」より)

「この子らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」。このたった二文字の入れ替えによって、糸賀先生は、まさに当時の社会の常識を覆すような大事業を成し遂げました。このような人物こそ、真に創造的な人物であると私は思います。

また、先生の残された多くの言葉には、先生と同じキリスト信仰を持つ私にとって、信仰の先達の言葉としても深く心に響いて参ります。

「愛は深めていけばいくほど、どこまでもどこまでも深まっていきます。
そしてそれは純化されていきます。
そのことを私たちは知っておきたいと思います。」

「 精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめることが学園の仕事である。
精神薄弱な人たち自身の真実な行き方が世の光となるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々が、かえって人間の生命の真実に目ざめ救われていくのだ」

「すべての人間は生まれたときから社会的存在なのだから、それが生きつづけていくかぎり、力いっぱい生命を開花していくのである。 」

糸賀先生については機会があればさらに記事に書かせて頂きたいと考えています。

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障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例

という素晴らしいネーミングの条例を見つけました。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tibasyougaisyajyourei.htm

千葉県出身者の私としては、とても誇らしい気持ちになりました。

この条例の素晴らしいのは名前だけではありません。

第二条に次のように謳われています。

『 この条例において「差別」とは、次の各号に掲げる行為(以下「不利益取扱い」という。)をすること及び障害のある人が障害のない人と実質的に同等の日常生活又は社会生活を営むために必要な合理的な配慮に基づく措置(以下「合理的な配慮に基づく措置」という。)を行わないことをいう。』

つまり、障害のある人に対して「不利益を及ぼす」という”積極的”行為のみを「差別」と考えるのではなくて、「配慮した措置(行動)を行わない」という”消極的”態度もまた、「差別」であると考えているのです。

私はキリスト者であるので、極端な表現ではあるが、この「差別」という言葉を「罪」という言葉に置き換えて考えてみたいと思います。

すなわち、現実にある「差別」や、そこから発生する「理不尽な悲しみ」を、私たちが「対岸の火事」と見て、”積極的”な解決行動を取らないとすれば、それは「罪」である、ということではないでしょうか。

聖書によれば「すべての人間は罪人である」ので、このことによって他者を責めることの出来る人間は一人もいません。ただ、その「罪」を、日々の生活のなかで「悔い改め」て、自分にも”積極的”な行動が何か出来ないであろうかと、私自身が想いを巡らすのみです。

ここで、一つの聖書の言葉を個人的に黙想してみたいと思います。

しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。

聖書の「エゼキエル書」33章6節に書かれている言葉です。

この場合、「剣」は神のさばきであるので、今回の話題である「差別」や「理不尽な悲しみ」とは直接に結びつくものではありません。しかしこの世の「すべての悲惨」が、究極的には人類の罪に起因するという、聖書的な世界観に立つならば、或いは、そこまで極端には考えないにしても、「差別」自体を、「人類の普遍的な罪性」の現れの一形態であると考えるならば、「剣」は「差別によって起こる理不尽な悲しみ」であると私には思えます。

このような黙想には、「その者の咎」を「被差別者の咎」と誤解されてしまう危険性があることを十分に自覚して、注意して個人的な黙想を補強したいと思います。

ここでの黙想においては「その者の咎」とは、勿論「被差別者の咎」などでは断じてなく、むしろ「剣」である「差別によって起こる理不尽な悲しみ」を招いている「咎」、すなわち「人類の普遍的な罪性」であり、この「咎のために」、理不尽にも「被差別者」である「障害のある人」が「打ち取られ」る、すなわち人間としての尊厳を踏みにじられるという「悲惨」の中におかれるということであり、文脈的には、「血を流す」ということです。

聖書の神は、その「血の責任」を、「見張り人」すなわち、”積極的”な解決行動を取らなかった私たちに問うと宣告しています。

繰り返しになりますが、これらの内容は、社会人としても、キリスト者としても、まだまだ未熟である私の個人的な黙想です。

私の意図は、現実にあると考えられる、障害のある方々に対する差別についての「個人的な反省」を、この文章を読んでくださる方々と分かち合いたいというものでしたが、内容が、決して単純でも、軽いものでもありませんので、この文章を読んで、異論をお持ちになる方、或いはお怒りさえ抱かれる方がいらっしゃるかも知れません。万が一そのようなことがあった場合には、心よりお詫びを申し上げます。

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「welfare(ウェルフェア)」から「well-being(ウェルビーイング)」へ

久し振りの更新です。

この4月から久し振りに学生に戻り「福祉」について学び始めました。

そんな中で最初に触れた言葉が「welfare(ウェルフェア)」と「well-being(ウェルビーイング)」という二つの言葉です。

英和辞典で調べると、どちらも「幸福」或いは「福利」という意味の単語ですが、一般に日本語の「福祉」に対する訳語としては「welfare」を使うことが多いようです。

ウィキペディアで「福祉」と検索してみても、まず最初にあるのは「社会福祉」としての「social-welfare」で「well-being」という語は補足的に、同一の意味を持つ単語として記載があるだけです。

ところが、近年の福祉の現場では、この二つの言葉を別々の意味を持つ言葉として使い分ける傾向にあります。

例えば

「welfare(ウェルフェア)」=事後処理的な対応

「well-being(ウェルビーイング)」=人権の尊重・自己実現

などがそうですが、これが必ずしも正しいという訳ではなく、勿論「welfare」にも人権の尊重や自己実現という概念も含まれいています。

どうやらポイントは「welfair」が事後的、補完的、代替的である、”従来的な「社会福祉」”の有り方を表すのに対して「well-being」の方は、より個人の尊重、自己実現、権利擁護を基調にする”これからの「社会福祉」”の有り方を表すのに用いられているということのようです。

そして近年「welfare(ウェルフェア)」から「well-being(ウェルビーイング)」へというスローガンがしきりに叫ばれている。

これを別の言葉で言えば、従来の「社会福祉」が憲法第25条(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。)に基礎をおいた、国民の”最低限度の生活”を保障するものから、憲法第13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)に基礎をおいた国民の”自由及び幸福追求”を助長するものへの変革と言えるかも知れない。

上記のようなことが叫ばれるのは大変結構なことであると私は思う。

しかし、そのような中で、貧富の差は広がり従来的な「社会福祉」の保証である「生活保護」の対象者は年々増加している。また、「生活保護」不正受給者がいる一方で、本当に、「生活保護」を必要とする人が、「自立支援」の名の下に保護を打ち切られたり、窓口へ行っても手続きをさせないなど、行政による弱者の切捨てが横行している。そのために最悪のケース、この”豊かな国日本”で餓死者が出ている現実がある。

また、老人の孤独死、年金問題、後期高齢者医療制度など、高齢者福祉についても問題は山積している。

問題は多く、しかも巨大である。しかし、まずは私たち国民の一人ひとりが「welfare(ウェルフェア)」について、また「well-being(ウェルビーイング)」について深く考えることからはじめてはどうだろうか。

私は「welfare(ウェルフェア)」と「well-being(ウェルビーイング)」という言葉に意味の違いがあると考えた場合、どちらも共に大切であると考えます。

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