『神の痛みの神学』を読む

「折伏」即「摂受」である

「神の痛みの神学」は痛みなき神を説く神学に対して「折伏」の役目を果たさねばならぬ。―中略―神の痛みの神学は二つの側面の真理を含むが故に、「折伏」もまた二つの側面に対してなされねばならぬ。第一には、神が徹底的に包み給う神たることをば否定する立場に対して。第二には、包み給う神の愛から神の痛みを押し出す立場に対して。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.29.(強調は原著者)

しかし、この「折伏」は神の痛みの神学によってなされるが故に、それは同時にまた「摂受」でもなければならぬ。痛みにおける神は徹底的に包み給う神であった。もしこの神がなんらか他の立場に対立し、これらを単に「折伏」するのみであるならば、それはすでに自己の本質から逸脱したことを意味するであろう。神の痛みは一応自己と対立する立場をも究極においては包み生かすのでなければならぬ。これすなわち「摂受」である。しかもその際単に包むのでなく、相手をしてその抽象性を自覚せしめ、これより脱却せしめて、具体的真理に化するごとくに包むのでなければならぬ。「折伏」即「摂受」である。

前掲書 pp.33-34.(強調は原著者)

※折伏(しゃくぶく)は、仏教用語であり破折屈伏(はしゃくくっぷく)の略であり、相手の間違った思想に迎合することなく、正しいものは正しいと言い切り、相手と対話を通じて仏法を伝えること。摂受(しょうじゅ)は、折伏(しゃくぶく)に対する反対語であり、正しくは摂引容受(しょういんようじゅ)といい、心を寛大にして相手やその間違いを即座に否定せず反発せず受け入れ、穏やかに説得することをいう。

ここに「折伏」即「摂受」であると表現されている議論、或いは対話の方法は、まさにヘーゲルの弁証法におけるアウフヘーベン(止揚)、すなわち「否定の否定」である。

また北森は、同じ文脈においてキェルケゴールの次のような言葉の引用している。

「枝の鳥、野の百合花、森の鹿、海の魚、そして無数の楽しげなる人間が『神は愛なり!』と歌っている。しかしこれらのソプラノの下にあたかも潜められたバスのごとく、犠牲(いけにえ)とせられ給いし人の『深き淵より』De Profundisの声が響く、いわく、『神は愛なり!』」

前掲書 p.32.

そして北森は、この「楽しげなる人間」のソプラノのみを歌い、「深き淵より」響く神の痛みのバスを聴く耳をもたない近代主義神学の論者たちに対して「友よ、この調べにはあらず!」と繰り返し述べている。

ここで注目すべきことは、この『神の痛みの神学』において北森は「折伏」されるべき近代主義神学の論者たちを「友」と呼んでいることである。

これこそが、真にキリスト教的な議論、対話のスタンスであると私は確信する。

友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

箴言17:17

また、恐らく理想的な弁証法は真にキリスト教的な人格においてはじめて成立するものであろうとも思う。

北森の「友よ、この調べにはあらず!」という言葉には、以下のような含みがあると私は考える。

友よ、この調べにはあらず!然るに我らの神は我らを友と呼び給う。故に汝は神の友であり我が友である。それ故我らは共に、心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、我らの神の御心の深みまでを探り求めようではないか。

北森はこう述べている。

およそ神学の性格を決定するものは、そのモティーフすなわち本音としての意図である。

前掲書 p.30-31.(強調は原著者)

そしてこの神学の「モティーフ」とは「神の痛み」であり、人間の「破れたる現実」を「徹底的に包み給う神」である。

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ゴルゴタにおいては「神が神と闘った」のである

 ルターによれば、ゴルゴタにおいては「神が神と闘った」のである。いかにしても罪人に死を命じ給うべき神とこの罪人を愛せんとし給う神とが闘ったのである。この神が別の神ではなくして同一の神であり給うという事実こそ、神の痛みである。ここでは神の中において心と心が対立したのである。「神は言うべからざる苦痛を嘗め、傷(いた)ましき手続を経、身を犠牲に供して、人の為めに赦罪(しゃざい)の道を開きたり」(植村全集第四巻三三二頁)。この「傷ましき手続」の解明こそ贖罪論に他ならぬ。―神の怒に撃たれて受けた我々の傷を癒さんとしたもう主は、彼御自身この怒に撃たれて傷を負い給うのである。「その撃たれし傷によりてわれらは癒されたり」(イザヤ書五三・五)。キリストの死は「死の死」 mors mortis (Luther,Rm.Ⅱ,153-154) である。主は彼御自身死に給うことなくしては、我々の死を解決し給うことができなかった。神はいかにしても包むべからざるものを包み給うが故に、彼御自身破れ傷つき痛み給うのである。神が我々の現実を包み給うということは、我々に絶対の平安を保証し給うということである。しかし、我々に絶対の平安を保証し給う主は、彼御自身から全く平安を奪われ給いし御方である。―「わが神わが神、なんぞ我を見棄て給いし」。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.28.(強調は原著者)

ここでは神の中において心と心が対立したのである。

このところから、私は我々人間の心についての黙想に導かれた。

すなわち、我々人間の心においても、ときとして「心と心が対立する」という自体が起こるという事実についてである。

この「対立」が耐え難いまでに高まったとき、我々は「心が病む」ということが起こるのではないかと私は思う。

しかし、この「心と心が対立する」という、人間にとって「悲惨な経験を通してさえ」、否むしろ、このような「悲惨な経験を通してこそ」、我々は、あらゆる悲惨の解決者なる「」の心に届くことができるのである。

」の心とは、「言うべからざる苦痛を嘗め、傷(いた)ましき手続を経、身を犠牲に供して、人の為めに赦罪(しゃざい)の道を開きたり」との心である。

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。―」と仰せられた。    創世記1:26

私たち人間の心と神の心には、もちろん「大きな隔たり」もあろうが、似ている部分もあると考えることは許されるであろう。

引用した創世記の箇所で、神の一人称は「われわれ」である。

この箇所の原語が複数形であることについては幾つかの説があるが、私はここで、この意味について、神は御自身のうちに「他者として対話しうる自己」を持っているのであると解釈したい。

この命題を、三位一体についての考察の一端として深めることは大変興味深い試みではあると考えるが、現時点での私には手に余るものである。

ともかく、、神は御自身のうちに「他者として対話しうる自己」を持っており、我々人間の心は、それと良く似た性質を持っているというのが私の考えである。

それゆえ我々人間にも、「神の痛み」を慮ることができると考える。

「神の痛み」を知る者は、我らのために痛み給うまでの「神の愛」を知り「絶対の平安」に満たされるであろう。

しかも、この「絶対の平安」には、確固たる「保証」が伴っている。

保証」とはすなわち、イエス・キリストの十字架の犠牲である。

「わが神わが神、なんぞ我を見棄て給いし」。この歴史上もっとも傷ましき叫びこそが、「我々に絶対の平安を保証し給う」のである。

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「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれ

 痛みにおける神は、御自身の痛みをもって我々人間の痛みを解決し給う神である。イエス・キリストは、御自身の傷をもって我々人間の傷を癒し給う主である(ペテロ前書二・二四)。
 この命題には二つの契機が含まれている。第一、我々の神はあくまで解決者であり癒し主であり給うこと。第二、しかしこの神は彼御自身痛みをもちを負い給う主であること。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 p.25.(強調は原著者)

以下引用はすべて前掲pp.25-26

第一の命題からは、「福音が文字通り喜ばしき音ずれである」ということがいえる。

 福音における神は、我々の痛みの解決者であり、我々の傷の癒し主であり給う。一言にしていえば彼は救主であり給う。

このように、まさにイエス・キリストが救い主であるが故に、私たちは彼を愛し、彼を「わが主」と呼ぶのである。

それでは救いとは一体何であろうか。

 救いとは、我々のこの破れたる現実を神があくまで包み給うという音ずれである。徹底的に包み給う神――これが救主なる神である。世にいかなる奇蹟があろうとも、神が我々のこの破れたる現実を包み給うということ以上に驚くべき奇蹟があろうか。我々の現実の破れは、望みなきまでに破れ果てたる破れである。しかし、福音は、「望みなき者にも望みがある」という音ずれ、――否むしろ「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。

私たちは、福音を理解するためにはまず、私たちの現実が「望みなきまでに破れ果てたる」現実であることを覚える必要がある。

次に「この破れたる現実」を「徹底的に包み給う神」を見ることこそ「福音の厳密なる理解」にとって重要なことなのである。

この福音は「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。

それ故この福音を信じる者、すなわちキリスト者とは「望みに逆らって」(ロマ書前四・一八)信ずるのである。

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「痛みにおける神」の神学とは

 私にはこの福音の心は、神の痛みとして示された。この示しに従うことは預言者エレミヤの途を辿ることであった(エレミヤ記三一・二〇参照)。エレミヤは「最も深く神の心を見た」人である(キッテル)。私は彼と共に神の御心の深き所へまで入りゆくことを許されて感謝に満たされる。――エレミヤは旧約のパウロであり、パウロは新約のエレミヤである。パウロに示されたる「十字架における神」は、エレミヤにとっては「痛みにおける神」である。エレミヤの神はパウロの神への予言であり証である。「十字架における神」の御心が晦(くら)くされる時には、「痛みにおける神」の神学がその証として奉仕することを要求されるであろう。――神学とは福音の厳密なる理解にほかならぬ。この点よりすれば、ガラテヤ書を書いたパウロは、もっとも的確なる意味において神学者である。ガラテヤ書ほど福音を厳密に理解したものは他にないからである。エレミヤは「神の心をもっとも深く見た」かぎりにおいて、彼もまた福音のもっとも厳密なる理解者といわねばならぬ。

北森嘉蔵 『神の痛みの神学』 講談社,1999.4  第14刷発行 pp.24-25.(強調は原著者)

※北森による参照聖書箇所エレミヤ記31章20節を文語訳聖書で見ると「我腸(わがはらわた)かれの為に痛む」とある。新改訳では「わたしのはらわたは彼のためにわななき、」。この聖書箇所こそ北森における「神の痛みの神学」の端緒である。

北森によれば「神学」とは「福音の厳密なる理解」であり、これはすなわち「神の心を深く見る」ことである。

私の理解ではすべてのキリスト者は神ご自身によって、「神の心を深く見る」ことに招かれている。

これは言い換えれば「福音の厳密なる理解者」であるようにと招かれているのである。

そして、福音が十字架の出来事と不可分であることを考えるとき、福音には不可避的に「痛み」が含まれるであろう。

この「痛み」とは、他でもない「神の痛み」である。

ところで、哲学者の中村雄二郎は『臨床の知とは何か』の中で「自然科学の知」に対して、それではとらえきれない「知」として「臨床の知」があり、この「臨床の知」は「受苦の知」「情念(パトス)の知」であるということを語っている。

『神の痛みの神学』が「痛み」に関する「学」であることを覚えるとき、これは中村における「受苦の知」「情念(パトス)の知」に関わる「学」であると考えることができる。

そして「受苦の知」「情念(パトス)の知」による「学」とは、「机上の学」ではなく「実践の学」である。

「実践の学」においては研究者は対象から遠く離れて冷たい眼で眺めることは許されない。

よって「福音の厳密なる理解者」でありたいと願う我々は、福音から遠く離れて冷たい眼で眺めるのではなくて、その只中に「自らを深く埋没させて」いくべきなのである。

福音の只中に「自らを深く埋没させる」というのは福音そのものであるイエス・キリストの内に「自らを深く埋没させる」ことに他ならない。

ここに「キリスト教は健全なる神秘主義以外の何ものでもない」というヒルティの言葉が想起される。

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「隈なく澄んだ眼」こそ

北森嘉蔵先生による『神の痛みの神学』を初めて読んで後、私はキリスト教神学こそがこの世で最も興味深く、また学ぶ価値の在る「学」であるという個人的な確信に至った。

それ以降、なるほど私はその他の幾つかのキリスト教神学に関わる素晴らしい著作に出会い、多くの気づきや確信を与えられているのであるが、今なお、私が「神学する」という、その根底にはこの著書の影響が大きい。

そこで、改めてこの著書から感銘深い文章を抜き出して、願わくばこの名著の読者を新たに加えることに一役買いたいというのがこのシリーズの狙いである。

今回は第1回ということで、『神の痛みの神学』の冒頭の文章をご紹介したい。

 我々は神の御心をつぶさに知り(コロサイ書一・九)、神の深き所まで究(きわ)め(コリント前書二・一〇)、福音の心を洞察せねばならぬ。この念願は次のごときキェルケゴールの祈りをばまた我々の祈りたらしめる。

主よ!無益なる事物に対しては
我々の眼を霞(かす)ましめ、汝のあらゆる
真理に関しては我々の眼を隈なく
澄ましめ給え。

 この「隈なく澄んだ眼」こそ福音の証人に対して要求されるものである。神学が福音への証(あかし)であるかぎり、この眼こそ神学的感覚にほかならぬ。この眼がないかぎり証人は単なる視幻者に過ぎず、この感覚がないかぎり神学者は単なる饒舌家(じょうぜつか)に過ぎない。
 ことは福音に関するのであるから、この眼この感覚があくまで神から与えられるものであることは、明白である。決して我々自身の持つ眼や感覚ではない。「功なくして」与えられる賜(たまもの)である。しかし我々は与えられたこの賜を地中にかくして置いてはならない。(マタイ伝二五・一八)。これを鋭くし、いよいよ隈なく澄まさねばならぬ。――確かにこれを澄ませ給うのも神である。しかし我々は「いよいよ隈なく澄ましめ給え」と祈り求めねばならぬ。(強調は原著者=北森)

このような神学或いは福音に対する真摯な態度は、たとえ神学的にはこの『神の痛みの神学』を批判する立場の者であったとしても、彼が自らをキリスト者であるとする者であったとすれば、必ず見習うべき態度である。

また、もし批判者がキリスト者でなはない場合には、端(はな)から「相手にもならない」者として斥けられてしまう真剣さと力強さが、この文章にはあると私は考える。

このような態度こそ、キリスト教神学に対する、正しいキリスト教的な態度である。

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